弱虫なのさ、二人とも

(『とある詐欺師の在り方』続き)





『姐さん、一寸お願いがあるんだけど』

 そう云って紅葉に頼んだのは数日前の事だ。

『ほう、菓子の礼に、のう……』
『そろそろこう云う物を贈っても受け取ってくれそうな気がするので』

 降誕祭の時は付き返されそうな予感がしたので残る物は避けたが、今回は何か身に着けるものを、と思った。

 思い付いたのが化粧品の類だが、生憎そう云った物には詳しくは無い。それで紅葉に頼んだのだが、本人に合わせて選ぶべきだと云う事、それに名前自身に逢いたいと云う紅葉の希望からこのような形になった。


 そして今日。追い出された時は不満しか無かったが、暫く経って漸く出てきた名前を見てそんな物は私の中から綺麗さっぱり吹き飛んだ。

「ほれ、如何じゃ」
「………………」

 これは……正直云って、口紅一つで此処まで印象が変わるとは。

 数カ月前、他の男と並ぶ姿を見かけた時は、名前の化粧は濃い目の物だった。それが私と逢う様になってからは薄い物に変わったのは、元々薄化粧だったからだろう。

 今目の前に居る名前の化粧は、何時もと同じだ。然しその口元が何時もより明るい色に為った所為か顔色が明るく見える。否……寧ろ名前の肌の色に合わせて、そう見える様に選んだのか。心なしか頬も染まって居る様に見え―――

「何をじろじろ見ているんですかああああっ!!」
「痛っ!?そんな理不尽な!?」
「見事な張り手じゃ。才があるのう」



「今日はありがとうございました」
「構わぬ。また機会があれば話をしたいものじゃ」

 名前が頭を下げると、紅葉も微笑んで頷いた。随分と仲が良さそうな雰囲気だ。女同士積もる話があったのだろうか。

「ありがとう。後で代金はちゃんと払うから」
「要らぬ。大事に使え。それで良い」

 と、紅葉が不意に真剣な顔をする。

「…………名前」
「はい」
「かつて、お主と同じ目をした女が居った」

 名前が息を呑む。紅葉の顔が、それだけ真剣な物だったからか。

「その人は……?」
「…………光を求め、光に焼かれた。闇にしか生きられない者が光を求めた故の終焉じゃった」
「…………」
「お主はその女とは違う。闇にしか生きられぬ立場ではない。…………じゃが、選択を誤れば」
 そう云って、ちらりと此方を見遣る。
「闇に引きずり込まれ……其処でしか生きられなくなるぞ。籠……否、檻の中に閉じ込められ、飼い馴らされた鳥の様に」
「…………」

 名前は黙って頷いた。
 紅葉と別れ、名前の自宅に戻るまで、彼女はじっと何かを考えていた。



「ただいまー!」
「否貴方の家じゃないですから!」

 名前が云ってくるが、私からすれば寝る処用意してくれるしご飯は食べさせてくれるし家と変わりないのだが。寧ろ、最初に布団を拝借して包まって居た時、溜め息一つで容認した名前にも非が有ると思う。

 それよりも、最後の紅葉の言葉の方が気になった。

「…………ねえ、名前」
「何です」
「姐さんと何を話していたんだい」
「……貴方が心配している様な事は、何も」
 その言葉に少し動揺する。

「それに……何を云われても、今更貴方から離れたりしませんよ」

 …………大丈夫だろうか。この子、自分が何を云ったのか判っているのだろうか。

「失礼な事考えてるのを顔に出さないで下さい。これでは何時もと立場が逆ではないですか」
「名前……大丈夫?熱あるの?薬飲む?寝る?何か食べる?結婚する?」
「熱は無いし貴方の『薬』は安心出来ないし何されるか判らないから貴方が居る時に寝ませんし貴方の料理は以ての外だし結婚はしません!!」

