その言葉に救われたから

 それは今から一年前。

 その人に初めて逢ったのは、この組織に入った日だった。

 目的の人物を見つけた私は、声をかけるかどうか迷った。彼はバケツに汲んだ水で雑巾を絞っていた。掃除なども構成員がやるものなのか、と少し的外れた事を思った。

「今日からだったか」

 そんな私に気づいたのだろう、彼が云った。掃除をしていた手を止めこちらを振り返る。

「本日からお世話になります、名字名前と申します。貴方の元に行くよう首領から承りました」
 軽く礼をし、挨拶をする。彼もそれを聞いて頷いた。
「ああ、聞いている。俺はお前の上司というか……まあ、教育係のようなものを任された。宜しく頼む」

 早速で悪いが、の言葉に頷き、仕事の内容を聞いた。記念すべきでもない私の初仕事は、猫探しだった。

「掃除は良いのですか?」
「ああ、時間があればやっておいてくれ、と頼まれただけだしな……ああ、それと」

 掃除用具を片付け始めたので手伝おうと近づくと、彼は少し表情を緩めた。

「織田だ。織田作之助。織田作で良い」




「それにしても珍しいこともあるものだ。俺に部下ができるとは」
「そうなのですか」

 猫探しは存外早く終わった。迷子の猫はただ遠めの散歩に出ていただけなのだろう、自分で自分の飼い主のもとに戻ってきていた。生真面目に「ご無事で何よりでした」と飼い主に云っていた織田作の姿が未だに頭から離れない。

「私はこの前まで一般人でした。こうしてマフィアに入っていることなんて、それこそ珍しいを通り越して……奇跡、と云ったら変ですが」
 織田作が少し眉を上げる。
「……何故マフィアに?……ああ、話しても良ければだが」
「何も特別な理由なんてありませんよ。両親が亡くなった私のもとに、勧誘が来たのです――――ポートマフィアに入らないか、と」
 今でも其処にいる感覚と云うか、自覚など無いのだが。

「私が不思議な力を持っていると、その頃から近所で噂になっていました。……人殺しの、異能です」
「……」
 織田作が此方を見つめる。私の異能力のことについては聞いている筈だった。

 ――――――異能力「桜散りゆく」。触れた物の寿命を吸い取り、桜の花弁へと変換する、というものだ。

「でも、連れてこられた私は真っ先に云いました。『人は殺したくない』と」


 ――――――『人を、殺すのだけは、厭です』


「殺されるかと思ったのですが……首領は笑って……『では織田君に面倒を見て貰おう』と」
「ああ、それで、か」
 織田作が納得したように頷いた。
「俺も同じだ。『人を殺さないマフィア』」
「……!」
 そんな人がいたのか。況してやそれが目の前の人物だったとは。

「理由はあるのか?」
「……理由ですか」
「殺しをしたくない理由」
 思わず目を伏せた。それを訊かれるのが初めてだった訳ではない。首領にも同じ事を訊かれた。――――でも、答えられなかった。

「無いのです……理由」
「?」
「人を殺したくない。でも、理由なんて無い」
 それが本心だった。理由なんて無い。自分でも何で嫌なのか判らない。

 人の死を悲しんだ事など無かった。

 物心付いた時から、否、おそらくは生まれた時から、人や物の寿命のようなものを感じていた。それが能力によるものだと直ぐに気付いた。
 視覚的に見える訳ではない。ただ、感じるのだ。寿命が永いものは「重い」或いは「大きい」何かを感じ、その逆は「軽く」、「小さく」感じる。

 人の寿命が判る私には、人が死ぬのは当たり前の事で、それは来るべき物だった。それが家族でも、他人でも変わらなかった。

 人が死ぬ事に、何の感情も湧かない。

 それなのに、人を殺すのは嫌だと。自分の心が云っている。

 そんな不確かな感情だからこそ、不安に思われる時もあった。

「理由が無いのです。だから……私は何時か人を殺してしまうと思う」
「……」
「きっと、それにも、理由は無く」

 織田作は黙って私の話を聞いていた。
 沈黙が広がる。でもそれは、気不味い物では無かった。織田作は私の話を聞いて何かを考え、私は黙ってそれを待っていた。

「別に理由なんて、大した物じゃなくて良い」
「え?」
「俺だって、そんなに立派な思想の下に生きている訳じゃない」
「……」
「それに、お前は多分、人を殺しはしない」
「……何故?」

 問うと、彼は肩をすくめて云った。

「ただの勘だよ」
「……何ですかそれ」

 力が抜けてしまった。―――でも、不思議と心にそれは響いた。何の根拠も無いけれど、彼が確かに信じてくれているのが判ったからだ。

 其の侭二人、並んで歩いて行く。先程よりも、自分の足取りが軽い気がした。

(2016.11.25)
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