蜘蛛の糸に絡めとられた蝶は

「我が儘を云わないでくれないかな?」

 ビリ、と紙が裂かれる音が響く。部屋の中心に立つ私の前の机の向こう側、革張りの椅子に腰かける太宰が、此方を見もせずに細かく破く紙は、まるで私の心情を表しているかの様だ。

「君には他の仕事を与えている筈だけど」
「然し、私も一構成員です。任務が無いと云うのは……」
「事務仕事すら碌に出来ない構成員が何の役に立つ?冗談も程々にし給えよ」

 ぴしゃりと云われ、口を噤む。ビリ、ビリと、彼の手の中で紙が粉々に為っていく。椅子ごと横を向いた彼の顔はよく見えないが、非道く冷たい雰囲気なのは判った。

「話は終わり?」
「……はい。失礼しました」

 もう無理だろう、と悟った私は一礼し、くるりと踵を返す。すたすたと、なるべく早足で立ち去ろうとした。
 部屋を出るまで、後ろから視線を感じる。錯覚だろう―――そう思うにはあまりに鋭い視線の気配を感じていた。




 冷たい目をして嗤う人だ、と聞いた事は有る。顔は笑っている。然しその目は冷たく凍っているのだ、と。
 私は、あの人がそんな笑顔を浮かべているのを見た事が無い。否、そもそも笑顔を見た事が無い。あの人は私の前では笑わない。何時も何時もあの冷たいだけの眼差しで此方を射抜く。
 それが、ただただ私を不快にさせた。人じゃないものを見る様なあの視線が嫌いだった。




 蜘蛛が巣を張っていた。餌はまだ罠に掛からず、巣の主はきっと腹を空かして居る事だろう。

「よ、名字。また地下牢の掃除かよ」
「中原さん」
 先輩の姿に顔を綻ばせる。中原はひらひらと手を振り、此方へと歩み寄ってきた。任務の直後なのだろう、少し血の匂いがした。

「何だ、さぼりか?」
「違いますよ。掃除が終わったので、蜘蛛の巣を眺めていたんです」
「……それ終わってねえじゃねえか」
「これは取ってはいけないですよ。可哀想でしょう。餌を取る事も無く死ぬのは」
「何だそれ」
 呆れた様な顔をされた。……何か可笑しな事を云っただろうか。

「だったら、食った後なら殺すのか?」
「そういう訳じゃありませんけど。可哀想です」
「……本当変わってるよなァ。流石は太宰の側近だ」
 中原の言葉に顔を顰める。側近?冗談ではない。

「私が側近ですか?太宰幹部の?」
「?……ああ。なんか可笑しい事云ったか?」
「私がしているのは雑用ですよ。側近なんて」
「……だがあの野郎、手前に随分目ぇかけてんじゃねえか」
「え?……そんな筈ありませんよ。私はあの人に嫌われていますから」

 何時も私を見据えるあの目、あの凍った目を見れば、誰だってそう思う筈だ。然し中原は驚いた様な表情をし、その後何かに気付いた様に顔を歪めた。

「……あー……」
「中原さん?」
「……難儀だな、手前も」
 首を振り、立ち去ろうとする。その様子に、言葉の意味を訊きそびれる。

「もう手遅れだろうが、云っておく」
「……?」
「蜘蛛の糸に、引っかかるなよ」
 それだけ云い残して、さっさと立ち去ってしまった。後には呆然とした顔の私と、静けさだけが残されていた。
 蜘蛛の糸はまだ空っぽの儘、僅かに揺れていた。




「…………太宰幹部が?」
「ええ、良くして下さっているわよ」
 久々に家に帰ると、母が夕食を作ってくれていた。
「あの方重役なんですって?すごいじゃない若いのに。貴女もそんな人の部下なんて頑張ってるわね」
「あの人と会ったの?」
「偶に此方にいらっしゃるわよ」

