私の名前は名字名前。しがない結婚詐欺師だ。そして間抜けな詐欺師でもある。自己嫌悪なら厭と云う程してきたが今回の其れは今までの比ではない。
―――――『貴方から離れたりしませんよ』
云った。云った。云ってしまった。
だから私は本当に。何故本音をぽろっと口にしてしまったのか。云いたかったのはその後の話の方で、詰り『詐欺師の仕事を再開する』と云う話の方で。
いや待て抑もあれは私の本音か?うっかり動揺して心にも無い事を云ってしまっただけではないのか?然し自分の性格はよく知っているからあの状況で口から零れた言葉が本音ではない可能性は低くて。
だって。だって、あの人が。
『姐さんと何を話していたんだい』
珍しく、本当に珍しく。あんな。不安そうな顔なんて、するから。
「ああああ、もうっ!」
頭を掻き毟ると、隣に居た同僚がぎょっとする気配がした。然し構ってはいられず机に突っ伏す。
この関係で有利なのはあの人の方で。何時だってあの人の力で終わらせることが出来て。今なら多分私だって碌な抵抗など出来はしないのに、暗黙の了解で勝負と云う名の逢引は続いていて。
私の意識が確実に変わった今、こんな物ただの余興みたいな物に過ぎなくなっているのに、彼の心境もまた変わってしまったから。
これじゃあ、本当に、ただの。
―――――ピリリリッ。ピリリリッ。
出し抜けに響いた電子音に、己の携帯を見る。事務所の端の方に行き通話釦を押す。
「はい……」
『………………』
「………………」
沈黙が降りた。
『…………………………「太宰です」って』
「云わないのでご用件をどうぞ」
『何故だい!?態々私からだと判らない様に違う電話からかけて、君が「太宰」と名乗ってくれるのを心待ちにしているのに!!』
「あの、先ず何で私がそう名乗るんでしょうか」
『電話で名乗るのは常識じゃないかい?』
「偽名を名乗るのは常識なのですか?」
『君詐欺師でしょ、偽名の一つや二つ有った方が良いよ』
「この流れだと『太宰』が偽名になりますが」
『何云ってるんだい、「名字」が偽名だ』
莫迦丸出しの会話だ。こんなのが幹部でマフィアもさぞかし大変だろう。
『今日、厄介すぎる案件が這入ってねえ……また一日逢えないよ』
「それは良かっ…………良かったです」
『云い直してないよ名前。あーあ……』
溜め息が聞こえる。時計を見るとまだ朝の九時ころ。こんな時間からこの調子では仕事も捗らないだろう。
「…………別に」
『?』
「別に、明日逢えるじゃあないですか」
そう云って、互いの職業と彼の趣味を思い出し付け加える。
「…………お互い、生きていれば」
『…………そうだね』
「…………」
『…………』
「…………貴方が静かなのが気持ち悪いので切りますね」
『名前!?一寸感動してたのに―――!!』
ぶちり、と電話を切る。そして、其の場に静かに蹲った。
これじゃあ、本当に、ただの。
ただの、普通の恋人同士みたいじゃないか。
「名字君、本当に大丈夫なんだね?」
「はい」
「無理しないで……とは云っておくけど、これ以上は君に失礼だね」
上司が私の顔を見て、静かに云う。私は黙った侭その目を見返した。
もう決めた事だ。逃避だとしても、今は自分の仕事に集中したい。
「これが今回の目標だ」
与えられた資料に目を通す。僅かに自分の眉が寄るのが判った。
「これは……」
「うん。今回は相当難しいと思う。……やれるかい?」
「…………はい。やります」
「善し……良いかい、名字君」
ふと、肩に温かい物が乗る。顔を上げると、上司は辛そうに、然し優しく微笑んでいた。
「忘れないでほしい。僕たちは君の味方だ。何時でも帰っておいで」
「…………はい」
その笑顔は、目印だ。私が迷ってしまった時の、きっと最後の目印。
訳も無く、そう思った。
「…………あの時の方法が違っていたら、あの子はこんなに迷わずに済んだのかしら」
「それでも僕たちの精一杯の方法だったよ」
「今回だって、こんな、あの子に苦労させる様な真似……」
「あの子なら大丈夫だ―――――信じよう。名前を」
「貴女が……?」
「はい。名字名前と申します」
「柏村です。驚きました、先生にこんな綺麗な娘さんが居たなんて」
―――――目標。名を柏村、男、十八歳、同い年だ。ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべている。第一印象、都会を初めて知った、人の良い学生。
―――――設定。私はこの男の、今は亡き恩師の娘である。数年前にその教師が此方に転勤したのに伴って横浜に来た。
