その強さを信じるから

「ねえ、織田作」

 其処はいつもの酒場だった。酒を頼むと、先に座っていた太宰が声をかけてきた。俯いて酒杯を手で弄び、その表情はよく見えない。

「あの子、どんな子に見える?」
 あの子とは、と訊くまでもなかった。少し考えた後に答える。
「名字か……そうだな」

 名字名前。一年程前から私の部下になったこの少女は、今や自分よりもよく仕事を熟す。初めの印象は表情があまり無い娘、だった。然し、話してみると、見た目よりも素直な少女だと判る。

「真面目な娘だな。口数も少ないし余り感情を面に出さないが、話すと結構よく喋る。それに―――」
 夢を持っている。それは自分と通じる部分で、少し微笑ましくもあった。

 それを太宰に伝えると、聞いているのかいないのか、先程より顔は上げたものの、相変わらず酒杯を眺めている。

 その口元には笑みが浮かんでいた。

「夢……夢、ねえ」

 可笑しくて堪らないといったようにクツクツと笑う。如何したのかと尋ねようとすると、先に向こうが口を開いた。

「織田作。お願いがあるんだけどさあ」
 甘える様な声で云われる。その表情は、玩具をねだる子供の様だ。


「―――――あれ、私に頂戴」


「……つまり、部下に寄越せと云う事か?」
 努めて、平静な声を出す。太宰はんー、と声を上げた。
「まあ、そうだよ。うん、その通りだよ。あの子を私の直属の部下にしたいと思ってね」
「成る程……然し、何故だ?……云っておくが名字は、実戦は」
「あの子優秀なんでしょ?事務仕事も溜まりがちだし、それを任せたいなあって思っただけだよ。大丈夫。彼女に戦闘なんてさせないさ!」
 明るい声で云う太宰に、何処か違和感の様な物を感じた。然し、それが何なのかを掴む前に太宰がまた口を開く。

「まあ、もう手続きは済んでるんだけどね。事後報告になっちゃったけど」
 幹部ともなればそのくらい如何と云う事は無いのだろう。然し、何処か、太宰らしくは無い、と思った。
「なら、先刻訊いたのは何だったんだ」
「別に?……唯、ね……」

 太宰が漸く此方を見る。そこでやっと、違和感の正体に気付く。――――その目には何か云い様の無い光が浮かんでいた。

「……太宰」
 思わず、訊いていた。自分でも判らない焦りの様な物が胸に広がっていた。
「お前……名字を、如何する心算なんだ?」
 太宰が薄く笑う。まるで世間話でもする様な調子で話し出す。

「喜怒哀楽と云うのはね?織田作。切っても切れない物なのだよ」
「?ああ、そうだな」
 確かに、その通りだ。喜びがあるから悲しみがあり、悲しみがあるから喜びがある。だが、何故今そんな事を。

「あの子はね。人を失う悲しみとか怒りとかが判らないと云う。理解出来ないと」
「……ああ」
「でもねえ」

 それは、嘘だよ。そう、囁くように太宰が云う。

「それを教えてあげるんだよ。それを自覚できなきゃ、あの子は生きる理由さえ、何時か失くしてしまうよ」
「…………」
「……ふふ、…………彼女、


――――――何処まで壊れずに持つかなあ」

 太宰はもう、此方の事を見ては居なかった。その目は何かを、誰かを見つめている。

「名前ちゃん―――名前は、名前なら」

 何処か崇拝する様に、太宰が彼女の名前を呼ぶ。


「きっと、壊れる前に、私を―――――」


 太宰の言葉は、私がそれ以上踏み入る事を許さない響きがあった。私も今まではその心算も無く、更に、こう云う事は今までにも有った事だった。

 然し―――その日は、少しばかり違っていた。私は更に口を開く。

「壊れないさ」
「……?」
 
 太宰がきょとんとした顔で私を見た。私ははっきりとした口調で云った。

「あの娘は壊れない。絶対に」

 ――――それは、私の中では、確固たる事実だった。彼女は、壊れない。

 嘗て、何時か人を殺してしまう、と語った少女の横顔を思い出す。
 
 それはきっと無いのだろう、と思った。当時は根拠など無かったが、今ははっきりと判る。

「……何故、そう云い切れる?」
「お前も、彼女を見ていれば、判る」

 太宰はそっと瞬きした。そしてふっと視線を逸らす。

「……そう」

 それだけ云って、また酒杯を弄び始める。まだ判らないのだろう、と思った。

 彼女の強さは、傍に居ないと判らないものだ。



 それからまたいつもの夜に戻り、私達は他愛ない話をした。名前の事は、それからは話題には出さなかった。


 ただ、先刻の確信だけが、私の胸中に残っていた。

(2016.11.30)
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