 幹部なのだから、部下の住所位知るのは簡単な事だ。問題は其処では無かった。私の家族に会う理由など無い筈だ。有るとすれば―――。
 家族、だけなのだろうか。そう考え、寒気が奔った。他に何を、自分の弱みを握られているのか。

「何か、話してた?」
「貴女の事よ。それにしても、仲が良いのねえ。彼、貴女の事何でも知ってて」

 否、考え過ぎだ。何を自意識過剰になっているのか。部下の弱み?自分の様な者など、面倒事に為れば処分すれば良い話だ。然しそう考えると益々判らなかった。

 中原の言葉が頭を過った。底知れぬ、恐怖の様な何かが有った。
 自分が虫の様に感じた。蜘蛛がその気になれば何時だって殺される、そんな虫の様に。




『せっかくの働き者なのに任務にも出さずに居るのは勿体無いからって、君の事を欲しがる人が居てねえ。太宰君から聞いていないかい?』
 それは全くの偶然だった。エリスの後を追いかける首領に出会い、挨拶し、何の気も無しにその話を聞いただけだった。
 良い機会だと思った。私があの場所に居ても意味は無い。大体、今まで異動が無かったのが可笑しかったのだ。
 然し、本音を云うと、あの人から離れたかっただけだった。
 
 ―――――餌になど、なりたくなかっただけだ。




 地下のひんやりとした空気が、頬を撫でていた。しゃがみ込んで、ただぼんやりと蜘蛛の巣を眺めていた。相も変わらず、巣には獲物など掛かって居なくて、空っぽの儘小さく揺れていた。
 足音が聞こえた。ゆっくりとした足取り。地下に降りて来たそれは、私の直ぐ後ろで止まる。

「休憩かい?名前。良いご身分だね」
「……太宰幹部」
「異動願を出したそうだね。私を通さずに」
「……」

「受理されなかっただろう?」
「……何故、ご存知なんですか」
 太宰は直ぐには答えなかった。私の隣に何かが投げ捨てられる。首領に出した筈の書類が転がっていた。握り潰した跡があった。

「直接断ってあげたのだよ。君みたいな未熟者が行った処で出来る事など無いからって。前から何回も下らない文書を送って来てたからさあ。最初からそうすれば良かった」
 太宰が執務室で処分していた紙がそうだったのだろう。紙片が舞う様子を思い出す。

「……家族が、貴方に会ったそうですね」
「美人なお母さんだったね。君と違って」
 揶揄する言葉は何時もの物なのに、声だけが何時もより、何かが違った。


「…………貴方は」
「名前」


 太宰が私の言葉を遮る。声が絡みつく様な錯覚を起こす。


「何処へ行こうとしたの?名前」
「……私、は」
「私から、離れて、何処へ逃げようとした?」


 振り返る。何時もの視線が、ただ私を見下ろしていた。暗くて濁った目が、まるで飢えた蜘蛛の様な目が。




 私の周りはもう、蜘蛛の糸で囲われていた。其処は中にさえ居れば何にも気づかなくて、動かなければ生きていられた。でも一度気付いてしまうと終わりだ。動いてしまえばそれは確実に絡まって、もう逃げ場など無くなる。

 否、最初から無かった。逃げる場所なんて。私は虫だ、と思った。私は、哀れな蜘蛛の、無力な餌だった。
 感情の無い顔を見上げる。この顔が笑う処など見た事が無いし、おそらくこれからも見る事は無い。餌を前にした蜘蛛は、笑ってなどいなかった。

 蜘蛛が笑うとしたら、それは、餌を喰い尽くした後だろう。喰い尽くして、餌の凡てを自分の物にした後、たった独りで嗤うのだろう。




 私を捕らえる手を拒む術など無かった。腕の中に閉じ込められて、唇に深く噛み付かれ乍ら―――嗚呼、自分は虫の様だ、ともう一度だけ思った。

(2016.11.22)
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