婚前旅行と洒落込みまして

(ほんのりR-15描写あり、苦手な方は注意)





 私の名前は名字名前。しがない結婚詐欺師だ。私が勤める事務所には私の他に数人の事務員が居る。まあ人相の良し悪しに目を瞑れば、そこそこ良い人たちの集まりだ。犯罪者だけど。

「お嬢、これ使って下さい」

 偶に、うっかりくじ引きで当たってしまった何かを誰かに譲るなんて割とよくある事だ。邪心が無い所為で当たりやすいのか。
 だから目の前のこれも良くあることなのだ。良くある事なのだけれど。

 何故私に。

「あの包帯だらけのマフィアと行って来たらいいじゃないですか。俺は如何も相手が居ませんで。こんなん持ってても仕様が無ぇ」

 自分は今渋い顔をしているだろうと自覚しながら、目の前の男を見上げる。中年なのを感じさせない、事務所でも主に『実行犯』役のこの人は見た目と話し方に似合わず、人見知りだ。太宰が来た時も隅っこで様子を伺っていた。

「…………お気持ちは嬉しいですが……その」
「要らないんなら捨てて下さい。じゃ」

 男はさっさと私の手に紙切れを押し付けると、そそくさと去って行った。その背中を見るのは何時もの事だがこう……心細くなるのは何故だろうか。

 手の中の紙を見ると、紙と云うより封筒である。中の薄い紙を取り出すと、『旅行』の文字が見えた。



「……えっ?」
「…………」
「…………えっ?」
「………………ですから」
「…………旅行?」

 太宰のぽかんとした顔を見ていられずそっぽを向く。別に旅行券を貰ったから行かなくてはならない理由など無いのだが、ほら、好意は無駄には出来ないのだ。それに慣れない旅行に一人で行く気分にはなれない。

 昼に私の家に突撃してきたこの男は幹部などという職業についている。無理に決まっている。だからこうして誘ってはみるものの、断られるに違いない。ほらだって、頭の中の予定を確認しているのだろう、卓袱台の向かいに座る彼は渋い顔で上を見上げていて、懐から携帯を……携帯?

「あ、もしもし?私だけど。明日に予定してた会合ずらしてくれる?あと昨日の書類机の上だから首領に出しておいて。其れから―――」
「……あの」
「そうそう、今日と明日私戻らないから」
「…………ちょっと」
「え?何かあるのかって?一寸温泉へ」
「待って色々突っ込むので先ず電話を止めなさい!」



「はい……はい……ええ。明日の午後には……え、大丈夫?いやでもそんな訳には……あ、ありがとうございます……はい。それでは」
 電話を切ると、隣から声がかかる。
「ね?大丈夫だったでしょ?」
 其方を見て、小さく頷く。『この頃仕事とそっちを両立させて大変だろう。ゆっくりしてきてね』なんて上司に云われては頭が上がらない。

 あれから、太宰の行動は早かった。移動手段は『私の運転で良いよね!』、宿泊施設は『大丈夫、懇意にしてる施設あるから』、金は『妻に払わせるなんて出来る筈ないじゃないか!』。誰が云ったかは火を見るよりも明らかだと思う。そして殴らなかった私を褒めてもらいたい。殆ど誘拐だった。

 結局貰った旅行券のお陰で―――というか使える事に驚いたが―――少しは良い食事が出来る様だ。元々食事は良い物だろうから、たかが知れた変化だろうけど。幹部と云えども金は有限だろう。だからこんな下らない事に力を発揮しないでほしい。


「下らないとは失礼な。名前から誘ったんじゃないか」
「確かに旅行券を貰ったから消費するのを手伝って下さいとは云いましたけど、二人で行こうとは云ってません」
「なら何で私に云ったんだい?」
「………………」

 この人の問いに少しでも言葉が詰まってしまったらもう負けだ。事実、隣の運転席から笑い声が上がる。

「もう〜可愛いなあ名前は〜」
「前を見なさい前を!運転中でしょう!」
「一緒に温泉這入ろうね!」
「絶対に厭です」
「温泉は一つしかないのだよ。混浴だから」
「だから何ですか!?順番に這入れば良いのでは!?」
「布団も一組しか無いらしくて」
「それは流石に嘘ですよね!?莫迦にしてます!?」
「部屋もひと……」
「判った!判りました!同室でも文句云いませんからせめて布団は分けて!」



