夢が誓いになるならば

 それは、何時(いつ)とも知れない記憶。

「お母さん」
「なあに、名前?お腹すいたの?」
「違う、絵本」

 最低限の事しか云わない少女に、ああはいはいと返事をして、母親が本棚から絵本を取ってきた。絵本を受け取った少女はありがと、とだけ云い、部屋の隅へと駆けて行った。
 それから、数刻が過ぎる。日は沈み、辺りはすっかり暗くなっていた。

「ご飯よー、名前」
「はーい」
 これで何回目だっただろうか。
 返事をするものの、絵本から全く目を離さない少女の手元から、突然絵本がふわりと浮いた。

「母さんを困らせるんじゃない」
 言葉こそ少女に負けず劣らずぶっきらぼうで、しかし確かな優しさがある声が、苦笑する。
 取り上げられた絵本を取り返そうと立ち上がった少女の額を、取り上げた本人である父親は指で弾く。

「うー」
「ほら、飯だぞ」
 父親に手を引かれ、少女は食卓へと向かう。母親がその様子を見て微笑む。

 それは、まだ私が、―――――だった時の記憶だ。




「えっと……この本は何処ですか、織田作」
「そっちの棚だ」

 織田作の下に付いてから一年、私達は相も変わらず組織の雑務というか、使い走りというか、そういう仕事をしていた。今日の仕事は図書室の蔵書の整理だ。普段一人で司書がやっているが、こうして偶に手伝いを求められるらしい。

 おそらく、いや確実に、組織の中では最底辺の仕事なのだろうけれど、私にはあまり関係は無かった。それに、本は嫌いではない。

「名字、少し休憩しよう」
「此処が終わったら……」
「数時間作業したんだ、休まないと倒れるぞ」

 呆れられた。そういえば休憩を呼び掛けられても生返事で、其の侭作業を続けていた。
 大人しく休憩する事にして、床に座り込んだ。椅子に座れよ、と云いながらも、彼も隣に来る。

「昨日の依頼はどうだった。構成員の親族の依頼だったな」
「桜の件ですね。直ぐに終わりましたよ。ただ……」

 ―――逢いたくない人に逢ってしまいましたが。

 その言葉を呑み込む。太宰は織田作の友人だ。あまり変なことを云って織田作を困らせたくは無かった。

「……そういえば、訊こうと思ってたんだが」
 織田作が徐に切り出した。
「本、好きなんだな」
「……え?」
 変な声で返事をしてしまった。咳払いをして話す。

「そうですね、本は好きです。小さい頃から」
「ほぅ」
 織田作は何となく、といったように一冊の本を手に取り、ぱらぱらと捲った。

「何時もと表情が違ったからな」
「あ……私、笑っていましたか?」
「いや?そう云う訳ではないが」

 彼の手元の本を見る。それは、昔読んだ事のある小説だった。

「本は良いです。なりたい自分になれる」
「なりたいものがあるのか?」
「……その小説」
 ぱらぱら捲られる本を指さす。
「孤児院で働く、女の子の話です」

 主人公の少女は幼い時に両親を亡くす。その事が少女の人生に影を落とすものの、少女は自分と同じ様な境遇の子供達が集まる孤児院で働き、彼らに希望を与えていく、と云う話だ。

 その話が、何処か胸に響いた。勿論創作に過ぎない事は判っていたが、明るい主人公と、どんな境遇でも立ち直っていく子供達が、私には輝かしい物に見えたのだ。

 私も、こんな事が出来たら、と思った。希望に満ちた子供達。その姿を見たいと思った。それは、都合の良い幻想かもしれないけれど。

「孤児院で働きたいのか」
「……子供の面倒を見たり、とか、出来たらと」
「そうか」
 織田作は目を閉じた。


「――――お前も、夢があるんだな」


「……織田作?」
「……何でも無い」
 何処か安心したような表情の彼に、違和感を覚えるが、返事をした彼は何時もの表情だった。

「お前、云っていただろう」
「?……何をですか」
「理由が無い、と」
 そう云えば、織田作とそんな話をした。初めて彼と仕事をした日。覚えていた事に驚き、何故今更そんな、とも思った。

「それを理由にすればいい」
「……これを?」
「ああ。立派な理由だ。血塗れた手で、子供には触れられない。孤児院で、子供の世話をするために、殺しはしない、と」
「……それは」
 
 ―――それは、自分では思い付きもしなかった事だった。考えれば考える程、それはとても素敵な案に思えた。

「それは……理由でもありますし、誓いにもなりますね」
「だろう」
「……ありがとうございます」

 私がそう云うと、彼はふっと息を吐いた。少しだけ笑ったのだ、と気付いた。

「さあ、もう少しだな。片付けてしまおう」
「はい」


 残りの作業を熟し乍ら、先程、初めて出来た―――ずっと、欲しいと思っていた―――『理由』に、私の心が少し、いつもより明るくなるのを感じていた。


 ―――思えばこの人の言葉に救われてばかりだ、と思った。不思議な人だ。何時かこの人に、その恩を返せる日なんて来るのだろうか。

(2016.11.30)
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