4.


「あ、寺坂くん!」

15時半。家に迎えにいくと言ったのに、新稲は家の玄関に立って待っていた。巾着袋を持っている腕を挙げて、手を振っている。着ているのは浴衣だ。淡い水色の、菊の花が散りばめられている浴衣。

「寺坂くんもちゃんと着てくれたんだね、浴衣」

草履をぺたぺた鳴らしながら、小走りで近寄ってくる新稲。幾分か下にある顔を見下ろせば、新稲は笑顔で俺の顔を見上げていた。

昨夜母親に無理を言って浴衣を探してもらったが、見つけたものは成長期を迎えた俺にはもう似合うものではなかった、つまり短くなっていた。

「父親のだけどな、これ」
「お父さんのなの?じゃあ汚しちゃダメだね」
「まぁクリーニング出すけどな」

なんてどうでもいい話をしながら、新稲の手を握り歩き出す。最初は手を握ることさえ躊躇していたのに、今じゃ当たり前のように握っている。慣れというのは怖いものだ。

「ちゃんとお金変えてきたの、みて、全部100円玉」

繋いでない方の手にぶら下がっている巾着袋、それを開いてみれば確かに中には100円玉がたくさん入っていた。一人2000円まで出そうと約束していたのだが、この中には100円玉が20枚入っているのか。どうりで金属音がするわけだ。

「重いだろ」
「大丈夫、どうせ軽くなるもん」

まぁ、それはその通りなのだけど。







「寺坂くん、次は何する?スーパーボール掬い?」
「なんだそのチョイス」

手にはチョコバナナ、手首には先ほど射的で手に入れたキャラメルがたくさん入っている袋がぶら下がっている。千葉たちみたいに簡単には取れなかったあのでかいタコの人形、新稲には申し訳ないが次はとるわと約束をして離れた。その代わり流れ玉が当たったことにより落ちたキャラメルが手に入り、新稲はとても喜んでいる。

人ごみの多い祭り会場。浴衣を着て歩いている男女は俺の想像以上に多くいた。男で浴衣なんて恥ずかしいと思っていたが(じゃあなんで着たんだと言われたら、新稲が着て欲しいと言ったからだ)、案外そうでもないらしい。

「金魚掬いしたいけどちゃんと飼育できるかな」
「難しいよな、とった後のこと考えると」
「そうそう、昔やったけど1週間で死んじゃった」

祭り囃子の音が響く。人の話し声や子供の泣き声でうるさい中でも新稲の声だけはきちんと俺の耳に入るから不思議だ。二人してどうでもいいことを話しながら歩き、スーパーボール掬いの前を通り過ぎた。

「もうそろそろ花火見れる場所取りに行こうか、座れなくなっちゃう」
「そうだな、まだ歩けるか?」
「うん、大丈夫だよ」

いつかのように。
俺は新稲を引っ張って歩いていた。いつもクラスのブレーンだったこいつを、いつから俺が支えていたのかは覚えていない。なぜ支えようと思ったのかも忘れた。だけど、俺はどうしてかこいつの、新稲の壁になりたいと思っていた。

人の間を抜いていくように歩く。花火が見れる会場に着けば、そこには同じように早めに来たのだろう人たちで埋め尽くされていて、もう少し遅れていれば座ることも困難になっていただろう。

「ここらへんでいいか」

丁度人がまばらになっている芝生の箇所。周囲と適度に距離を保ちながら、地面に袋を敷いて座らせる。まぁ、どうせこの微妙な隙間部分も人で埋められてしまうのだけど、それは仕方ない。

「焼きそば食べよ」

新稲の隣に座れば、新稲は俺の手にぶら下がっていたさっき買った焼きそばを取り出して、笑顔を浮かべた。割り箸は二膳。焼きそばの他にたこ焼きもある。祭りの王道だ。

「花火楽しみだね、寺坂くん」
「そうだな」

焼きそばを食べながら新稲は空を見上げた。
夏の夜は遅い。まだ夕焼けにもなっていない空は、太陽がうっすらとだけ見えていて。風が少し吹いているぐらいで十分に暑いその空気は、いずれ夜になると同時に冷えるのだろうか。夏は夜でも暑い。それはないな。

俺と新稲の間においた焼きそば一つ、頭を近づけながら食べていれば、新稲が不意に俺の顔をみた。近いその存在に目を見開く。一本ゆっくりと吸い上げた新稲は、思わずと言った形で笑って、俺も同じように笑いながらもう一度焼きそばに口をつけた。



新稲と祭りに行くとなった時、誰から聞いたのかカルマのやつが連絡を寄越した。文面はこうだ。『ついに新稲ちゃんと初キスってわけ?』ニヤニヤ笑っている悪魔のスタンプ付だ。なんとも言えない悪趣味だなと俺はこめかみが震えるのを我慢してしながら返信した。

『初じゃねえ』

俺らE組のクラスの奴らは全員ビッチによってその初体験を奪われている。中には初ではないやつもいたかもしれないが、とにかく奪われているのだから俺はもう経験済みだ。

『殺せんせーのアドバイスブックに載ってるかもしれないから探してみなよー下手なキスして新稲ちゃんに嫌われたくないだろ』

せめて10Hitは与えないとね。

そのキスで攻撃表示をするところがやけに懐かしく感じた。絶対に高校の同級生には伝わらないそれ、俺は既読をつけてうるせえと書かれたゴリラのスタンプを送って携帯の画面を閉じた。

机の上に置いてあるやけに分厚いアドバイスブック。確かに身になることや納得すること、知りたかったこと、全てが書いてある全能の辞書ともいえるそれ。俺は恐る恐るその本に手を伸ばして、何千ページあるんだかわからないそれをめくって行った。

「...あるじゃねーか本当に」

そこには、キスの仕方と書かれていた。




寺坂くんは少々力が有り余っていますので、優しさを忘れてはいけません。勢いに任せてしまえば、折角の機会を台無しにしてしまいますよ。

まずはその時が来たらゆっくり手を伸ばして、新稲さんの頬に手を添えてください。



「なんで新稲って書いてんだよ」

思わず俺は本に突っ込んだ。1年間毎日うざったくなるぐらいみてきた黄色のタコのにやけ顔が目に浮かぶ。似せようと書いたのかそうじゃないのかわからない男女の絵が、やけに腹立たしかった。



新稲さんが君の名前を呼んだら、彼女の名前を囁いてください。
サチ、と。








そもそも俺と新稲は、下の名前で呼んですらいなかった。

焼きそばを食べ終えて満足したのか、次はたこ焼きに手を伸ばす新稲の顔を見つめる。キスする以前の問題として、名前で呼び合うべきなのでは?そんな疑問を持っているとはつゆ知らず、新稲はニコニコと笑いながらたこ焼きのパックを開けて、一人美味しそうにそれを頬張った。

「寺坂くんも食べるでしょ?はい」

あーん、と言いながらたこ焼き一つを俺の口に入れる新稲。
もぐもぐと口を動かしてそれを飲み込めば、新稲はにこりと微笑みを俺に見せて、首をかしげた。

俺が考えてることなんて全部知らないんだろう、純粋な目で見上げてくるそれに、俺は思わずデコピンをかましてやった。





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