 一気に云い終えた名前が荒くなった息を整えようと大きく息を吸う。よしよしと背中をさすると、腕を押し退けられた。非道い。

 一寸落ち着いたのを見て、目線を外し、先刻彼女が淹れた茶を手に取って啜る。


「―――――紅葉さんが」
 視線の外で、名前が話し始めた。
「矢張り貴方は女たらしだと云う事を教えて下さいました」
「げほっ……ごほっ、一寸、あの人何を話して」
「…………私、其れを聞いて」
「なに?厭な気持ちになった?妬いた?」

 せき込んだ姿勢の侭訊いて、罵声が来るのを待つ。
 然し、返って来たのは沈黙のみだった。

「………………」
「……名前?」
 彼女の方を向くと、頬杖をつき此方に横顔を見せている。その顔は顰められていた。
「…………え?名前?」
「……そうですね。厭な気分にはなりました」

 声音には苛立ちや怒りなどは見当たらない。顔は顰めた侭、彼女は淡々と言葉を紡ぐ。

「太宰治」
「な、何だい」
「…………貴方も、ですよね」

 名前は最後までは云わなかったが、意味は判った。

 ―――――貴方も、こんな気持ちで、私を見ていたんですね。
 ―――――他の男に云い寄っている、私を。

「…………如何かな」
「……?」

 懐から、紅葉から預かった先刻の口紅を取り出す。名前の頬に手を添えて此方を向かせた。疑問符で埋め尽くされている彼女の前で、蓋を開け、薬指に紅を付ける。
 指の先が鮮やかに染まった。

「?何をして……」
「先刻一旦落としてただろう。塗りなおしてあげる」
「ふえっ!?」
 変な声が聞こえた。硬直している名前の唇に、紅を乗せた指を滑らせる。
「一寸……」
「はいはい、喋らない。ずれてしまうよ」

 ぐっと言葉に詰った名前が、せめて見ない様にと思ってか目を閉じた。そんな事をしたら逆に敏感になると思うのだが。
 案の定、指の感触を更に顕著に感じる様になったらしく、ふるふる震え始めた。云ったら殴られると思うので絶対に云わないが、可愛い。
 指の先に、紅の冷たさと、柔らかい温かさを同時に感じた。

「…………君の感情と私の感情が同じとは思わないよ」

 だって、私の方が深くて暗い感情に違いないのだから。
 一度だけ彼女の詐欺を邪魔した時だって、あの男を殺すかどうか迷ったものだ。
 一旦指を放して、また指に紅を付ける。名前が口を開いた。

「……ごめんなさい」
「それは何の謝罪?今の事に関してならば要らないよ」
「…………こんな気分になるなら、もう答えは出ているのに。……私は一人にはなりたくないんです」

 手が止まった。彼女が何を云いたいのか判ってしまう。今の謝罪の意味も。

「貴方に捨てられて一人になりたくないんです。貴方の下に行くより―――偽りと判っていても、例え心が満たされなくても、嘘の居場所の方が良いと思っている」

 名前が僅かにスカートの上で拳を握り締める。少しだけ皺が寄った。ぽたり、と水滴が染みを作る。

「莫迦なんです。私は弱いんです。貴方の下に行く勇気なんて無い」

 名前が言葉を切った。涙を拭いもせず、然し止める様に息を吸い込む。今までの弱々しい声とは違い、今度は落ち着いた、はっきりとした口調で話し始めた。

「明日から、また『仕事』に戻ります」

 そうして、真っ直ぐと此方を見た。

「そう。判った。まあ仕方ない」

 そして、私はあっさりと承諾した。

「………………えっ?」
 名前がポカンとする。見限られると思ったのだろう。
 内心溜め息を吐く。全く、見縊られたものだ。

「ちょ、一寸……他の男と居た方が安心するって云われたんですよっ!?」
「そうだねえ」
「何で……ムグッ!?」
「ほらじっとしてって云ってるでしょ」
「先刻から思ってましたけど塗りすぎ……んむっ」

