甘い感情はまだ芽生えない

 私の名前は名字名前。しがない結婚詐欺師だ。二月に這入ると恋人たちが騒めき出すのは大いに結構なのだが問題は―――それ以外の、所謂『あと一歩』の男女までそわそわし出すと云う事だ。後数日で訪れるあの日の為に。

「……さん。名前さん」

 斯く云う私は如何しようか決めあぐねている。と云うか悩んでいる時点でもう負けているのだろう。不気味な事に彼は何も云ってこない。そう云えば先日洋菓子店で売っていた、可愛らしく包装されたあの菓子を見て顔を顰めた私を見て意味有り気に笑っていたから此方の葛藤などお見通しなのだろう……ああ腹が立つ。

「名前さん?大丈夫ですか」

 此処で渡さないという選択もする価値はあるがそれはそれで後が怖い。かと云って店で購入して渡せば満足するのだろうか。

 ―――――購った物。あの男、絶対揶揄ってくる。何だかそれは癪だ。

「名前さん」
「はいっ!?」
「大丈夫ですか?先刻から同じ書類を睨み付けてますけど……」

 顔を上げるとあの女性が、無表情乍ら何処か心配そうな雰囲気で話しかけていた。

「…………あの」
「?はい、何でしょう」
「…………太宰治の好きな物って何ですか」
「え?」
「あっ、否っその違うんですよ、手作りは事故の元なので出来れば避けたいなって思ってでもただ普通の物購っても何か揶揄われそうだしそれならいっそ彼が驚く様な物作ってやろうかなってだからその」
「判りました、判りましたから落ち着いて下さい」

 女性が眉を顰めて私の言葉を遮る。……取り乱してしまった。私とした事が。私が息を整えていると、女性は考え込んだ。

「太宰幹部のお好きな物……ですか」
「……自殺以外でお願いします」
「それはまあ……時期を考えると、食べ物でしょう?」

 云い中てられ、素直に頷く。それなら、と女性が紙切れにさらさらと書き出した。と、其処に上司の声が掛けられた。

「名字君。一寸良いかい?」
「あ……はい。すみません、少し行ってきます」
「ええ」

 女性に断ってから席を立つ。上司の元に近付くと、彼は数枚の書類を持っている。
 その書類にはクリップで一枚の、男の写真が留められていた。思わず体が固まる。

「……名字君?」
「…………あの、それ」

 ―――――こんな事は初めてだった。もう見慣れた形式で纏められたそれに目が釘付けになる。何か云わなければと思ったが、声が出なかった。

「…………名字君」
 上司が静かに云う。
「矢っ張り何でも無いよ。通常業務に戻って」
「……っ!済みません、何でも無いです、私は……っ!」
「名字君」
 書類から顔を上げる。上司は書類の束を静かに机に仕舞って、優しく笑った。

「良いかい?君のその迷いは恥ずべき事じゃないよ」
「……私は……」
「それにその状態で、君は誰かを騙せるかい?」
 諭す様に云われ、俯く。沈黙は肯定だった。

「…………いい機会だから、もう一度考えて御覧」


 ―――――詐欺師を続けるか、否か。




 『蟹』。『味の素』。メモに書かれた文字の羅列は如何にもあの菓子に合わない物だ。大体蟹って何だ蟹って。そんな物購う余裕など無いのだ私には。いっそ味の素どっさり入れてやろうか。

 ただ、一つだけ合いそうな物は有った。これなら入れても問題はあるまい。

『…………未成年だと云っているでしょうが』

 購えませんと渋った私に、同僚が代わりに購って来た酒を持って、溜め息を吐きつつ自宅へと帰った。今日はもう早く寝よう。

 上司との会話が頭の片隅に残っていたが、今は向き合う気にはなれなかった。




 茶色の塊を細かく刻み、湯煎で溶かす。片仮名で書かれていてよく判らない材料を取り敢えず調べた通りに放り込んだ。途中で貰った酒を入れた。暫く冷やして固まってから、手で丸めて粉を塗す。……一寸潰れたが手作り感があって良いだろう。うん。一息吐き、使った道具などを片付けた。
 時間を見るともう夕方だった。朝から作り始めたのに大分かかってしまった。

 そろそろ来るかな、と思った時、果たして玄関のチャイムが鳴った。事前に知っていたお蔭で台所はもう片付いていて何を作っていたかなど判るまい。
 玄関に行くと、ガチャガチャと音がして戸が開いた。だから此奴は人の家を何だと思っているのか。

「やっほー名前!」
「否チャイムの意味!!」
「そろそろ針金で開けるのが面倒だから合鍵が欲しいなあ」
「何で数秒も待てないんですか!?」
「可愛いお嫁さんに数秒でも早く逢いたいんだよ。だから同居しよう名前」
「心労で寿命が数秒どころか数年ずつ縮みそうなので止めて下さい」

