女よ、美しいものよ 上

女よ、美しいものよ、私の許にやつておいでよ。





 良いかい、此処でかくれんぼをしてはいけないよ。「もういいかい」って訊くだろう?返事なんて返って来やしないよ。隠れた子供はみんな連れ去られてしまうのさ。誰にって?誰にだろうね。きっと、此処で昔々に死んじまった子供が、寂しくて連れて行ってしまうんだろうなあ。

 だから、この旧校舎で、かくれんぼなんてしてはいけないよ。


 ―――――なんて、大人たちは云っているが、実際の処廃校舎が危ないから子供が這入らない様に流している噂に過ぎない、と名前は考えている。

 実際の処、直接聞いた訳ではない。此処で一緒に遊んだ友達が云っていたのだ。結局何にも無かったのだから迷信だろう。


 十年と少し前に廃校になったらしいこの校舎は妙な薄暗さと云い涼しさと云い、名前たちの様な十くらいの子供達には良い遊び場であった。

 然し名前は今、彼女にとっては一大事と云えるほど悲しい事態に遭遇していた。
 遊び相手の消失である。

 とは云っても、大人たちの戯言の様に、この廃校舎内で霧散してしまった訳ではない。単に、名前の友人たちは、保護者達に此処で遊んでいる事がばれてしまい、此処に来れるのは名前唯一人のみとなってしまったのである。

 それならばそれで、他の子供と共に遊べる処で遊べば善かろう。然しこの廃校舎は名前の大のお気に入りだった。そして、些細な事が事件となるこのお年頃、この処仲の良い友人と仲違いをしていて、一緒に遊ぼうにも中々難しい状況となっていたのである。

 仕方なしに、名前はたった一人でこの廃校舎に来ていた。一人ぼっちとは云え、お気に入りの場所に居るのは名前の気分を幾分か上昇させていた。
 然し一人であるという事実は重く伸し掛かって消えなかった。名前は最早学び舎の気配が無くなった薄暗い廊下の真ん中で、一人しゃがみ込み。込み上げてくる涙を必死に堪えていた。


 十程の子供。何時しか眠ってしまっても、誰が咎められよう。泣き疲れた名前は、赤く腫らした目を閉じ、静かにコクリ、コクリと転寝をしていた。


「―――――おい」

 不意に少し高めの男子の声が響き渡り、名前の肩がビクリと震える。閉じていた目がぱちりと開いた。

「手前だよ、手前。何してンだよ」

 おそるおそると云った体で振り向いた。誰も居ない筈だと思っていた場所に自分以外の者が居る事に驚愕し、また、振り向いた瞬間、目に這入った鮮やかな色にも驚いた。

「……口が利けねえのか?それとも俺の問いに応える気は無ェってか?」

 立ち上がって声を掛けてきた其れと向き合う。


 背丈は同じ位なので、暗い暗い色をした目と自分の目が真っ直ぐ合った。夕日の色をした髪がさらりと揺れた。への字に曲げた口が更に歪み、吊り上げた目が更に名前を威嚇する。

「生きてンなら返事くらいしやがれ」
「………………誰」
「あ?」

 あんまりにも小さい声で云った所為か、少年は詰め寄って来た。それに怯えた名前は小さく悲鳴を上げて後退る。
 その様子に、少年は不服そうな顔をして立ち止まる。

「…………ちゅうや」
「え」
「中原中也!手前は!」

 少年が自らを示し云ったので、名前は其れが少年の名前なのだと悟る。そして自分も名乗ったのだからお前も名乗れと云われているのだと。

「……名前」
「名前」
「うん、名字名前」
「ふぅん。で、何してンだ」

 名乗った事で少年―――中也の警戒心は少し解けたらしく、先程よりはやや柔らかい雰囲気で問い掛けてくる。一方名前はまだ少し怯えていて、それでも問いに一生懸命に応えた。
 何時も友人と遊んでいるが、その友人と仲違いしてしまい、此処に来たのだと。

