二人の距離は相も変わらず

(「ごめんね、これが本音なの」続き)





 私の名前は名字名前。しがない結婚詐欺師だ。
 今更だが私達の今までの経緯を説明しよう。ある日、私は何時もの様に男を騙す為男の家へと上がった。然し、其れはその男――――太宰治の罠だった。誘拐未遂を経て求婚してきたこの男の提案(半分は私の案だが)により、私と太宰は結婚を賭けて勝負をする事になった。

 一日一回一逢引(デート)。

 逢引で太宰が満足できなければ、お持ち帰りという名の結婚―――という悍ましい勝負である。

 その関係が今、壊れるかもしれないのだが。



「…………!…………!!」

 夜の街を練り歩く若者たちが騒ぐ声が遠くから聞こえた。顔を上げられず、私はまだ下を向いていた。右手はまだ力無く太宰の上着の襟を掴んでいた。

 何か云って欲しいと思ったが、太宰は黙った侭だった。黙った侭、徐に私の横にぶら下がる左手を取る。ビクッと自分の体が震える。


 太宰の指が、私の、包帯が巻かれた薬指をそっと撫で――――そして、人差し指と親指で、トラバサミの如く力一杯挟み込まれた。ギリッと音が鳴った様な気がする。


「いっ!?たたた痛い、痛いですから何してるんですか!?」
「落ち着いた?」
「残っていた冷静さが吹き飛びましたありがとうございますお礼に殴って良いですか!」
「冷静?アレが?」
 低い声の中に怒りを感じ、言葉を失う。ゆっくりと顔を上げた。

 太宰の顔からは表情が抜けていた。その所為で悲しそうにも、泣きそうにも見えた。太宰が溜め息を一つ吐く。その手はまだ私の左手を掴んでいた。今度は壊れ物でも扱う様な手付きで撫で始める。

「ねえ名前、幾つか云いたい事が有るんだけど聞いてくれるかな」
「…………聞かなかったら如何なるんです」
「だったら私も君の云い分なんて知った事では無い。此の侭来てもらう」
「…………聞きます」

 若者たちの声は遠ざかっていく。また静寂が辺りを支配していて、私達の息遣いだけがやけに響いた。
 太宰は私の左手を見つめ乍ら話し始める。

「一つ目。先刻『そんな事しない』と云ったのは本当だ。君の事務所及び事務員に危害は加えない」
「…………」
「二つ目。…………自分の事を『適当な女』扱いするのは止めて欲しいな」

 太宰の声は恐ろしく静かで、何時もより少しゆっくりと話していた。私は震えているのが気付かれない様に息を吸い込む。先刻の怒りは私の中にまだあったが、一応の静まりを見せていた。

「――――――私と織田作と安吾はさ、ほんの偶然で出逢ったんだ」
「…………」
「私と織田作はとある任務の帰りでね。その任務の内容が死体を扱うものだったから……遺留品の記録を取っていた安吾に云われちゃったよ、『それ以上近寄らないで頂けますか。臭うので』って」

 懐かしそうに笑う太宰の話を、私は黙って聞いていた。それは、今の三人が成り立つきっかけだった。

「話してみたら面白い新入りだなあって思ってさ……織田作と二人で此処の店に連れてきた」
「強制連行したんですね」
「善く判ったね」
「……貴方は変わらないですね」
「それが三人で酒を飲む始まりだったけど……私に、親友が増えるのに、時間なんて掛からなかったよ」
「…………」
「…………ねえ名前。大事な物が出来る時なんて、始まりはそんな物だよ。たとえきっかけが些細な物だって」

 私は顔を上げて太宰の顔を見た。掴まれていた左手は、太宰の両手に包み込まれる。風が吹いて、先刻掛けられた黒い外套が少しふわりと浮いた。

「…………一目惚れだったんだ。可愛らしくて、その上隣に立つ男を見上げる目は強い意志が感じられて。男によって違う顔を見せるんなら、私にはどんな顔をしてくれるだろうかと……化けの皮を剥がしてみたくなったというべきか。調べてみたら潰れかけの事務所の三流詐欺師と来た」
「後半は喧嘩を売っているのですか?」

 思わず突っ込んでしまったが、太宰は苦笑しただけだった。私も太宰も、何時もの口調に戻ってきていた。

「でさ、結婚詐欺師の君に一番近付ける方法と云ったら、矢っ張り結婚だろう」
「その理屈は判るような気もしますがその結果があれなのは納得出来ない」
「で、今に至る訳だけど…………確かに最初は君が欲しかっただけだよ。逢引なんて直ぐに終わらせる心算だったのだけれど」

