心が欠けた二人は
その夜、太宰の部屋へ向かうと、太宰はぼんやりと窓から外を見ていた。
「……太宰さん」
声を掛けると、彼はゆっくりと私の方を振り返った。と、無言の侭此方に歩み寄って来る。
其の侭腕を引っ張られ、彼の腕の中に閉じ込められた。
「……………だざ、い、さん」
呼んでから気付く。彼は微かに震えていた。気付いてしまっては、私ももう駄目だった。目を閉じて、温もりに身を委ねる。
二人は泣いていなかった。あんなに泣いていた私も、涙は出なかった。私達はまだ上手く泣けなくて、でも、心は咽び泣いていた。
涙を流さない私達は、二人、静かに哭いていた。
「織田作は、小説家になりたかったと云っていた。だから殺しをしなかったと」
「……あの人の書く小説なら、きっと素敵なものだったでしょうね」
小説家―――それが、あの人の夢だったのか。
『人を殺さないマフィア』の夢。
「……それが、貴方の『生きる理由』だったんですか。織田作」
机の上に置かれた写真を見詰めて呟く。小さな紙片に残された私達の笑顔は、記憶の中にも確かに遺されていた。
写真の上に添えていた私の手に、太宰の手が重なった。
「…………名前」
顔を上げると、縋る様な眼差しが見えた。
「……私は、『人を救う側』になるよ」
それは、彼の決意だった。友人を亡くした彼の決意。
「名前……一緒に、行こう」
「…………嗚呼」
静かに息を吐いた。嗚呼、この人には判らないかも知れないけれど。
私がその言葉に、どれ程安堵したか。
「…………良かっ、た」
「名前?」
「良かった。きっと私の言葉では駄目だったから―――織田作の言葉なら、きっと、届くと思っていました」
私の言葉ではこの人を変えられなかったけど、織田作は違う。
きっと太宰は、織田作の最後の言葉を胸に、まだ、生きていけるだろう。
私はこの人を死なせたくなかっただけだったけど、織田作は、彼の『生き方』を示してくれたのだから。
それは私の言葉なんかより、とても重くて、深いものだったから。
込み上げてくる気持ちを、無理矢理押さえつける。
そして、静かに、首を横に振った。
「―――行けません。貴方と一緒には」
「…………理由は」
「太宰さん、私は、貴方に嘘を吐いていました」
「…………?」
「あの時はそれ以外に、云い方が思い付かなかったので。私は口が上手くないもので」
「名前……何が云いたい」
意味不明な事を云い連ねる私に、太宰が鋭い口調で問いかけてくる。
「良いから聞いてください。私は、貴方を一人にはしておけなかったんです」
「…………」
「然し其れ以上に、私が、貴方と居たかったんだと思います」
彼は一人ぼっちが寂しい子供で、私はそんな彼を放って置けない子供だった。
失う事が怖いだけの臆病な子供だって、結局、一人になるのが怖かっただけなのだ。
「……だったら、何故」
太宰はまるで、自分が置いて行かれるような表情だった。その表情に、心が引き裂かれそうになる。
「だからこそです。私はきっと、貴方に依存してしまいます。貴方の、これからの生き方を、私の存在はきっと……」
邪魔をしてしまう。そんな事は決してあってはならない。
それが、私が精一杯出した結論だった。
「…………」
「……?太宰さん?」
沈黙してしまった太宰を不審に思い、視線を上げると、彼は俯いていた。包帯と髪に隠れ、その表情は良く見えない。其の侭、彼は絞り出すように話し出す。
「ねえ名前。『生きる理由』を見つけてくれると君が云った時、私は救われた気分になったんだよ」
「……救われた?」
「……今まで、心が満たされる事なんて無かった。君が傍に居ると云った時だって例外ではない…………それでも」
握られている手が痛む。それは其の侭、太宰の心情を表しているのだろう、と思った。
「少しでも、埋まった気がしたんだ。些細な事だったけど……私には大きいものだった」
