歪な二人の純粋な恋

 咲楽は、私が落ち着くまで手を握ったり、頭を撫でてくれたりしていた。暫く経つ頃には、それが少し気恥ずかしくなる程には私も幾分か落ち着いていた。

「ありがとう。もう大丈夫ですよ」
「本当に?本当に?」
「はい。元気になりました」
 本当だった。先刻まで沈んでいた気持ちが軽いのを感じる。誰かに聞いてもらう事が、こんなに効果があると云う事を初めて知った。思えば、織田作に話を聞いてもらった時も、同じ気分になった。
 然し、少女はむすっとした顔で云った。

「いいえっ!!まだよ!お姉ちゃんの悩み事解決してないもの!」
「えっ……」
 咲楽は目を閉じ、難しい顔でぶつぶつと話し始める。

「確か、厭な人が居るのよね!でもお姉ちゃんはその人が嫌いじゃなくて……それでえーと…………厭なのに嫌いじゃないの?」
「え、ええと……」
「普通だろ?」
「?」
 思ってもみなかった少年の声に驚き、振り向いた。四人の少年達が入り口から顔を覗かせている。織田作は如何したのだろう。と、階下から僅かに談笑する声が聞こえた。此処に居ない大人達のものだろうか。少年達が話を続ける。

「うん。だって、この間咲楽が優と喧嘩して『嫌い!』って云ってたけど、仲直りしたし」
「嫌いだけど、本当は嫌いじゃないって、普通だよな」

 ―――――嫌いだけど、嫌いではない。
 子供達が云いたい事は、判らなくも無かった。

 人は、確かに、誰かを好きになっても、または嫌いになっても、決して其れだけでは居られない。人の感情とはそう云う物だ。
 然しそれは、相手に、自覚しているものとは反対の感情を持っているという意味でもある。

「じゃあ、私は…………」

 だったら、私の、この苦しみは、何に起因するのか?
 あの人に対する私の感情は何だと云うのか。

 ―――――死神だと、思った。
 最初に酒場で出逢った時のその印象は今も拭えない。あの人は飄々としながらも、その心の奥に闇が潜んでいる事を感じさせる。
 だから、あの人が私に向ける言葉が、とても恐ろしかった。引きずり込まれそうな感覚を覚えた。

『人の死を恐れている』

 然し、彼の言葉は、今までの私が背負って来たものを、粉々にしてしまった。自分が『普通』の感情を―――人の死を恐れる感情を、持っているのだと断言されて。

 ――――――だから、私は。
 恐れると同時に、その言葉に、惹き付けられもしたのだろうか。

 黙り込んでしまった私を見て、子供達はまた心配そうに此方を見た。顔を上げ、子供達の顔を、一人ずつ見る。

「……ありがとう……少し、納得しました」
「本当に?役に立った?」
「ええ。本当に、貴方達は良い相談役になれます」

 そう云うと子供達ははにかむ様に笑う。礼を云って、もう大丈夫だと伝えると、「またいつでも来てね」と口々に再会を望まれ、「勿論です」と答えた。ちゃんと心から笑う事が出来た。
 礼を云わなくてはならない人物がもう一人いた。丁度、階下から上がって来る足音が聞こえてきた処だった。



「……名字、本当に大丈夫なんだな?」
「ええ、今日は本当にありがとうございました」
 織田作は別れ際まで心配してくれた。何処まで人が良い人なのだろう。少し心配になってしまう。

「私は、此の侭戻ります」
「……そうか」
 彼の顔が、少し厳しい物に為る。それが心配に寄る物だと察せられた。
 ……本当は、助けを求めた方が良いのかもしれない。でも、私は。

「それでも」
 織田作が腕を伸ばし、私の頭に大きな手を乗せた。温かい手はゆっくりと、頭を撫でる。
「何時でもまた来て良い。待ってる」
 不意に、胸が痛んだ。私はたった今、この人の助けを拒んだのだ。助けに来た人の手を払ったに等しい行為だった。

「……は、い」

 答える声は震えてしまったけど、この人に、確かに届く様に、その目を真っ直ぐ見て云った。



 ―――――逃げてはいけない、と思った。
 子供達の話を聞いて、私の心が整理出来た訳ではない。寧ろ逆だ。

 ただ、此処で逃げてしまっては、私の心はおそらく、一生あの人に囚われた侭だ。自分の心が判らない侭、掻き乱された侭。
 きっと、この決意は間違った物なのだろう。然し、あの人の言葉に惹き付けられたのなら、もう逃げ出したって無駄だろう。
 だったら―――――。