 その言葉に、内心冷たい物を中てられた様な錯覚を起こす。本当に、何時連れ去られても可笑しくない状況だったのだ。自分が危ない綱渡りをしていた事に震えが奔る。
 でも、と私は太宰を見る。きっと、彼が云いたいのはそんな事では無い。

「…………惚れた弱みとは怖いものだ」
「如何云う意味で……っ?」
 太宰が私の左手を口元に寄せる。あの時、手に口付けされた感触が蘇り、声が上擦る。そんな私の反応を楽しんでいる様な表情の癖に真っ直ぐな、その視線に怯む。


「名前」
「…………っ、何、ですか」
「好きだ」


 心臓が大きな音を立てたように感じた。顔に熱が集まる。それを認めたくなくて、必死で首を横に振った。

「それは、もう、聞きました。そんな言葉で騙される程私は……」
「名前。聞いて、三つ目だ。私は君が思っている様な軽い感情でこんな事してるんじゃあない。先刻云っただろう、始まりは単純でも今は違う」

 今までこの人を見てきた所為で、本気なのが判ってしまう。真剣に云っているのだと。本心からの言葉なのだと。

「一緒に居て欲しいんだ。君に私を選んで欲しい―――例えどんな手を使っても」

 寒い筈なのに、握られている手が熱かった。込み上げる感情を認めたくなくて、唇を噛む。
 然し、厭だと断定するには、この人に対する自身の拒絶が足りない。
 嗚呼、でも、私は。

「…………無理、です。ごめん、なさい」
「………………」
「私は、まだ、捨てられたくない。貴方を信じる事も出来ない」

 私はまだ、自分の『家』から出る勇気など無い。
 そして、其れ以上に、私はまだ、貴方を信じきれていない。
 「そう」と、太宰が目を伏せる。

「じゃあ明日からも変わらないね」
「………………ん?」
「また明日から逢いに行くから」
「ん?待って。今の私の精一杯頑張った拒絶は一体」
「『拒絶を頑張る』とは……。まあ精々お持ち帰りされない様に頑張ってくれ給え」
「本当に変わってないっ!?」
「……嗚呼、もう一つだけ有った」
「…………?」

 太宰は何処か迷う顔をした。云おうか如何か迷っているのだろうか。然しやがて口を開いた。

「君は、居場所を失くすのを恐れているけどね、君の周りには、君が好きな人が沢山居るんだ。君の上司だって、同僚だって、詐欺師ではなくなったとしても君を拒んだりはしない」
「…………知ってます。信じられないだけで」
「親不孝だねえ」
「最大の親不孝させようとしてる人に云われたくないのですが」
「え?結婚は親孝行だろう?」
「貴方以外が相手ならそうでしょうね」

 二人の溜め息が重なった。
 そして不意に、笑い声が響く。

「…………ふふ」
「!!えっちょっ!?名前笑っ……」
「……貴方も、意外と、人が善いですね」
 太宰の虚を突かれた様な顔は中々貴重な気がする。私の胸の中の怒りは何時の間にか鎮まっていた。取り敢えず握られた手を外す。
 涙はもう乾いていた。

「まあ、でもこれで、君も判ったでしょ」
「……何がですか」
「私が、本気だって事さ」
「…………」
 今度は私が黙り込む番だった。確かに私だって此処まで云われて何も感じない程非情では無い、心算である。

「…………貴方が本気だろうが関係ありません。私が貴方を受け入れる事なんてありませんから」
「またまたあ。先刻の『ごめんなさい』はあれでしょ、『私本当は貴方が好きなんですけど一歩踏み出す勇気が無いんですごめんなさい』でしょ?気にしなくて良いのだよ一歩だろうが十歩だろうが私から踏み込んで行って―――」
「貴方と私の距離は太陽と月くらいあるので」
「宇宙規模で云えば短いね」
「間に地球が有るので難儀ですからね?」
「その位置関係頻繁に変わるからね?」

 ああ、これでは本当に何にも変わってないではないか。先刻、結構本音を云ったのに。
 然し―――何処かほっとした気分なのは何故だろう。

「君と私の距離を詰めるために、ほら、名前」
「?」
「先ずは『治さん』とだね?」
「黙れ、太宰治。二度と云わないと云ったでしょう」
「…………!!」
「何で嬉しそうな顔してるんですかっ!?」

 叫びと共に太宰の外套を脱いで投げつける。
 黒い外套は大きな音を立て舞い乍ら、笑う太宰の元に飛び込んで行く。
 左手の薬指では、包帯が鈍く、瓦斯灯の灯りを反射していた。




「遅いな二人共……一寸見てこようか」
「いえ、それは野暮と云う物ですよ。放っておきましょう」
「……そうか、そうだな。確かに―――あの二人なら大丈夫だろう」

(2016.12.31)
ALICE+