先ず最初は電話から始めた。私は『父の教え子が此方に来ると人伝に聞き、話しをしたくなって連絡を取ってみた娘』を演じた。
居もしない父親像を丁稚上げ、もっともらしく振る舞う。そして逢う約束を取り付けて、今に至る。
待ち合わせた場所に現れた青年は、まさしく好青年だった。黒い髪は太宰を思わせるが、蓬髪とは違いさらりとして流している。浮かぶ笑顔は少し細い目を更に細めて、口からはとても丁寧な柔らかい口調の言葉が流れる。身を包む黒い外套は高級な物。下手をすると凡てが金持ちの餓鬼が澄まして居る様に見えるその外見は、青年が身に纏う雰囲気によって緩和されていた。
「その本、父が読んでいました。生徒の方が薦めて下さったと」
「あれ、そうなのですか。先生はこういう小説はお好きではないかと思ってましたよ」
「ええ。『自分には恋愛小説は合わない』とブツクサ仰っていました」
相手の話に合わせたり、状況によっては態と合わせなかったり。培った会話術は柏村の心を解した様だ。最初は矢張り見知らぬ人だと多少の警戒心は有っただろうが、今では結構打ち解けてくれている。
青年が通う学校の学費は高い。それを惜しげも無く支払っている青年の家は相当な金持ちらしい。行く行くはこの世間知らずの学生を誑かし、親から多額貰っているであろう小遣いを巻き上げる。それが目的。
―――――少なくとも、其れが今の『表面上』の目的と状況だ。
上司が渡して来た書類に走り書きされていた情報が頭を掠める。
何時にも増した緊張感に、じんわりと背中が冷や汗を掻くのを感じた。
「嗚呼、本当に良かった。おかげで色々と観光が出来ました」
「そんな、お役に立てて良かったです……あ」
「?……如何しました?」
「いえ、此方の方に私の自宅が……そうだ!柏村さん!」
偶然を装って、私の自宅の付近を通る。思い出したように手を打ち、さも『今思い付きました』と云う様に自宅に招いた。
父の話をもっとしたいんです。貴方からも聞きたいし、父が取って置いた思い出の品も有りますし。そう云って、是非、と目を輝かせて柏村を誘う。うーん、と彼は考え込んだ。
―――――お願い、掛かって。
「…………そうですね。じゃあ、お邪魔しようかな」
「わあ、嬉しいです!」
「然し、良いのですか。ご婦人の家に」
「良いんですよ!ぜひ来てください!」
―――――そうしないと、ゆっくりお話し出来ないでしょう?
「綺麗なお部屋ですね」
「いいえ。どうぞ、其処に座って下さい。お茶を今」
「いえ、お構いなく」
緊張を悟られない様に、茶を淹れる手が震えて居ない事を確認する。案外私は今落ち着いている様だ、驚いた事に。
私の手元を注意深く見る視線を感じて、内心少し笑った。そんなに警戒しなくても。
「毒なんか入れませんよ?」
却説。芝居はもう良いだろう。正直もう限界だ。主に緊張感が。
「……いやだな、行き成り物騒な事を」
「物騒なのは何方?」
茶を淹れ終わり、湯呑を柏村の目の前に置いた。それに目も呉れない彼の視線を受け止め、微笑んで見せる。
「その手を得物から退けて下さいよ」
衣服に隠れてて最初は判りませんでしたけど、最初から添えていたでしょう?
「―――――ポートマフィアの構成員さん」
「…………気付かれていたんですか」
「ええ。此方に信用できる情報源がありまして」
―――――そう。全部、嘘の情報だ。
この青年の、『田舎から出てきた学生』と云う虚像。それらは凡て嘘。
上司から渡された資料には、ポートマフィアから来た元構成員の女性のメモが一緒に這入っていた。
―――――曰く、この青年に関する情報は虚構の物。
おそらくこの事務所に近付くための罠。然もこの青年自身が、ポートマフィアに属する者だという。
『良いかい、名字君。彼の狙いは君に近付く事だろう。あからさまに結婚詐欺師の餌になる様な情報を流して来たからね』
『…………何故、そんな』
『判らない。ただ、予測出来た事でもあるかもしれない』
『…………如何云う、事ですか』
「貴方の目的は―――――太宰治に近付いてきた私を探る事。違いますか」
思えば、確かに予測出来た事だった。
太宰はポートマフィア幹部の一人。幾ら向こうの方から付き纏ってきたとはいえ、何処の物とも知れぬ女が関わって居る事は組織にとって都合の良い事では無い筈だ。
然も構成員が一人此方に引き抜かれている。何事だと思われていても仕方がない。
「其処まで判っていて、僕を招き入れた、と?」
「ええ」
