きっと笑って生きていくから

『孤児院で働くっていう立派な夢持ってる女の子がいるってさ、織田作ちゃんに聞いてね』
『若いのに確りしてるよ』
『本当に?役に立った?』
『またいつでも来てね!』


 息が上手く出来ない。返事も碌にせず、電話を切る。体は勝手に動いていた。悲しさも悔しさも確かに在って、然し悼む時間も、惜しむ時間も無かった。

 走っている間、脚は縺れ、何度も転びそうになった。然し行かなくてはいけなかった。彼が何をするのかが判って恐ろしかった。
 果たして、本当に彼は、彼の連絡の通りその場所に居た。

「おだ、さく……」

 出た声は掠れていた。煙草の匂いがした。

「名字。良かった。最後に逢えないかと思っていたんだ」
「織田作、駄目です、行かないで下さい」
「名字……済まない。何時も以上に言葉が出てこない。上手く云えないとは本当にもどかしいものだが……」

 振り返った彼の目は、私の方を向いていた。然し、私を見てはいなかった。

「……ありがとう。お前との時間は、存外楽しかった」

 嗚呼、何故。何故私の言葉は何時も届かない。

 彼の存在は異様に『軽く』感じた。その意味が重く伸し掛かる。

「厭だ……厭、行かないで。貴方が居なくなったら、私も、太宰さんも」
「……大丈夫だ。お前達は……でも俺はもう駄目なんだ」

 何が駄目だと云うのか。生き方を教えてくれたのは貴方だと云うのに。
 それなのに、貴方は私達を置いていくのか。

「最後にお前に逢いたいと思って呼んだが……済まない、何かを云いたかった訳ではない。ただ、顔が見たかったんだ」

 歩き出した彼に手を伸ばす。然し掴むことは出来なかった。
 見たかったと云ったのに、その場を立ち去るまで、彼は私を見てはいなかった。ただ、死んでしまった様な目をして、静かにその場を立ち去った。

 外から太宰の声が聞こえるまで、私は其の場に立ち尽くしていた。
 私も太宰も、彼が行くのを止める事は出来なかったのだ。




 洋館を駆け抜けた。夥しい死体はもう、なんの気配も感じない。
 舞踏室に駆け込むと、倒れる彼の姿が見えた。

「織田作!」
「太宰……名字……」

 倒れた織田作に太宰が駆け寄る。数歩遅れて私も織田作の横に跪いた。二人の間に横たわる織田作の下には、血だまりが出来ていた。

「莫迦だよ織田作。君は大莫迦だ」
「ああ」
「こんな奴に付き合って死ぬなんて莫迦だよ」
「ああ」

 先刻とは違い、織田作の表情はとても穏やかだった。
 嗚呼、厭だ、そんな顔をしないで。そんな、もうこの世に未練など無いような。

「太宰……云っておきたい事がある」
「駄目だ、止めてくれ。まだ助かるかも知れない、いや、きっと助かるよ。だからそんな風に」

 太宰が云い募る中、私は何も云えなかった。私には判ってしまった。否……太宰にも痛い程判っただろう。
 この、人は、もう。

「……名字」
「は……い」
「先刻は、済まなかった……もう、お前には……俺の言葉は、必要無い」
「何を云って……!」
「本当だ。お前に云いたい事は、もう、云えて、それはお前に伝わった」
「…………織田作……は、い」

 今までに無いくらい、優しい笑顔で、彼が云う。
 だから、私は頷いた。彼の言葉を聞き洩らさない様にしながら。

「お前はもう、この世界で生きていける。だから今から云うのは、このしょうがない子供に向けた言葉だ」
「……はい」
「本当はもっと、話したかったが」
「……私もです。織田作」

 震える唇を何とか動かして、はっきりと、声を出した。

「ありがとう……織田作」
「…………ああ」

 安心した様に織田作が微笑む。私の方が、貰ってばかりだったのに。礼を云い足りていないのに。まるで、何かを貰った様な笑顔。

「……太宰。聞け」

 太宰の手が、血塗れた織田作の手に握られた。その手はまだ、温かかっただろうか。それとも、もう。

「お前は云ったな。『暴力と流血の世界にいれば、生きる理由が見つかるかもしれない』と……」
「ああ、云った、云ったがそんな事は今」
「見つからないよ」

 囁く様に、織田作が云う。

「自分で判っている筈だ。人を殺す側になろうと、人を救う側になろうと、お前の頭脳を超えるものは現れない。お前の孤独を埋めるものはこの世のどこにもない。お前は永遠に闇の中をさまよう」
「織田作……私は、どうすればいい?」
「人を救う側になれ」

 嗚呼、矢張り、薄っぺらい私の言葉より、届くのはこの人の言葉だった。

 それでも。それでも、こんな。

「どちらも同じなら、佳い人間になれ。弱者を救い、孤児を守れ。正義も悪も、どちらもお前には大差ないだろうが……そのほうが、幾分かは素敵だ」


 彼のその言葉こそ、太宰の『生きる理由』になり得るものだ。それでも―――――。

 こんな形で、届いて欲しくはなかった。
 貴方の死と共に、この人の心に刻まれるなんて事、あって欲しくはなかった。


「何故判る?」
「判るさ。誰よりもよく判る」
「……判った。そうしよう」
「『人は自分を救済する為に生きている。死ぬ間際にそれが判るだろう』か……その通り……だったな……」

 青白くなってしまった彼の顔は、然し、安らかに微笑していた。

「カレーが食いたいな……」

 織田作が、震える指でコートから煙草を取り出す。それをゆっくりと口に銜えた。

 織田作が燐寸を取り出した処で、彼の手が力尽きた様に下がる。太宰が燐寸を受け取って、火をつける。何も持たない手を握ると、冷たい手はほんの僅かに、私の手を握り返した。

 満足そうに微笑んで、彼は私を見て、太宰を見た。そして目を閉じた。
 煙草が床に落ちるまで、私達は彼を見詰めていた。



 ―――――貴方は云った。私は乗り越えたのだと。乗り越えて生きてきたのだと。
 だから、乗り越える。受け止めて生きていく。

 だから。だから、今日だけは、悲しませてください。受け入れられずに泣くことを赦してください。



 煙が真っ直ぐ立ち上っていく。
 誰も何も云わなかった。

(2017.01.08)
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