心も躰も共に散って

 それからの日々は、以前と比べて、平穏、とは云い難かった。太宰の下で、私は普通の事務仕事だけではなく、偶に現場へも連れ出された。尤も、それは後処理の仕事で、私自身が誰かを殺す様な任務では無かったし、自分の異能力を使うものでも無かったのだが。

「名前〜、私これやらなきゃ駄目〜?」
「当たり前です、幹部でしょう、このくらいの書類さっさと片付けて下さい」
「こう云うのはほら、有能な部下がやってくれるものじゃないかな」
「下手に部下にやらせるより早いでしょう、貴方の方が」

 えー面倒臭い、と唇を尖らせる太宰を放っておいて、書類を纏めに掛かる。今日も仕事は多い。幹部である太宰の元へ届けられる書類は山が作れる程だった。

 ―――と、背中に何かが伸し掛かる。

 その重みに息が止まりそうになる。何時まで経っても慣れない温もりが、背中に広がる。

「まだ私の事、殺してはくれないのかな?」

 耳元で聞こえる声は笑いを含んでいて、この人が毎晩囁いて来る睦言と同じ温度だった。

「…………」

 無言で振り払った。書類を乱暴に纏めると、部屋を出る。
 後ろから聞こえる小さな笑い声を振り払う様に、音を立てて扉を閉めた。


 ―――――嫌いになりたい。嫌いになれたらどんなに良いのか。

 あの男は多分、態とやっているのだろう。嫌いになれと云いながら、その実、乱暴に扱われた事など無く、此方の感情だけが勝手に積もっていく。

 もうこれは憎んでいるのと同意ではないか―――然し、確かに違う事を私だけが知っている。

 如何にかなってしまいそうだった。募りに募った苦しさだけが、私の心に巣食っていた。


 ――――いっそ。

「ああ、名字ってお前の事か?」

 不意に、後ろから、知らない男の声がかかった。振り返ると、其処には黒服の男が一人で立っている。

 ――――いっそ、人を殺してしまおうか。

「太宰幹部に届ける書類が有って……丁度良いからお前に頼んでも―――」

 そうすればあの人ももう、付き纏っては来ないのではないか。人を殺しても変わりなく生きる姿を見せれば、きっと興味を失ってくれる。もうこんなに苦しい思いをせずとも良い。

 吸い取るだけで良い。簡単だ。無意識に手が伸びる。その手が男に触れる。
 否、触れようとした。



『お前は多分、人を殺しは―――』
 ――――――誰かの声が聞こえた。



「―――――駄目だよ」

 背後から、腰に腕が回される。伸ばした腕は掴まれて戻された。体も思考も止まった気がした。

「それ、任務の報告書だね?貰うよ」
「え……あ、はい」

 私を抱き込んだ侭の太宰に書類を渡し、黒服の構成員は去っていく。その背を見つめていると、太宰に腕を引かれた。
 其の侭執務室まで戻される。其処で漸く解放された。彼が振り向く前に背を向ける。

「私の異能力が反応しなかった。出来もしないのにやろうとするものじゃない」
「……貴方が来るのが早かっただけです。もう少し遅ければ、異能力を使っていた」
「虚勢を張るのはやめ給えよ」
「虚勢、じゃない」

 声が震える。両手は拳を形作った。爪が掌に食い込む。

「何故邪魔したんですか?人を殺してみろと云ったのは貴方でしょう」
「私は、『私を殺して欲しい』とも云った」
「それが」

 何だ、と問う前に、肩を掴まれて後ろを向かされる。太宰と向き合う形になった。

「私は『私に付き合って』って云ったんだよ、名前。他の奴ではなく、私に」

 目の前の男は笑っている。嗤っている―――光の無い目で。

「名前…………君は綺麗だ」
「……私は、美人なんかじゃありません」
「容姿の事を云ってるのではないよ……外見も可愛らしいけれどそれだけじゃない。君の能力は、『桜散りゆく』―――桜の、花言葉を知ってる?」

 そんな物、考えた事も無い。首を横に振る。

「“純潔”。“精神美”。……正に君の為の様な花言葉だ。ねえ名前、私が傍に居るのは厭だろう?私は、君の心を犯そうとしているから。純粋な君の心を」

 太宰の言葉が、脳内に浸食してくる。聞きたくないのに、その意味を理解したくはないのに。首を振って、目を逸らしたが、無駄だった―――耳元に口が寄せられる。

「私はね?名前。君の心が私で満たされるのが嬉しいのだよ。私への嫌悪、恐怖、それらはきっと何時か殺意に変わる。人を殺せない君が。私を殺そうとする」

 其処まで私を追い詰める気だと、言外に告げられる。

「君はきっと壊れるよ―――私を殺して、私の所為で壊れるんだ。そうしたら、君もきっと生きては居られない……嗚呼、なんて」

 頬に手が添えられて、正面を向かされる。
 其処には、夢を見る子供の様な微笑みが有った。


「――――なんて素敵な心中なのだろう――――そう思わないかい、名前」


 笑みが浮かんだ侭の口で、口を塞がれる。
 その唇は濡れた感触がした。それは私の頬を流れる物に寄るもので―――其処で初めて自分が泣いている事に気が付いた。


 ―――ああ、そうですね、太宰さん。心中、しましょうか。こんな私なんかと。


 自虐的な自分の声は心の中のみに広がり、形に為らずに消えて行った。ぼんやりとした視界の中で、私の目を見つめる太宰が嬉しそうに笑うのが見えた。

(2016.12.22)
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