正しい愛し方なんて、知らない

(『臆病者共に、幸あれ』続き)




 私の名前は名字名前。しがない結婚詐欺師だ。今まで色んな男と逢って来たが「月が綺麗ですね」なんて浪漫がある台詞を云って来た奴は流石に居ない。

 然し今歩く私達の頭上に輝く月は見事で、そんな気障な文句を云っても違和感なんて無さそうな、そんな雰囲気を醸し出していた。


「月が綺麗だねえ」


 だから隣を歩く男がのんびりとそう云ったとしても、さらりと流してしまいそうで。

「ねえ、名前?」
「何ですか、『貴方の方が綺麗ですよ』とでも云って欲しいのですか?」
「それは何方かというと男が云う台詞の様な気がするし、欲しい返事も残念ながら其れじゃあない」

 けどまあ、良いか。同じ調子で、ゆっくりと、きっと笑顔の侭であろうと判る声音で、太宰が云う。

「此処で『死んでもいい』なんて云われたら、本当に連れ去ってしまうかもしれない」

 唄う様な声の中に冷えた感情を感じ取り、背中にピタリと刃物を中てられた様な気がした。其処で漸く私は、太宰が今日の私の行動に怒っているかもしれないのだと云う事に気が付いた。立ち止まらずに二人並んで歩いているのだが、とてもではないが隣を見ることが出来ない。

「あの、今日の事はほんの出来心でして、別に……」
「なあにー?私は特に思う事は無いよ。どうせあの蛞蝓が唆したんだろうし。例え君がそれにほいほい乗ったとしても君に罪は無いと思っているよ」
「先刻から気になっていたのですが、蛞蝓とは中原中也の事ですか」
「私の前でその名前を出さないでくれ給え」
「……思っていたのですが貴方達は輪廻の輪に乗る前は犬と猿だったのですか?」
「輪廻転生など信じてはいないけどねえ、何方も厭だな」
「貴方が嫌うんですからきっと彼方が犬ですね」
「え、待って私が猿なの?」
「人間に進化して良かったですね」
「生まれ変わりと進化は違うと思うのだけど」

 ごもっともな意見だ。

 こうして雑な話に応じる処を見ると、そんなに怒っては居ないのかもしれない。そう思いたい。ちらりと隣を見る。月明かりに白く照らされる横顔に、穏やかな笑みが浮かぶ以外は、感情は読み取れなかった。

「…………怒っては、いないのですか」
「怒ってなんかいないさ」

 弾む口調はその言葉が本当であると告げている。遠足の前日の子供が、明日は良い天気だと良いねなんて云い出しそうな雰囲気で、太宰は云った。

「君が友人を作るのは勝手だし、それが中也でも私は別に構わない。何なら君が騙そうとした男と仲良くなったとしてもまあ赦そう。浮気は見過ごせないけど交友関係にまで口を出す気はないさ」
「――――――」

 何。何だ。何か違和感がある。この人はそんな事を云うような人だったか。

「何の心算ですか」
「何が?」
「否……その」

 訊き返されて戸惑う。何処が可笑しいのかと云われればはっきりと答えられない。私の杞憂に過ぎないのか。それでも矢張り変だ、と太宰の腕を引き、二人で向かい合う。

 そうしてから、深い後悔が私を襲った。開いた口は、息を呑み込んだためにまた閉じた。
 その目から光が消えた表情を、私は何度も見てきたというのに。


「名前、結婚しようよ」


 前触れも無く、明日購い物にでも行こうとでも云う様な口調で、薄い笑顔で、目の前の男が云う。ゆっくりと、私の両手を握って。


「そうして私の家で暮らそう。生活用品をまた二人で揃えるのも良いと思うんだ、だから今の名前の家にあるものは捨ててしまおうよ。それで二人だけで暮らすんだ。嗚呼、私はマフィアだから君にも危険が及ぶかもしれないね。大丈夫だよ、外に出なければ良い。最初は窮屈で退屈で不安に思うかもしれないけど心配は要らない。云っただろう、不安なんて消してあげるって。私に任せてくれれば君の心配も不安も消してあげる」

 ―――――だからさ、ねえ、結婚しよう。

「……それは」
「うん」
「…………それは、結婚とは云いません」

 束縛、監禁、飼い殺し。それらで構成された拷問。それが一生続くだけの生活。

「大丈夫、君に逢う者が私だけになれば、そんな事は些細な問題になるさ」

 楽しそうに笑って、さも素晴らしい事を提案するかのように太宰が云う。否、彼にとっては普通で、素晴らしくて、息を吸う様に実行できて、吐く様に継続できる事なのだろう。


 ―――――頷いてしまえ、と誰かが云った。

 頷けば一生囚われる。でも、其処はきっと甘美だろう。
 逃げ出せなくて。ただただ溺れて。堕ちていくだけ。
 この人が居るから、私はずっと一人ではない。

 そう思って、私は口を開いた。


「―――――云ったでしょう、太宰治。貴方の妻などと御免です」
 握られた手を静かに外す。
「……君なら、そう云うと思っていたよ」

 様子が可笑しかった太宰の雰囲気が、何時も通りに戻る。何処かほっとしている気配がした。

「案外、あの人の云う通りですね。中原中也に云われたんですよ」
「……何でこの期に及んで其れの名前出すかなあ」
「き、聞いて下さい」
「…………まあ、中也なんかに盗られる事は無いって知ってるけど」

 そうだろうとは思っていたが、矢張り怒っていた。仕事以外で男と逢った事、況してやその相手が己が忌み嫌う同僚だったことで更に機嫌が悪化したのだろう。ざまあみろと云える状況ではあるが、中原に云った通り、この形での意趣返しはこれっきりにしておこうという気持ちの方が強かった。

「彼が云うには、私達は真面な恋愛と云う物を知らないそうで。間誤付いていると」
「……そうだね」
 否定するかと思いきや、太宰は静かに頷いた。

「だって私は、結局、如何すれば君が一緒に居てくれるか判らないんだもの」

 『一緒に居て欲しい』と云った。それは相手を閉じ込めて、捕まえれば達成されるけど、それは望んだものではないのだろう。

 この人は其れを知っている。例えその行いがこの人の本質に近いものだとしても。だから私が頷いてしまったら、この人は傷ついてしまうかもしれない。例え溺れる事を望んだとしても。

 不意に、太宰が手を伸ばしてくる。一瞬身構えた私の前で、その手は広がった侭制止する。

「……手」
「え?」
「……手は繋いでも良いんだろう」

 その恰好では繋ぐと云うより何かを強請っているように見える。だがこれ以上墓穴を掘るのは止しておいて、大人しく手を取った。私の右手と彼の左手が重なる。先に歩き出したのは太宰だった。直ぐに並んで歩く。


「貴方、本当にマフィアだったんですね」
「君だって本当に詐欺師だろう」
「そうですね。そして、貴方は真っ黒ですね」
「そうだね。そして、君は嘘吐きだ」

 正しい恋への落ち方なんて知らないし、誰も教えてくれない。正解ではなくて良いから誰か痛くない落ち方を教えて欲しい。持久戦はまだ続くのだ。


 月が綺麗だと思った。鬱陶しくなる程に。

(2017.04.27)
ALICE+