 少し押し付ける様に塗っている所為か名前が顔を顰めた。確かに一寸厚くはなっているが、薄い色の為か却って口に馴染んでいる。後で少しだけ落とせば丁度良くなるだろう。

「……あのさ、名前」
「……?」
「『騙しても良いから、安心させて』って云ったよね」
「…………」
「違うんじゃない?『嘘』だと判っていた方が安心するんだろう、君は」

 全く普通と見せかけて、名前も少しばかりは歪んだ人間だ。
 嘘を吐いて、その苦痛に耐えて、それでも、その中の方がまだ良いと云う。
 何時か無くなる本当の居場所よりも、嘘で塗り固められた居場所を転々とする方が良いと。そうまでして、独りには為りたくないと。

「本当に詐欺師に向いてないよねえ」

 名前の顔中に「五月蠅い」の文字が躍った。自分でも判っているのだろう。詐欺師である以上その孤独に耐えなければならないだろうに、逆に心の拠り所にしている様では詐欺どころではないだろう。

「で?何だっけ?君は弱いんだっけ?…………云っておくけど、私だって弱い人間だよ」

 嗚呼、この子に判るだろうか。先刻の名前の話を聞いた私の気持ちが。
 不可解そうな顔の名前に微笑みかけて、指に付いた紅を舐め取った。

「処で、これは君の物だけど」
「……はっ?ああ、その口紅ですか?」
「うん。先月のお礼。そっちが早めに渡して来たから、こっちも早めに用意したよ」
 途端に名前が青褪めた。

「…………否、あの、あんな物のお礼がこの高価そうな……」
「そう?手作りしてくれたのが嬉しかったんだけどな〜」
「いやいやいやそんな手作りなんてしてません何云ってるんですか」

 動揺が顔と声に出ている。この子は本当に詐欺師かと疑う程に。
 まァ、こんな顔見せるのは私にだけなんだろうけど。

「でも、これは私が預かっておくね」
「え?」
「それで、毎朝塗りに来てあげるね」
「は?」

 今度こそ名前が完全に停止した。おーいと目の前で手を振ってみても反応が無い。
 ふむ。これは了承と取って良いだろう。否の返事をしない名前が悪い。

「処でさ、男が女性に口紅贈る意味って知ってる?」
「い、いいえ……と云うか一寸待って毎朝って」
「別に実践するとは云わないけど。塗った後にやってくれたら私喜んじゃうなあ…………矢っ張り名前からやってほしいなあ」
「話を進めるなっ!!情報量に頭がついて行かない!取り敢えず貴方が喜ぶんなら碌な事じゃないのは確実ですねっ!?」
「ええ!?良いコトに決まってるじゃないか」

 何と失礼な事を。今まで私が素敵じゃない提案をしたことが有っただろうか。まあ確かに名前の反応が面白そうだから提案した物も九割程あるけども。

「取り敢えずお断りしておきます。口紅はありがとうございました」
 そんな事を云う物だから、はあと溜め息を吐いて、名前の肩に腕を回した。
「…………やってくれないなら今此処でするけど」
「はっ!?や、一寸待っ……っ!」

 少し体重を掛けただけで二人の体が座布団の上に倒れ込む。
 抵抗とも云えない力で押してくる手を抑え、綺麗に彩った唇に自分の其れを重ねた。




『闇に引きずり込まれ……其処でしか生きられなくなるぞ』

 あの人の危惧はある意味では正しい。
 この子は如何思うだろう。先刻の話を聞いて、私が安心しているなんて知ったら。見限りなどする訳がない。

 私への思いが嘘偽りなどではないと、名前自身が云ったのだ。然も、それがもう後戻り出来ない処まで育っている事まで感じさせながら。

『檻の中に閉じ込められ、飼い馴らされた鳥の様に』

 ―――――大丈夫だよ、姐さん。檻になど入れない。
 誰の下へ逃げ出そうが、この子は絶対に私の下へ帰って来るから。



 嗚呼、名前。弱い人間だね。私も君も。
 一緒に居たい。誰の下にも行って欲しくない。
 お互い、そう云えば良いだけなのに。

(2017.03.11)
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