その笑顔は穏やかな

 食卓に並んだ食事は質素でも、心が込められて作られていた。それでも少女はまだ、無表情な中に不機嫌さを滲ませていた。父親が苦笑しながら声を掛ける。

「名前、絵本なら食べた後にまた読もう。だから食べなさい」
「……はあい」

 渋々箸を手に取ると、母親が諭す様に云う。

「名前。『いただきます』、よ」
「あっ……ごめんなさい……いただきます」
「よくできました。……名前。私達は命を頂いて生きているのよ。だから、感謝の気持ちを忘れずにね」
「うん。判った」

 それは、何の事は無い、何処の家でもある教育、ありふれた光景だ。然しだからこそ、二人が少女を愛している証だった。

 それは、まだ私が、『しあわせ』だった時の記憶だ。



「忘れててごめんなさい。ありがとう。私はもう忘れない。もう大丈夫だから。どうぞ見守っていて―――此処から先の未来は、私にも、判らないけれど―――」



 瞼越しでも眩しさに目が眩んだ。目を開けると、朝日が窓から差し込んでいる。
 起きようと身動ぎすると、下腹部に鈍い痛みが奔った。隣で背を向けて眠っている人を起こさない様に声を飲み込む。
 衣服を静かに身に着け、音を立てない様に戸を開けて、廊下へ出た。

 一旦、帰ろう。そう思ったが、込み上げてきたものに、立ち止まってしまう。涙が零れた。

 何故泣いているんだろう。体の痛みの所為か。
 やっと生きている事の温もりを実感した為か。

 それとも、彼に私の言葉はきっと届かなかったという事にか。
 彼にはきっと、私の言葉はずっと届かないんだろうという事にか。

 それでも。此処から先の未来がどんな物だとしても、生きている限り前に進むしかない。





「名前っ!考えたのだけれど、新しい」
「自殺法とか云わないで下さいね」
「心を読まれた……」

 あれから何が変わった訳でもない。私は残る事を選んで、太宰は相変わらず自殺しようとしている。
 然し、あれから、太宰の自殺は少し、ほんの少しだけ、本気ではない気がした。

「『豆腐の角に頭をぶつけて死ね』という格言があるだろう?」
 ……こんな事を毎日の様に云われれば本気かどうか判らなくなるものだ。

「名前、無視しないでおくれよ」
「今日は書類が少なかったですね。最後の書類です」
「そうだね……終わったら、あの店に行こうか」
「そうですね」

 穏やかな時間が流れていた。以前と変わったのは私だけで、それは少し悲しくもあり、寂しくもあった。



「織田作!それに安吾も!」

 酒場には先に来ていたのであろう、懐かしい顔が並んでいた。
 太宰が歓声を上げる。

「何だ、お二方まで。偶然とは思えないですね」
「成る程、これが前に聞いた運命とか云う奴か」
「冗談ですから真顔で云わないで下さい織田作さん・・・・・・」

 織田作と安吾が軽口を叩き会う。
 ふと織田作と目が合った。その目が僅かに、優しげに細められる。

「名字。元気にしていたか」
「・・・・・・はい、暫く振りですね。元気です」

 ―――貴方の、おかげで。

 言葉にしなかった部分を感じてくれたのかそうではないのか判らなかったが、彼は静かに頷いた。

「なんだい?二人で微笑み合って!私と云う物が有りながら!」
「何ですかその云い方は、浮気された女性じゃないんですから」
「名字、太宰は女性ではないぞ」
「織田作さん、指摘する処を微妙に間違っていますよ」

 皆で騒いで居ると、マスターが肩を震わせ始めた。疲れているのだろうか。
「マスター・・・・・・あの三人を如何にかして下さい」
 そんなマスターに安吾が話し掛ける。心外な。

「一括りにしないで下さい安吾さん」
「そうだよ安吾、まあ私と名前は以心伝心一心同体だから一緒にしても良いけど」
「太宰さん一寸黙ってもらっても良いですか」
「そうだったのか」
「織田作?信じないで下さいね?」

 静かな店に私達の声が響く。その様子を呆れた様に、然し何処か楽し気に見ていた安吾が、不意に、思い出した様に何かを鞄から取り出した。
 其の侭私達に向ける。パシャッと、小気味の良い音がなった。

「……っ?写真、ですか?」
「仕事用なのですがね……フィルムが一枚残っていたので」
「そうだったのですか」
「現像が出来たら渡しますよ。まあ、明日からは一寸此処に来れないので、何時になるかは判りませんが……」
「楽しみにしてますね」

 安吾から他の二人に視線を向けると、彼等は彼等で談笑していた。
 太宰の楽しそうな笑顔と、織田作の穏やかな眼差しを見る。



 私では、きっとこの人は変えられないけれど。
 この人を変えるとしたら、この、彼の隣に居る親友なのだろうなと思った。



 暫く経った後日―――天気の良い朝だった。安吾から受け取った、と太宰が写真を見せてきた。
 その写真を覗き込む。一枚だけのそれは、酒場の一場面を切り取っていた。

「昨日、私達も写真を撮ったのだよ。記念にね」
「そうだったのですか。それじゃあ、それを受け取るまで死ねませんね」
「……君は其ればっかりだね」
「何度でも云いますよ」
「はいはい……まあ、楽しみではあるかな」
「良かったです。それでは……港でしたね、向かいましょう」

 写真を大切に仕舞い、立ち上がった。
 私達はその小さな紙片の中に、仲の良い兄弟が喧嘩している様な姿を何時までも残していた。

(2017.01.08)
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