何とも詰まらない愛の話

(暴行、嘔吐の表現有り)





 煙草の匂いは嫌いだった。



 眠いのは別に寝不足だからではない。何だか最近はよく眠れるのだ。だから、休みなんかはついつい寝過ごしてしまって逆に眠気が取れない。何事も程々が一番だと思う。

 最近、なんて云うから隣に居る人は心配そうに「そう云えばこの間まで寝不足だって云ってたね。大丈夫?」と訊いてきた。

 そんな事云っただろうか、と思いながら取り敢えず返事をする。この間まで寝不足だったのは本当だから、憶えてなくとも周りに云った事くらいはあっても可笑しくは無い。

「大丈夫ですよ。悩み事が有ったんですが、解決したので」
「そうなんだ……云ってくれても良かったのに。僕、一応先輩だしさ」

 何故貴方に云わなくてはならないのだという疑問を飲み込む。確かに最近善くしてもらってはいるが、あくまで最近の話だ。この人と元々仲が良かった訳でもない。
 でも、相談に乗って貰ったのも確かで、礼は云うべきだなとは思った。

「こうして今話を聞いてもらっているだけでも嬉しいです。ありがとうございます」
「いいんだよ。…………名前ちゃんに元気が無いのは、僕も厭だからね」

 一寸だけ照れるように云って来た。その様子を見て少しだけ溜め息が出そうになる。ひょっとしなくても口説かれているのか、これは。流石にこの一回だけだったら親切で流すが、こう何度も何度も擦り寄られては幾ら疎くても気付く。今だって幾らかは洒落た酒場に誘われ、こうして共に飲んでいる。正直、こういう雰囲気の酒場に男女が二人、となると少しは意識せずには居られない。

 先刻、最近、と云ったがそれは間違いではない。何時だったか部下の女に振られたらしきこの男は次に標的を私に移したらしい。悲しいかな、マフィアと云うのは男組織で女なぞ、況してや想い人も居ず靡きそうな女なぞほぼほぼ居ないに等しい。それならそれで外で新たな慰み物を探せば良いものを、近場で済ませようと云う魂胆が透けて見えていっそ可哀想に思えてくる。何故私なの。



 私は中原中也の恋人だ。ああ、愛人の間違いではとは自分でも思う。

 数年前に、彼の相棒であるそれはまあ女好きでしかも美丈夫なものだからとてもモテる幹部が存在したのだが、極端な者が隣に居たから目立たなかっただけで、彼もそこそこ女遊びが盛んな人だった。彼も美形だったし地位も上で、寄って行く女性は多かった。

 そして不思議な程に女性関係の揉め事が少なかった。風の噂だが、女を泣かす事で有名な相棒とは違って、その後の対応やらが上手いらしい。実の処は後腐れなく遊んでくれる女性を選んでいる可能性が高いのでは、とか何とか思ったのはその話を聞いた時の感想だ。然し仮にそうだとしても確かに何も波風が無いのは凄いのだろう。何がかは知らないが。

 そしてそんな彼に近寄りはしない女性たちの中にも、彼に好意を持っている人は少なからず居た。部下にも手厚く、今では幹部にまで上り詰めている程の信頼を勝ち得ている頼れる上司。


 じゃあ私は何なのかと云うと、私も彼に惚れた女の一人だったのだ。


 偶に見せる、空虚な瞳が気になっていた。

 闘争が好きらしい彼は其れ関連の任務は何処と無く楽し気に熟すし、親しい部下と話す時の彼はとても良い兄貴分だった。

 でも、偶に、本当に偶に、『凡てが詰まらない』と思っているとしか思えない表情をするのだ。まるで、『今がとても退屈だ』と全身で訴える様に。

 それが気になって、目で追う内に自分の気持ちに気が付いた。


 初めは見ているだけでよかったの、なんて少女漫画でも在り来たりな言葉だが実際そうなのだから仕方ない。
 でも恋と云うのは恐ろしい物で、見ていれば善いと思う程に拗らせていくもので。

 彼になら殺されても善いかもしれない、なんて思ってしまうのだから手遅れだ。

 苦しいだけなのも中々辛い。辛いから無くしてしまおうと思った。
 詰り、彼に告白した。体よく振られて諦める心算だった。


 『恋仲になっても良い』。そう云ったのは彼だった。


 真逆、嬉しいのと、聞き間違いであって欲しいなんて気持ちが両立するとは思わなかった。
 どうせ直ぐ捨てられるのだから、了承なんてしないで欲しかったのだ。此方からは否定も出来ないのだから。

 そうして、私は彼の恋人になった。

 そうして何が変わったか。結論から云うとあまり変わらなかった。

 嗚呼、否、夜に彼が私の家に来るようになったのは私の中ではとても大きい、大きすぎる変化だった。
 でも、それ以外は本当に変わらなかったのだ。

 夜以外に話した事は全くと云って良い程無い。その癖目には這入って来るのは私の自業自得だ。相変わらず私は彼を遠くから見ていたし、彼は私を見てはいなかった。
 私が恋人に為ってからも彼に云い寄る女性は沢山居て、彼も拒みはしなかった。夜、私の家に来るときは大抵他の女の人と過ごした後で、寝台で組み敷かれる時は何時も彼の物ではない香水の匂いがしたし、首筋には赤い痕が付いていた。

 一度その痕は何かと訊いた事がある。彼は全く表情を変えず、淡々と一言応えた。

『虫に刺された』

 その時の、『本当に如何でも良い』と云ったような表情が忘れられない。
 彼が偶に見せる空虚な目を、目の前で見てしまった。


 悲しい気持ちが無い訳ではないけれど、正直に云うと何と無く、こうなる気はしていた。別に良かった。どうせ散る筈だった思いだ。何故交際する事を彼が了承したのか良く判らないけれど、気紛れか何かだろうと思っていた。