「只今戻りました……太宰さん」
 ソファに腰かけて寛ぐ彼の様子は、今朝と殆ど変わっていなかった。声を掛けると、顔を此方に向け、微笑んでくる。
 此方を飲み込もうとする様に見詰めてくる目は、出逢った時と変わらない。

「お帰り、名前……へぇ……」
「……何でしょうか」
「ちゃんと帰って来たんだね、私の下に」
「……ええ」

 ―――――だったら。
 彼から逃げないし、彼を殺しもしない。
 その決意だけが、今の私が出来る選択だ。

 紡がれる言葉に魅せられ、自分の心が侵されても逃げずに、この人が死ぬまで傍に居る。
 嗚呼、それはまるで。

 ―――――『君の事が、好きだよ』

 まるで恋をしている様だと、戯言より下らない事を思った。




 今此処には居ない少女の事を、たった一人しか居ない執務室で青年は考える。
 執務机の上に積まれた書類は、少女の手によって既に整理されており、彼女が一時不在でも仕事に影響は無い。否、元々彼女を手籠めにする為だけに傍に置いた様なものだから、仕事への影響などたかが知れているのだが。

 然し一人で仕事をする意欲など皆無であり、書類を放ってソファへと身を沈める。
 頭に浮かぶのは、少女と出逢った日の事だ。


 名前と最初に出逢った時、彼女に抱いた印象は、『何処か遠くを見ているような目をしている』、だった。
 何かから目を逸らしている様な。何かを諦めきっている様な。

 話してみると、命に無頓着な様子は己に通じる物が有り、然し決定的に違う部分が有った。
 この少女は、ただただ純粋なのだ。だから心を閉ざしてしまった。目を逸らしてしまった。命が『見える』事から。『消えてしまう』のが『見える』事から。

 彼女の手から生み出される花弁はとても美しく、然し、其れを見つめる彼女の瞳はもっと美しいと感じた。

 ただ、命だけを見つめている瞳だ。人の死の恐ろしさから目を背ける少女が、その瞬間だけ、目を逸らす事もせずに。

 ―――――この眼差しの中で死ねたら、どんなに幸福だろうか。


 織田作に語った話も、名前に聞かせた言葉も、凡て本心に寄る物だ。

 彼女に聞かせた顛末に為るのが理想だが、其れだけではない。
 本当に壊してしまいたいだけなのなら、彼女に胸の内を語る事などしないし、織田作の元へなど行かせなかっただろう。訳が判らない侭追い詰めた方が効果的だからだ。然しそうはしなかった。

 親友の断言を思い出す。確信に満ちた声で放たれた言葉を。

――――――『あの娘は壊れない。絶対に』

 あの言葉が本当で、彼女が自らの手を汚しても、壊れないとしたら。

 あの侭では『生きる理由さえ失くしてしまう』から、とは、自分が織田作に語った『理由』だ。矛盾している気がしてはいたのだが、織田作の言葉を聞いて、自分の中にもう一つの願いが有る事に気が付いた。

 その手で殺して貰いたい事には変わりない。然しそれに続く、自分が望む結末は二つ有り、それらは正反対の物だ。

 一つ、名字名前は壊れ、太宰治と共に『心中』する。
 一つ、名字名前は壊れず、己の中に太宰治と云う存在を刻んで生きていく。

 何方にせよあの少女の中に自らを刻み込める。彼女の生を自分の死が犯すのだ。

 如何やら嫌われているらしい事は好都合でしかなかった。人がより強く記憶するのは負の感情だ。

 その上で彼女の手によって死ねば、彼女の心の中心に刻み込まれるのは自分だ。
 ただ想われるだけでは、足りない。


 部屋の戸が叩敲(ノック)され、意識が思考から引き上げられた。

「―――――只今戻りました……太宰さん」
「お帰り、名前」

 嗚呼、帰って来た。愛しい少女が。逃げる好機でも有っただろうに。
 此方に飲み込まれまいと抗う意志が籠る目は、出逢った時から変わらない。

 ―――――矢張り、綺麗だ。

 何故自分は此処まで、彼女の心に自らを刻む事に固執するのか。
 簡単だ。愛しい人物の心に自らの存在を刻みたいと思うのは何等可笑しくは無いだろう。太宰治は名字名前に惹かれているだけだ。
 あの真っ直ぐな瞳が、その純粋な心が、

 ―――――ただ、綺麗だと思ったから。それだけの話だ。

(2017.01.04)
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