この気持ちに嘘は無いよ

 歩きながら、あの人の事を思った。

 私には傍に居てくれた存在が有った。でも、あの人は今もきっと一人だ。
 私には理由が出来た。でも、あの人には無い。
 
 自分が何をしたいのかが、見えた気がした。
 私と似ている様で、私と全く違う孤独を抱えた、あの人に。

 この感情が何なのか、まだ判ってはいないけれど。




 本部の屋上は冷たい風が吹いていて、空は真っ暗な闇が広がっていた。暗い中でも見える白い包帯が小さく揺れていて、手摺に寄りかかるこの人を引きずり落としてしまうのではないか―――そう云う幻覚が見えそうな光景だった。

「太宰さん」

 声を掛ける前から私に気付いていたのか、驚く様子も無く、太宰は顔の半分だけ振り返った。然しまた前を見てしまう。

「……」
「……寒いよ、此処。戻ったら」
「……いえ」

 歩み寄り、隣に立つ。私も同じ様に手摺に寄りかかった。
 と、パサリ、と背に何かが掛かった。僅かに肩を見ると、黒い外套が自分に掛かっている。私の首の前に、彼の腕が交差した。
 後ろから抱きしめられる格好になって、手摺と挟まれると、何だか閉じ込められているようだ、と思った。でもそれを不快だとは思わなかった。

「綺麗だよね、此処」
「飛び降りに良さそうですね」
「……熱でもあるの、名前」
「何時も貴方が云ってる事でしょう……」
 試しに云ってみたと云うのに。他人が云うのは駄目なのだろうか。

「……私を責めに来たんじゃあないのかい」
 何故、とは訊かなくても判った。先刻あんな別れ方をしたのだから。首を横に振り、話し出す。
「……織田作が少しだけ教えてくれました。貴方の事を」
「何を?」
「……私と貴方は違うと思った。でも、似ている部分もある」
 何を聞いたかは云わない。太宰自身の事だ。一番判っているのはきっと彼自身なのだから。

「………………否、似てなどいないよ」

 消え入りそうな声が云った。見えはしないが、先刻の、泣きそうな表情をしているのだろうか、と思った。

「君の目にはもう光が有る」
「……織田作のおかげです」
「否、最初から、君の目は綺麗だった。君の、心は」

 途切れ途切れに云って、太宰が少しだけ笑う。それは何処か自嘲気味だった。

「体は何時か朽ちて消える。だから心が欲しかった。君の心が―――でも、君の心は……私には犯せない。君も私から離れるんだろう」

 『追い求める価値のある物なんて無い』、と太宰は云っていた。命の有る物は失われる。それは死を以て永遠に失われる物も有れば、永遠に為る物も有るのだろう。だから彼は死に惹かれるのだろうか。壊すことで永遠に手に入れようとしたのだろうか。
 ―――そんな妄言が頭に浮かんだ。

「……あーあ、失敗だ」

 『失敗』。自殺未遂の度に彼が云っていた言葉だ。
 然し、終わらせはしない。私にとっては此処からだ。

「……貴方にしては諦めが早い」
「そうかい?私は引き際の見極めは出来るよ」
「引いてしまうんですか」

 静かに息を吸った。私が今から云う事が、この人に伝わるかは判らない。然し、此の侭では駄目な事も、判っている。
 大丈夫。もう、決意は胸の中に有る。

「私は引きませんよ」
「…………君は、私の事が嫌いなんじゃないの」
「嫌いですよ。私の心を壊そうとして。心中ですって?冗談ではないです―――私が『引かない』と云ったのは、貴方を殺す事からですよ」
 敢えて、はっきりと嘘を吐く。此処で之を云わなければ、私では、次の句が出てこない。

「―――――嫌いな人には厭がらせをするものです」

 そう、これは『厭がらせ』の様な物だ。子供が、嫌いな人に遣る様な、細やかな厭がらせ。

「私に殺されたいんでしたね?だったら、私が殺すまで死ねませんね」
「…………君は、何を」
「私は其れまでに、貴方に生きる理由を作ります」

 太宰が何かを云う前に云い切る。ほんの僅かに、彼の腕が緩むのを感じた。
 勿論、彼を殺す心算など毛頭無い。『私が殺すまで』と云うのは詰り、『私は貴方を死なせない』、そう云う意味だ。

「美味しい食事をして下さい。暖かい布団で眠って下さい。友人達と話して下さい、勿論下らない話で結構です」
「そんな事、もう……」
「本当ですか?今までと同じ意識じゃあ駄目ですよ」
「…………」
「本気で怒られて下さい。本気で泣いて下さい。貴方がそんな自殺思考なのは出来てない証拠ですよ。目を逸らしているなんて、私によく云えましたね?

 ―――――目を逸らしているのは、貴方の方じゃあありませんか」

 滅茶苦茶な事を云っている自覚はある。然しこれは『厭がらせ』なのだ。この位云わないと私では彼に敵う自信は無い。

「此の侭死なれたら堪りません。貴方が『生きたい』と思って、私に殺される時に『死にたくない』って喚けば良いんです。そうすれば私も溜飲が下がります」
「………………ははっ…………本当に」

 黙って聞いていた太宰が笑い出した。笑われても仕方の無い事だとは判ってはいるが。
 腕を静かに解かれ、後ろを向かされる。二人で向き合う形に為った。私の肩に腕を回し、太宰が私の目を覗き込む。
 嗚呼、この目だ。この真っ暗な目が私は怖かった。でももう逸らしはしない。

「純粋だね、君は。子供の様に純粋だ。私は君の心を犯して壊そうともしたのに、君は私を見捨てないと云う。私に生きる理由を作るって?そんな事出来ると思っているのかい」
「思っていませんが、やってみなくては―――いえ、出来ます。絶対に」
「……私だって、生きる理由を見つけようとした。でも今までそんな物見つけられなかったというのに……君が?」
「まだ十八年しか生きていない癖によく云いますね。私は其れより少ない十七年しか生きていません。だから私だって判りません。でも、生きる理由を見つける事が無駄じゃないって、教わりました」

 あの人が、教えてくれたから。
 だから私は、もう失われるものに希望を抱かないなんて事は、もうしない。

「だから一緒に見つけましょう」
「……嗚呼……名前、君は」

 生きましょう。そんなに泣きそうな顔をしないで。

「私と一緒に居てくれるのか」
「当たり前です。私は貴方が嫌いですから」

 当たり前です。私は貴方が――ですから。

「だから、貴方を放って置いてなんてあげませんよ」
「君と一緒に居たって、私は生きる目的など見つけられない。私と居たら、私は何時か君を引きずり込んで共に死ぬよ」

 嗚呼、矢張り届かないのか。この人の目は暗い侭だ。
 矢張り私では駄目なのだろう。それでも、今、私に出来るのは。

「……貴方はそう思うかもしれませんが、きっとそうは為りません」
「…………莫迦だね、君は」
 強く抱きしめられ、肩口に顔を埋められる。外套が握り締められて、ぎり、と鳴った。

「織田作の下へ、逃げれば良かったのに」
「逃げません」
「…………君が逃げれば、私は君を汚さずに済んだのに」
「逃げませんよ」
 僅かに震える背に手を回した。自分の体に回る腕の力が強くなって、少し苦しかった。


『彼奴は子供だよ、名字。頭が良すぎた子供。何時も孤独な子供』
『彼奴は暗闇の中でたった一人だ。だから泣いている。取り残されて。孤独の中で』


 ―――――この感情が何なのか、まだ判ってはいないけれど。
 私は確かに、この人の傍に居たいと思ったのだ。

(2017.01.07)
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