 ええーと云いながら太宰は靴を脱ぎ捨てると、上がってきて長座布団に飛び込んだ。外套がばさりと脇に落ちる。

 此の処、任務は疲労が溜まる物が多いらしく、私の家に来ては布団を勝手に引っ張り出して包まるという太宰の暴挙が何度かあった。その為前もって座布団くらいは用意しておくようになったのだが、今日は特に疲れているらしい。

「…………顔色、あまり善くないですね」
「心配してくれるのかい?じゃあ膝枕して欲しいな」
「人間は粗大塵で良いのでしょうか」
「膝枕してよう〜眠れないよ名前〜」
「否、人の家で眠るのも如何なんです?」

 話している間も、珍しく太宰の声には何時もの生気と云うか、元気が無い。ごろりと寝転がって私の服の袖を引っ張って来る指も見上げてくる目も力が無く、今にも眠ってしまいそうだ。

「……寝て良いですから離して下さい」
「せめて添寝……」
「何が『せめて』だ、もっと厭ですよ……何か腹の足しになる物用意しておきますから」

 そう云うと、限界だったのか、太宰はゆっくりと目を閉じる。…………私の袖を掴んだ侭。溜め息を堪え乍ら引っ張ると、力無く掴まれたそれはすんなり外れる。

 その様子に、少しだけ腹が立った。

「…………ぐっすり寝ちゃって」

 穏やかな寝顔は無防備で、自分がそれを見せても構わない対象になっているであろう事にも複雑な気分を抱く。


「…………貴方の所為で」

『その状態で、君は誰かを騙せるかい?』

「……私は今悩んでいるんですよ」


 この人の所為にしても仕方ないのは、判ってはいるけれど。八つ当たりせずには居られないのだ。

 ふと思いついて、立ち上がって冷蔵庫へと向かった。先刻作った、もう充分冷えているであろうそれを取り出す。小さな袋に一つ入れるだけの簡単な包装をした。

 正面切って渡す勇気など無いし、そもそも渡すか渡さないか悩んだ侭作り終えてしまった。
 太宰の元に戻り、寝ているのを確認してそっと頭の近くに置く。…………数日後、あの日に渡すのが本当なのだろうが。

「…………恋仲でも何でもないんですから、今はこれだけで勘弁してください」

 相手には聞こえないであろう呟きを残して、どうせ夕飯を食べていく心算だろう自称夫の為に台所に戻った。
 そろそろ簡単な料理くらいはさっさと作れる様になりたいものだ。誰に作るとかは関係なく。




 気配が去ったのを確認して、薄っすらと目を開ける。
「…………『今は』、ねえ……」
 聞こえない様に小さく呟きながら頭上に手を伸ばすと、かさりと包みが手に中った。

 その云い方だと、まるで自分たちの関係に将来が有る事を暗示している様で期待してしまうのだが。名前が自分を受け入れ始めている事は確認が取れた上に、例え拒絶されたとしても逃がす心算など毛頭無いのだから、結果が変わる事は無いのだが……それでも。

『騙しても良いですから、私を安心させてもらえませんか』

 その、泣きそうな表情を思い出す。

 人を傷つけるのも耐えられなさそうなお人好しの少女が、嘘に嘘を重ねて男と向き合うのは果たしてどの様な気分を伴っただろう。況してやそれが自分の居場所を守る唯一の方法だと思い込んでいたならば。


 敷いてある物を汚さない様に気を付け乍ら包みを開いて、一つしか這入っていないチョコレートを口に含んだ。少し名残惜しくて、指に付いたココアらしき粉を舐め取る。甘い。

 これを渡すべき日はあと数日後の筈だが、当日渡す気にはならなかったのだろう。そもそも渡す気だったかも怪しいものだ。素直に好意を向けてくれるにはまだまだ遠い事を実感し、可愛らしいと思えば良いのか悲しいと思えば良いのか。

『名字君を、よろしくお願いします』

 そう頭を下げたあの所長が次に云った言葉を思い出して、顔を顰める。

『太宰さんは意外と善い人ですね』
『………………はぁ』
『あ、ご、ごめんなさい、でもこう、意外と優しい人だなと思って……』
『別に其処に引っ掛かった訳ではない。…………その「太宰さん」と云うのを止めてもらいたいのですが』
『…………え、あ……はは―――――矢っ張り、善い人ですね』


 ―――――貴方も、意外と、人が善いですね。


 真逆二人の人間に同じ事を云われるとは思っていなかった。然も今まで云われた事など無い言葉を。その『人の善さ』が彼女に関連するものだけに向けられているのだと、当の本人は気付いているのだろうか。


 ―――――自分の居場所が彼女の居場所なのだと、判らせるのは良いけれど。


 今まで無かった。『自分の物にしたい』から、『一緒に居たい』に変わった事など。
 居場所が欲しいと思ったのは、彼女だけなのだろうか、それとも。


 台所に目を向ける。名前の背中が見えた。その後ろ姿を見ていると、顔が見たい、声が聞きたいと感じる。
 でも、声を掛けずに此の侭、彼女の姿を見ていたいとも思った。

(2017.02.12)
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