「……へえ」
「貴方は」
「俺は……大体似た様なモンでな。訓練してたらヘマして、怒られたから此処に来た」
「貴方も泣きに来たの」
「ンな訳ねえだろ。一人で練習するために来たんだ。あの青鯖野郎に見つかんねえ処でやりたいからな」

 あおさばやろうとは何の事だろう、取り敢えず不味そうだと思いながら、名前は適当にへえーと相槌を打った。

 そんな名前を眺めていた中也は、其処で漸く少女の服装に目が行った。目の前の少女の服には四角い名札が付いている。
其処に『名字名前』の文字を認めた中也だが、その学校の名に見覚えはなかった。自分が所属している組織により教育は為されているため、一般の少年たちが通う学校に縁はない。だから、少しだけ興味を引かれた中也は、その名札が付けられた、少女の衣服へと手を伸ばした。

「っ!?」

 その時、名前は中也の思ってもみなかった行動に驚愕した。そして身を引こうとして、誤って体のバランスを崩してしまったのだ。

 縺れた脚は踏み止まろうとして反対に力を入れ、入れすぎて、とうとう其の儘転げた。中也の方向に、である。

「きゃっ!」
「おいっ……!?」

 そして。衝撃に備えて目をぎゅっと瞑っていた名前は、何時まで経っても来ないそれに、また目を開けた。そして、驚きに見開いた。


 名前の体は浮いていた。床から少しばかり、斜めに傾いた侭ふわふわと。支えるように名前の腕に添えられた中也の手で抑えられ、地上に留まっていた。

「なにこれ……!?」
「……………………俺の」

 慌てる名前とは裏腹に、中也は微かに青褪め、息を呑んだ。其の儘悔しそうな顔をする。

「俺の所為だ」
「え?」
「俺の能力なんだ。物を浮かせたり重くしたりするんだよ。まだ上手く制御できねえんだ。悪……」
「………………凄い」
「い……はっ?」
「凄い!凄いよ!中也君凄い!」
「そ……そうか?」
「うんっ!」

 一通りはしゃいでから、中也が名前を下す。二人の間に有った警戒心だの、距離だの、遠慮だのは綺麗さっぱり消え去っていた。

 中也は訓練に戻るのを止めて名前との話を選んだ様で、居座る気満々で汚れた廊下に腰を下ろした。名前も特に拒む理由は無かったので、隣に座り込む。

「名前は何時も此処に居るのか?」
「何時もは居ないよ。ただ、此処はお気に入りだよ」
「名前の友達は来ねえの?」
「…………来ないと思う。此処は来ちゃいけないから」

 中也が首を傾げたので、名前は此処に纏わる大人たちが流す迷信を一生懸命説明した。

「……連れ去られる、ねえ……」
「うん。だから、此処には今は誰も来ない。私以外」
「意外と悪い奴なんだな、手前」
「悪い子じゃない。だってあんなの嘘っこだし」

 へえ、と中也が隣でクスクス笑う声が聞こえたから、名前は頬を膨らませて其方を見た。莫迦にされていると思ったからだ。

「ほんとだもん。だいたい、皆は弱虫。云われたからって。おかげで私、一人ぼっち」
「?……別に此処以外で遊べば良いじゃねえか」
「此処以外…………?」

 云われて、名前ははたと思い出す。抑々、自分が此処に来たのは何時の事だっただろうか。確かに友人と仲違いし、泣きながら此処に来た。だが、その前は?みんなが来なくなったのは何時からだ?

―――――自分は何時から『一人ぼっち』だったのか?

