君の声は光を生んで

 帰る気にはなれなかった。ふらふらと外を歩く。何かずっしりとした物が心に有って、でもそれを取り除く事は出来ない。
 そうして気が付くと、見覚えのある場所を歩いていた。

『別に理由なんて、大した物じゃなくて良い』
 足が止まった。胸に広がった何かが、私の顔を上げさせた。
『それに、お前は多分、人を殺しはしない』
 振り返って、歩き出す。先程よりも、少し、しっかりとした足取りで。



「名字」
「……こんばんは。すみません、こんな時間に呼び出してしまって」
「構わない。こっちも飲みたい気分だった」

 以前来た事がある酒場は、雰囲気が変わっていなくて、安心する静けさを持っていた。織田作が片手を上げて云い、私もそれに応える。
「お前が太宰の下に行ってからは、一緒に飲む機会も無かったしな」
「……そうですね」

 太宰の名前が出た時、少し反応してしまう。何故此処の酒場を選んだのか自分でも判らなかった。彼が来るかもしれないのに。
 否、来てほしいと思ったのかも知れなかった。あんな事をされた後なのに、あの三人が居る時のこの酒場の雰囲気が、何かを払拭してくれる気がしたのかもしれない。
 でも実際は違った。安吾は居なかったし、太宰も来ないだろう、と思った。

「……何かあったのか」
「……え?」
「非道い顔してるぞ」
 問われて初めて気付く。どれだけ非道い顔をしているのかと思って、少し自嘲気味に笑った。

「……ああ、すまない。こう云うのには慣れてないんだ」
 それを見て勘違いをしたのか、少し困った様に眉根を寄せる。

「誰かが泣きそうな顔をしてる時、如何云えばいいのか判らなくてな」
「……」

 温かい、と思った。この人の言葉は温かい。
 そう思うと同時に、胸に広がっていたものが溢れ出した。私は目を閉じて、耐える様に唇を噛んだ。
 頭に何かが乗った。織田作が私の方を見ずに、大きな手を私の頭に乗せていた。
 私の気持ちが、やがて静かに収まるまで、織田作は黙って隣に居て、私の頭を撫でていた。


「太宰さんは、何故、死にたがるのですか」
「……死にたがる、か」

 暫く経ってそう切り出すと、織田作は、静かに首を横に振る。

「違うと思う」
「……」
「彼奴は子供だよ、名字。頭が良すぎた子供。何時も孤独な子供」

 子供。太宰の表情を思い出す。あの、寂しそうな、置いて行かれる子供の様な。

「彼奴は暗闇の中でたった一人だ。だから泣いている。取り残されて。孤独の中で」
「……たった、一人」

 彼と私が決定的に違う点だった。

 私の心は孤独ではなかった。心には何時だって誰かがいたのだ。
 父がいた。母がいた。周りの人々がいた。
 でもそれに気付く勇気など無かった。失うことが判っていたから。

『君は目を背けただけだよ。そうしないと心が壊れてしまうから』

 嗚呼、そうなのだろう。私はずっと悲しかった。その事実が、重く心に伸し掛かる。

「……何で」
「……名字?」
「何で、気付かせたんですか」
 声が震える。涙は出ない。こんな時は泣けないのか、と思った。

「何でこんな心があると気付かせたんですか。私は如何すれば良いんですか。失いたくない物が確実に消えていくのを、私は見ているしか出来ないのに」

 消えていく。消えていく。みんな消えていくのだ。
 あと数日、あと何年、確実に、『それ』は失われていく。他人も―――大切な人も。

「私はそれに、耐えられない。きっと何時か、私は」

 壊れてしまう。消えた言葉は、然し確実に私の中にあった。

「…………名字。太宰が云っていた」
「……?」
「お前は何処まで壊れずに居られるか、と」
 織田作の目は真剣に、此方を見つめていた。その目は何かを確信していた。

「俺は云った。彼女は壊れない、と」
「…………」
 呆然としながら、彼の言葉を聞く。其処には確かな、私を信じてくれる心があった。あの時、私は人を殺さない、と云った時の様な。

「孤児院で働きたい、と云ったな」
「……云いました、けど」
「それの名前を教えてやる。理由だ。お前が生きる、生きている理由」
 隣の織田作を見た。彼も静かに、此方を見ていた。

「お前のそれは生きる希望だ。例え絶望しても、お前の、心にあるもの」
「……それは、でも。そんなの」
「物語の中の少女に惹かれたのは何故だ?希望を持つ子供の姿を見たいと思ったのは何故だ?」
「…………」
「お前は羨ましかったんだろう、彼らが。無邪気にはしゃぐ子供。自分の失われる未来など知らずに、未来への希望に溢れている子供達が」
 じわり、じわりと、彼の言葉が染み込んでくる。

「お前は、それが無意味に思えるか?失われるものに対して、希望を持つ事が?」
「それは……私は」
「思えないだろう。だったらあんな夢など持たない」
 織田作がまた腕を伸ばし、そっと目の下に触れて来る。気が付けば、涙が流れていた。

「お前はもう知ってる。何時か失う事など関係ないのだと。否、失うからこそ大切に出来るのだと」
「……」
「見ているしか出来ない?当たり前の事だ。お前だけだと思ってるのか?」
 珍しく、揶揄う様な口調。誰かの真似をしたのかもしれない。彼は少し笑って、また、穏やかな口調で続けた。

「壊れる訳がない。お前はもう知ってる。大切なものを失う悲しみも、それを受け止める方法も」
「……目を、背けて来ただけです」
「違うよ。お前は乗り越えたんだ。乗り越えて生きてきたんだ」
 また頭を撫でられる。胸が苦しい。でも、この苦しさは何処か温かい。

「大丈夫。お前は生きていけるさ。この世界で」

 織田作の言葉が静かに響く。それは光だった。私の光。私の希望。

 私が、人を殺しそうになっても殺さずに済んだのは、この人が、『理由』をくれたからだ。今なら判る。同僚を殺しそうになった時、何故踏み止まれたのかも。あの子供達の家で、あの人に殺意を抱いた時、私が何を思い出して、何故謝っていたのかも。
 ずっと欲しかった物の筈なのに、目を逸らし過ぎていて判らなかった。

 そうか、と思った。私が壊れる筈が無かった、と。こんなにも温かいものが傍にあったのだから。それは私の傍に居てくれたのだ。ずっと、私が生まれた時から。

 太宰の、見たことが無い筈のあの表情に、既視感を覚えた理由が今なら判る。

 私はきっと両親を失った時、同じ感情を抱いていたのだ。置いて行かれる子供が、縋る時と同じ感情を。

 静かな嗚咽が酒場に響いた。織田作は私の隣で、私が泣き止むまで傍に居てくれた。

(2017.01.07)
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