「名前ちゃん?名前ちゃん」
「え……あ、はい」

 悩みと云うのは中原の事だった。でももう良い。眠れない日も有ったけど今はそんな事は無い。これからもあの侭の関係で構わない。

「また、僕でよかったら相談に乗るからね」

 だからもう構わないで欲しかったが、断ろうとしても宥められて、結局次の約束までしてしまった。
 中原との関係はこの人も知って居る筈だ。然し、中原や私の様子を見て、付け入る隙があると思ったのだろう。
 溜め息は相手に聞こえているのか如何か。いっそ心の中の声まで響いてしまえばいいと思った。




 黒い手袋に包まれた指と指の間に、口に咥えられていた煙草が挟まれる。特に何処に目線を遣る事も無く、中原はゆっくりと紫煙を吐いた。革靴の近くに、僅かに乾いた石交じりの土がぱらりと音を立てて零れた。黒帽子の下から見える目がちらりと其方を見遣り、中原は半歩のみ下がった。徐に片脚を突き出す。

 鈍くて厭に大きな音が響いた。腹に蹴りを食らった男は、最早吐く物も尽きたのか透明な糸を口の端から垂らして呻き声を上げる。くの字に折曲がった体に纏った服は無残な程ボロボロで血が滲んでいて、然し彼の手袋が汚れていない事を見ると只管蹴られただけだったのかもしれない。

 ごほ、と男が咳き込む。二回目が口から出る前に、今度は喉元に靴の爪先が減り込んだ。男の目が見開かれ、声に為らない悲鳴が広がる。その間も、後ろから斜めに見える中原の顔は、特に表情が変わることは無かった。

 気が付くと、ぺたりとその場に座り込んでいた。気配には気付いていたのだろう、音を立てた私の方へ、驚きもせず中原が目だけを動かし視線を寄越す。その脚元に蹲っている男には見覚えが有った。最近云い寄って来ていたあの男。『名前ちゃん』なんて甘ったるく囁いていた口からはもう息すら出入りしているか怪しい。数秒に一回発作の様に大きく息を吸うから、それでまだ生きている事が確認出来ていた。

 如何云う状況かは判らなかった。否、状況は明白だ。なら判らないのは、何故。そうだ、何故此処で。此処は、私は帰る為に本部の外に出て、何と無く黒い外套が見えた気がして。
 回らない頭を動かして記憶を辿る。其れを見た後、帰ろうかと思ったけど何と無く気になって、引き返して来た。其処で目にしたのが一方的な、ただただ純粋な暴力。


 何で、如何して、と呻いていた声は直ぐに意味の判らない喚き声に変わった。此処は人気のない裏路地だ、声が響いたとしても表には届かない。助けなど来る訳はない。だったら目撃者が呼べばいい。だが私は動けなかった。

 少しだけ見えた中原の表情は、恐ろしい程何時も通りだった。

 それはそうだろう。闘争の中で生きる我々にとって暴力は日常だ。
 でも、こんな場所で知り合いが、となれば話は違ってくる。拷問でもない暴力の相手が同僚などと。

「なか……は……ら、さ……」

 だからか、出そうとした声は震えていた。

「…………―――――」
「ん?」

 中原が振り向き、聞こえないという風に首を傾げる。其の侭私の口元をじっと見た。

「……『なんで』?」

 唇の動きを読み取ったのであろう彼に小さく頷く。彼は少し考える様に上を見上げて、また此方を見た。

「虫は嫌いなんだよ」
「…………は」
「例えば、菓子の周りに羽虫でも飛んでりゃあ鬱陶しく思わねェか?」
「……?」
「で、菓子に虫が付いたら払うだろ。そう云う事だ」

 説明は終わってしまったらしく、彼はまた視線を男に戻した。

 その目は如何も見覚えが有った。嗚呼、忘れる筈もないあの目。
 それと同じ目で男を見ていた。

 空虚な目を見てきた。彼が詰まらない任務で弱い敵を殺した時とか、捕虜があっさり情報を吐いた拷問の時とか、云い寄ってきた女性と肩を並べている時とか、今とか。同じ目だ。

 退屈なんだと思っていた。虫を潰す様に簡単で詰まらない事ばかりで、退屈なのだと。

 ああ、彼にとっては虫なのか。全部全部。麻痺しつつある頭でそう思うと、それが一番妥当な理由な気がした。

 人間は直ぐに潰れてしまう虫に過ぎないのだ。彼に云い寄って来る女性も、何等かで刃向かってしまったのであろうこの男も。だから美しい蝶なら適当に食い潰すし、気に障った害虫なら潰すのだろう。


 もう短くなった煙草から細い煙が棚引く。彼はピクリとも動かなくなった男の腰の辺りに煙草を落とすと、煙草ごと男を踏み潰した。

 グシャリ、と音が聞こえた。

 勿論空耳だ。人間は潰れない。虫みたいには潰れないのだ。例えば彼の異能力を持ってしたって。


 ねえ、知っていますか、人は虫じゃないの。でも其れを云ったらきっと潰されてしまう。きっとあの如何でも良い物を見る目をした彼に。


 一体私は何時潰されるのだろう。遠くは無いだろう其の時を怯えて暮らさなければいけないのか。
 ああ、でも。

 捨てられるくらいなら、潰された方が善いかもしれない、なんて。


 動かない私の傍を彼が通り過ぎるのを横目で見ながら、死体の様になった男を眺めていた。

「名前」

 呼び掛けられてからやっと、差し出されている手に気付いて。その手を取るまで、潰されてしまった人間を見ていた。



 そう云えば、彼が煙草を吸っている処を初めて見たな、と思った。

(2017.04.05)
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