きっと君は泣いているんだろう
「此処を綺麗にしておいて欲しいってさ」
太宰に連絡を受けて来た其処は、港にある倉庫街の一画だった。散々たる抗争の後の静けさの様な物が場を支配していて、其処彼処に残る血だまりが、その悲惨さを物語っていた。
「然し軟な連中だったなあ。一寸包囲して小突いただけで去って行くなんて」
現場で指揮を執っていたのだろう太宰がつまらなそうに云う。敵は太宰の率いる部隊を相手にして、保々の体で逃げ出したのだろう。心の中のみで同情する。
「では、此の場は……」
早速取り掛かろうと私が口を開いた時だった。
「――――――!?」
「名前?」
何か、寒気が奔った。思わず周りを見渡す。太宰が不思議そうに訊いてくるが、反応できない。何かが可笑しい、と思った。
その場には、抗争に参加していた太宰の部下も残っていた。
その内の一人、その人物に意識が行った瞬間――――――私の体は走り出していた。
「―――――――――危ないっ!!」
「……え?」
力の限り叫んだ。きょとんとした男を思い切り突き飛ばす。
それと同時に、渇いた音が響き――――――丁度その頭があった場所を、銃弾が通って行った。
「!?」
「くっ……」
勢い余り其の侭倒れ伏す。横目で、私が庇った男も倒れるのが見えたが、銃弾は外れた様だ。
周りが騒ぎ出す。銃を持った残党が引きずり出されるのが見えた。
「……名前っ!!名前、大丈夫!?」
太宰が駆け寄ってくる。然し急に動いたものだから、息が切れて直ぐには答えられない。
「はあっ、はあっ……だい、じょうぶ、です」
「怪我は?……無さそうだね、良かった」
「それより、彼は?……良かった、無事ですね」
「…………!……うん、そうだね……ねえ、何で判ったの」
太宰は、何かに驚いたかの様に、此方を見て来た。然し其の不自然な沈黙に疑問を持つ間も無く、問われた内容に私も首を傾げた。
「さあ……一瞬だったので……ただ、判った、としか……彼が、『軽く』なった、様な……」
「…………」
太宰は何かを考える様な素振りを見せる。漸く息が整った私は立ち上がり、助かった男に視線を向け、少し息を吐いた。彼は顔を真っ青にしていたが、此方に頭を深く下げてきた。私も目礼で返す。
太宰の視線が自分に注がれているのは判ったが、それが何を含んでいるのかは判らなかった。
「…………あの」
「名前」
視線の意味を問おうとすると、太宰はニコリと笑って私の言葉を遮る。
「この後、私の部屋へ来てくれる?」
本部に戻った頃はもう日は暮れていた。先刻云われた通り太宰の部屋に行き、戸を叩こうとし―――思考が、止まった。
女性の声が、聞こえる。
顔が引き攣るのを感じる。彼の女性遍歴が中々なものである事は聞いていたが、出逢った頃から見た事は無かったため、戸惑いが胸に広がった。呼び出しておいて何だと云うのか。
また後で来ようと思い、立ち去ろうとした時だった。
中から悲鳴が聞こえた。思わず立ち止まる。
明らかに異質だ。引き返そうとしていた足を止め、拳で戸を叩いた。
「太宰さん!這入ります!」
そう呼びかけ、返事も待たずに戸を開けた。
「何が……………っ!?」
中に這入って、その光景に絶句した。
「ああ、名前。そろそろ来る頃だと思ってたよ」
此方を振り向き笑う太宰と、もう一人。
――――――見慣れたソファの上に。両手両足を縛られ、猿轡を噛まされている女性。
「なっ……」
「おや、驚くのか。以前と違って感情豊かだ。成長は喜ばしいものだね」
何処か皮肉気な言葉と共に、悲鳴が再び上がる。猿轡の隙間から声が漏れ出ていた。
―――――――それは、不思議な感覚だった。女性には確かに感じる『質量』がある。まだ失うには早すぎる重さだ。
それが、その悲鳴と共に―――――軽くなって―――――。
それには既視感があった。然し考えている暇は無かった。
私が、それが何を意味するのかに気付く前に、耳が痛くなる音が空気を切り裂いた。
「……矢張り、ね」
何処か納得したように太宰が呟いた。
…………弾丸は逸れていた。私が太宰の腕を引っ張ったからだ。その手にはたった今女性に向けて撃ったばかりの銃が握られている。
女性に駆け寄り、拘束を解いた。顔面が蒼白になった彼女は其の侭無言で部屋を飛び出していく。後には二人だけが残された。
「君の異能力には、更なる特性があった訳だ」
太宰を見た。その顔は飄々としていて、何の感情も読み取れない。