「…………それ、は」
―――――それは。だったら。
「だったら…………ああ、私、の」
僅かに手が震える。それに気づいた太宰が、私の手を握り直した。
震えているのは手だけではなくて、それでも、やっと声を絞り出した。
「私の―――言葉は……存在は、無駄じゃあ、なかったんですね」
―――――嗚呼、その事実は、どれ程私を救った事だろう。
届いてはいなくとも、彼の救いになっていたと云うのなら。
きっとそれは、光が欠けてしまった彼の心の、僅かな隙間を埋めただけだったのだろう。
空っぽだったコップに水が少しだけ這入る様な、未完成のパズルに一つピースが嵌る様な。
それでも、それだけでも、充分だった。一人が埋められるのは、結局その程度なのだから。
「無駄な訳がない、だろう……だから、名前。一緒に行こう。一緒に居てよ。君は私が居ないと駄目なんだろう。私も君が―――」
「太宰さん」
云い募る彼を遮る。頷いてしまいたかった。一緒に行きたかった。一緒に生きたかった。
でも―――私は矢張り、もう一度首を横に振る。
「だったら尚更です。私達は互いに依存してしまっては駄目です」
「名前……」
「太宰さん。『佳い人間』に、なるんですよ。『普通』、の」
織田作の言葉を借りる。きっと、今一番届くのは彼の言葉だ。顔を上げた太宰が僅かに目を見開く。
「普通になるんです。人が死んだら悲しい。人が生きていたら嬉しい。
人はものじゃなくて、だからこそ他人を求めて、傷つけて、でも愛して。
それは、誰か一人が対象では駄目なんです。
私達は、私達だけで生きている訳じゃないから。
互いに依存してしまっては其れが見えません。変われない。
だからこそ時間が必要なんです」
必死で言葉を紡ぎ出す。太宰は黙って、私の言葉を聞いていた。
空いている手を伸ばして、彼の頬に触れる。温かな体温が感じられる。
生きている。この人は生きているのだ。それを、嬉しく思う。
だから、その喜びを、この人も感じて欲しい。
私だけではなくて、友人や、仲間をたくさん作って。大切な人たちが生きている温もりを。
「貴方も、きっと、他人を思いやれる人間になれる。きっと彼の云う、『人を救う側』になれる―――だから、誰かに依存するような、そんな生き方では駄目です」
「……君も、織田作も、難しい事を云う」
太宰が首を振って云う。
「私が、そんな人間になれると?他人を思い遣れる様な?」
「なれます。だって貴方も、悲しんでいた。友人の死を。大切な人が失われたことを」
それなら大丈夫だ、と云う。その感情は、貴方が彼を物では無く、大切な一人の友人だと思っていた証なのだから、と。
だったら、また仲間が出来る筈だ。太宰にとって、きっと、大切な存在が。
「……なら、それを信じよう」
そう云って、彼は微笑んだ。私も少しだけ笑う事が出来た。
「自殺、するなと云ってもするんでしょうね。貴方は」
「それは勿論」
「少しは否定してください…………でも、『佳い人間』になるまで、死ねませんね」
「…………ああ……ふふ、厄介な呪いを掛けられた気分だ」
「呪いって思っている顔じゃないですね」
「…………君は、これから如何するの」
「そうですね……私は、夢を叶えます。……太宰さん」
名を呼ぶと、静かに抱きしめてくれる。
この温もりを、忘れはしない。
「私達は、これから、光のある世界で過ごして。『普通』になったら……また、逢いましょう」
「……嗚呼、そうしたら、名前。私はきっとまた、君に――――――」
―――――私も。私もまた、貴方に惹かれるのでしょう。
でも、きっとそれは今と同じ感情ではないのだろう。
それは、ありふれた、何でもないものだけれど―――今よりも、もっと素敵なものに違いないのだから。
(2017.01.09)
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