「……ま、良いけどよ。なァ、暇なら付き合えよ」
「つきあう?何に?」
「俺の訓練!」

 そう云われ、先刻の体験を思い出した名前は目を輝かせた。然し中也は名前の考えていることを否定する。

「手前が何考えてるか判るけどよ、違うんだな」
「えー。じゃあ何するの」
「決まってるだろ」

 俺たちは悪い子だろ?そう云って、少年はニヤリと笑った。

「『かくれんぼ』さ」



「もういいかーい!」
「まあだだよ!」
「もういいかい!!」
「……もういいよっ!」

 中也と出逢って、互いに生活の合間を縫っては廃墟で待ち合わせ、度々二人で『かくれんぼ』をするようになった。一対一で面白いのかと思われるかもしれないが、これがまた中々如何して楽しい。

 中也はその能力や運動神経を活かして、名前が思いもつかない場所に隠れたり、堂々と天井にぶら下がっていたりした。蝙蝠のように逆さまの中也を見て唖然とする名前を見て、中也はケラケラと楽しそうに笑い、名前も感心して、矢張り笑うのだった。

 名前は隠れる方法や場所に工夫は無いものの、負けず嫌いの部分が有るのか、見つかってからが勝負だった。
 中也が名前を見つけたのが名前自身に伝わると、少女はその逃げ足の速さを存分に発揮した。詰まりは、かくれんぼが鬼ごっこに変わるのである。

 最初の頃は、中也は脱兎の如く走り出した少女の背を、少し口を開けてポカンと見送りかけた。然し名前の意図をすぐさま察し、「手前往生際が悪ィぞ!!」と喚き乍ら追いかけ始めるのだった。

「はあー……はあっ、よし、もう此処まで来れば……」

 果たして今日も、かくれんぼと鬼ごっこが混じった遊戯は佳境に這入り、名前は切れた息を整えながら、後ろから追ってくる気配が無いのをニンマリと笑い喜んだ。
 然し、そうは問屋が卸さないのである。

「此処まで来れば、何だよ?」
「!?」
「捕まえた!」

 その声と共に名前に影が掛かった―――と次の瞬間、ばさりと名前の後方、その上から少年が文字通り降ってきた。其の儘名前の背中にどさりと落ちる。

 少年が自身の重さを軽く出来るとはいえ、後ろから衝突される勢いで抱き着かれる格好になった名前は呻き声を上げた。

「重い!重いよ中也君!ああもう今日はイケると思ったのにい!」
「フン、手前が俺に勝つなンざ数十年早ェよ」

 否、数十年経っても無理だな。そう云って漸く名前を解放した中也は得意げだ。一方一度も中也に勝てた事の無い名前は頬を膨らませる。

「云っておくけど、私、友達の中じゃ一番かくれんぼも鬼ごっこも得意なんだからね!」
「ハイハイ…………ンな事云って手前、その『友達』とやらと居る事なんて―――」

 其処まで云って、名前の表情が変わったのを見た中也は『しまった』とばかりに口を閉じた。

 名前の友人を、中也は一回も見たことが無い。この廃墟で待ち合わせるようになってから、二人の他は誰も此処に来ないのだ。

 名前の話によれば此処は立ち入りを禁止されているそうで、それならば納得できる部分も無くはないが、それにしても名前が此処に来ているのに一回も誰も来ないのも腑に落ちない。

 そう考える中也に、ぽつりと名前が洩らす。

「…………みんな、私を置いて行ったの」

 この言葉を名前が云うのは、初めてではなかった。中也が一度、友人と仲直りをしたのかと訊いた時に、名前がそう云ったのだ。

 意味は判らない。判らないが、非道く寂しそうな表情をする彼女に、それ以上詮索することは出来なかった。

 だから中也は、名前に笑いかけた。

「大丈夫だよ、名前」
 この寂しそうな少女が、少しでも明るい表情に為るように。

「俺は絶対置いていかねえよ。手前を何度だって見つけてやる」
「……本当に?」
「ああ。云っとくが、何処に隠れたって逃げたって無駄だからな。追いかけて捕まえてやるよ」
「中也君が云うと物騒!」

 中也が揶揄うように云うと、名前も釣られて笑う。二人の笑い声が響いた。

「…………ありがとう」

 笑顔の侭、名前が云うと、中也も微笑んで云った。

「先刻云ったこと、本気だからな。忘れんなよ」
「うん!」

 なんて優しい笑顔なのだろう、と、名前は何故かくすぐったい気分になった。



 その日を境に、中也はぱったりと、廃墟に来なくなった。

引用:中原中也「女よ」より
(2017.04.29)
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