「生き物の寿命は質量の様に感じる事が出来る、と君は云っていた。然しそれは寿命であり、例えば他殺による死亡は予測できない、とも」
太宰が何かを云っていた。耳元で何かが唸っている。言葉がよく聞き取れない。
「然し―――おそらく君は、その人物が他殺等で死ぬとしても、それがあまりにも明確だと、その瞬間、『その寿命が短く』感じるんだろう。おそらく不自然な程、極端に短く。だから、それによって他殺を予測することは不可能ではないし、やろうと思えば回避も出来る。昼間や、今の様にね」
言葉が脳に届くのを拒否している。此の人の声がただただ不快な物に聞こえる。
太宰が冷たい笑みを浮かべた。
「――――――怒っているんだね?名前」
初めてはっきりと声が聞こえた。体が震えているが、それは恐怖の所為ではなかった。
「……そうですね」
「人の死に怒りを示す様になったんだね」
「……多分、違います」
掠れる声で絞り出すように言葉を吐き出す。
「じゃあ、私に対して、かな?」
「…………」
無言を返す。目の前の男は口の端を吊り上げる。
「同僚が助かった事、喜んでいたねえ。今だって必死で助けようとした」
「……それが」
「私は君が思っているより嫉妬深いのだよ?」
目の前の男は息を吐く様に微かに笑うが、その目は濁っていて、深い闇がある。何時か見た瞳だ。
「君が私以外の人間の命の事で心を動かすのを見ると、妬んでしまうよ」
「……貴方は」
太宰は、今、本気で女性を殺そうとしたのだろう。この人の言葉通りなら、だからこそ私に伝わったのだから。
もし、仮説が間違っていたら、と、そういう事は考えず―――否、もしそうでも関係なかったのだろう。殺してしまったとしても、何時も通り笑っていられるのか。
気が付くと腕を伸ばしていた。その手は男の首へと絡みつく。
太宰は抵抗せず、受け入れる様に微笑んだ。まるで私がこうする事が判っていたかの様に。
「何故、そんな……命を軽く、扱えるんですか」
「へえ、君がそれを云う?」
本当にその通りだった。何故命を軽く、などと。どの口がそんな事を云っているのだろう。私は何故此処まで激怒しているのか―――然し疑問は怒りには叶わず、「答えて下さい」と呻く声が自分の口から洩れた。
「云わなかったっけ?この世の凡ての物は、ただの暇潰しの道具だって」
「……貴方にとっては、人の命も、ですか」
「そうだよ?」
「……織田作や、安吾さんも?」
その問いは、自然に口から出た。太宰が僅かに目を剥く。然し、何でも無い事の様に続ける。
「……さあね。でも彼らだって、何時かは居なくなる。大して変わらない」
「……そんな、の」
―――――――嘘だ。
「……嘘」
声が出た。変わらず、絞り出す様な声。
「……嘘です。貴方はそんな事思っていない」
「……殺してくれないの?」
太宰が此方を見つめる。もう笑っていないその顔が、微かに歪む。初めて見る顔だった。
「……まだ駄目なのか」
「……何が、ですか」
「今の君なら、背を押せば、殺してくれると思ったのに」
それに、首を振って応えた。首に掛けた手を外す。
「……貴方は、嘘つきです」
「……何が」
「この世の凡ての物が暇潰し?貴方はそんなこと思っていない」
彼らの名を出した時の、あの表情が、凡てを物語っていた。
「貴方は私に何を求めてるんですか。
本当に求める物など無いのですか。
―――貴方は、何故、死にたいのですか」
私はこの人に何を求めてるのだろう。
私はこの人に、何を求めて欲しいと思っているのか。
私が、この人を、殺せないのは。その一番の理由は。
「もう、いい」
冷たい声が響いた。でもそれは泣きそうな声でもあった。
「もう戻っていいよ」
「……太宰さん」
「もういい。もう……」
声は拒絶しながら、その表情は、行かないでと縋る子供の様だった。その表情は、何故か既視感が有った。見た事など無い筈なのに。
「どうせ………………どうせ君への恋慕だって……」
後退りして、太宰から離れる。背を向けた時、最後に後ろから聞こえた言葉は、私に向けられたものなのか。それとも彼自身に云っているのか。
「…………この想いだって……名前だって……何時か、消えるものでしかないんだ」
無言で部屋を出て、当ても無い侭歩き出す。早足だったそれは何時の間にか走り出していた。
耳には轟々と、まだ消えない音が鳴っていて、頭からは何時までも、太宰の表情が消えなかった。
(2017.01.07)
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