最早、目の前の青年は殺気を隠そうともしない。人の良さそうな笑みは消え、底冷えのする気配が柏村を包んでいる。死と暴力の気配だ。
「誤解されて居ては都合も悪い」
「…………誤解?」
「はい。良いですか、ポートマフィアの構成員」
此処からが私の、今回の本当の仕事。彼に、ポートマフィアに、害意が無い事を示す。でないと事務所にも危険が及ぶ。
私に任せてくれた上司の顔が浮かんだ。あの人たちの為にも。
「私は太宰治に敵意なんてありません。況してやポートマフィアにも」
「ほう。それを信じろと?随分虫の善い話だな」
「なら私のこの家を隅々まで調べれば良い。何も無い事が判りますよ」
「そんな面倒な事をしなくても―――」
一瞬で距離を詰められ、音も無く青年が目の前に立つ。取り出した短刀(ナイフ)が閃いた。
首筋に、冷たい刃が中る。私は動かない侭彼を見る。
「貴女を拷問でもすれば早いと思うんですがね?」
冷たい笑みを浮かべる顔を、ただただ静かに見返す。
―――――やってみろ、と。其の侭数秒睨み合った。
「―――――――――ハッ」
先に動いたのは、青年の方だった。
「良い目しやがんじゃねえか。流石は詐欺師って処かァ?」
今までの好青年振りは何だったのだと云いたくなる程乱暴な口調。その言葉と共に青年は私の首から短刀を避けると、自分の髪を掴んで引き上げた。
それが外れた下から現れたのは、鮮やかな橙黄色。黒い外套を広げると、これまた高級そうな服が一式身に纏われていた。仕上げとばかりに懐から黒い帽子を出して頭に乗せる。
金持ちのお坊ちゃんは消え去り、目の前には黒社会に生きる青年が立っていた。
「…………貴方、詐欺師に為れますよ。役者でも良い」
「そりゃあどうも。演技は得意じゃねえんだがな。紅葉の姐さんに仕込まれはしたが」
「紅葉さんに……」
やれやれと腰を下ろす彼から先程の殺気は感じられない。然しまだ油断は出来ない、と気を引き締める。そんな私とは対照的に、青年は湯呑を掴んで茶を呷った。
「それで?貴方の目的は?」
この青年が何故私の処へ来たのか。
「私を探る為ですか?」
「いいや?単に俺が逢ってみたかっただけだ」
然し、あっさりと否定された。へえ、良い茶だなと目を丸くして湯呑を眺める。余裕が感じられて、此方の緊張感が笑い飛ばされそうだ。
「あの頓馬が最近大人しいしそわそわ落ち着かねえし」
頓馬って?……太宰か。
「部下に訊きゃあ、新妻が居るから落ち着かないんだろうと抜かしやがる」
「…………………………」
「本人に訊きゃあ、嫁が可愛い可愛い惚気てきやがる」
「……………………………………」
「で、何処ぞの女でもその気にさせて遊んでんのかと思えば、姐さんが気に入ったらしいとくりゃ興味も湧く」
「……その為にこんな……」
「手前も中々善い芝居っぷりだったじゃねえか。三流詐欺師の肩書は伊達じゃねえな」
莫迦にされている。揶揄われている。此奴、太宰と同じ匂いがする。
「……いえ、貴方も中々でしたよ。年齢誤魔化していたにしては……」
「ハァ?其処は騙してねえ、俺は十八だ。太宰と同じだよ」
「…………そうでしたか」
「手前……何を見て判断した」
前言を撤回する。太宰より怖い。正確に云うと太宰とは違う方向で怖い。彼方は底が見えない恐怖だとすると、此方は判りやすく暴力の気配がちらつく。とても怖い。
「次云ったらぶん殴るからな」
「抑も今何も云ってないです」
「顔に出過ぎなんだよ。まあ、騙して悪かったとは思ってる、これから宜しくな」
「いえいえ、ポートマフィアに誤解されてた訳でもなかったし此方も楽しかっ………………今何て」
何か違和感を憶えた。『これから』?『宜しくな』?
「あの青鯖の嫁にしちゃあ可愛げのある奴じゃねえか。気に入った」
「気に入らなくて良いです。て云うか今まで云いそびれてましたけどっ、
―――――私はあの人の妻ではありませんっ!!」
「おう」
さして驚きもしていない返事が返って来た。
「ンな事ぁ知ってるよ―――――だから面白ェんじゃねえか」
ぽかんとする私に彼が口角を吊り上げる。その笑みは矢張り太宰と似てるが、全く違う。
云うなら、彼方が加虐心の現れた笑みならば、此方は随分好戦的な笑みだ。
「意味は判りませんが、碌な事考えてないですね?柏村さん……」
「そりゃ偽名。『名字名前』は本名だよな?」
「…………ええ。偽名を名乗る必要を感じませんでしたので」
「俺は中原中也だ。仲良くしようぜ?名前」
(2017.04.20)
リクエスト企画2016.12 フユ様リクエスト「結婚詐欺師と中也さんとの絡み」