 そういえば事故が起きなかったな、なんて口に出せば怒られそうな事を考え乍ら助手席から降りる。
 ポートマフィアと懇意にしているらしきその旅館は想像よりもこじんまりとしていた。人が来なさそうな場所に立っている所為か客も少ないように見える。
 いや、少ないというより、マフィアしか居ないのか、此処は。

「…………矢張り日帰りで」
「やァーだ。ほら行くよ」

 確かに。提案したのは確かに私だ。腹を括るしかないのだろう。提案した時点でこうなる事は予測出来た筈だ。真逆あの場で連れ去られるとは思ってなかったけど。

 手を引かれて、此処まで張って来た何かが切れそうになる。緊張しているのは否めないのだ。

 云い訳に云い訳を重ねながら此処まで、何とか平然としていたけれど。

 男と二人きりの旅行なんて、私も初めてなのだ。
 手くらい、震えたって、仕方がないと思う。



「温泉に這入って、食事して、寝るだけ。明日になればこの悪夢も終わる。温泉に這入って、食事……」
「名前からお誘いを受けるなんて夢みたいだなあ。一泊と云わずさあ、一週間くらい遠出しない?」
「莫迦云わないで」

 部屋に案内され、急いで取り繕った荷物を解きながら、自分にぶつぶつと云い聞かせていると、部屋の窓の方から能天気な声が聞こえた。自己暗示が中断された私は苛々と云い返す。
 畳が敷かれた和室の雰囲気が落ち着いているのが、何故か更に癇に障った。

「知ってると思いますけど私の逃げ足は速いですからね」
「知ってると思うけどマフィアの包囲網は伊達じゃないよ」
「旅行に包囲網敷かないで下さいよ!」
「だってさ」

 決して其方を見ない様にしていたのに、とさりと音がして肩に重みが掛かり、内心悲鳴を上げた。首の前で腕が交差するのが厭でも目に這入る。肩に顎が乗る気配がした。

「名前が全然素直にならないから」
「……何が」
「名前から誘ってくれるなんて最初じゃあ在り得ない事だったよねえ。泊りが厭なら大人しく車に乗らないで逃げれば良かったんじゃない?」
「…………」
「駄目だよ、名前」

 顎が乗る肩とは反対側の、頬に彼の手が添えられた。その所為で耳に直接感じる息遣いが更に近くなる。

「自分を騙すのなら、もっと上手い嘘を吐かないと」
「……五月蠅い」
「私は優しくないよ?君が私にまで嘘を吐くのなら君が守っているものなんて全部壊すから。どれが嘘かなんて判らなくなる程粉々に」

 ゆっくりと腕が解かれて、離れる足音がした。「名前、」と呼びかける声は直前の空気など無かったかのような。

「一寸休んだら温泉行こう!準備しててね!」

 パタパタと部屋から出て行く音がした。目を向けると、先刻脱いだらしい黒い外套が目に這入る。先刻の声が厭に頭にこびり付いた。

 ―――――『私は、優しくないよ』


「……………………うそつき」



 確かに聞いてはいた。混浴だと。確かに一緒に這入ろうとか云っていた。了承した覚えはないけど。
 女子更衣室の前で全く予想していない行動に出るのは本当に勘弁してくれまいか。

「服はっ、自分でっ、脱げますっ!!」
「ええ、だってえ名前、嫌がってたんだから此処から逃げられたら困るじゃないかあ」
「腹は括りました!括りましたから!何が悲しくて幹部が変態紛いの事してるんですか!?」
「嬉しい時も悲しい時も同じ事してると思うのだけど」
「認めて開き直るんじゃないっ!!行きます!行きますから!」

 どうせ逃げたって追って来るのなら覚悟を決めるしかないではないか。というか男女が風呂に共に這入るとか何なのだ。世の中はそんなに乱れているのか。こんなのが公共の施設に有るのが信じられない。

 まあ、実際は女湯と男湯も、詰りは混浴ではない湯も有ったのだが。そんな事は私には関係なかったのだ。太宰が這入りたいと云った時点で。私は帰りたい。



「……まだ来てない……というか」

 誰も居ない。夕方だから当然か……と思いつつ首を傾げる。はて、夕刻でも入る人が一人も居ないなんて事が有り得るのか。

 疑問に思いつつも取り敢えず湯に這入るかと、足先から浸かる。徐々に体を沈めていくと広がる温かさに口から息が洩れた。

「…………はぁ」
「……何でタオル巻いてるのさ」
「はぁ!?」

 後ろから突然響く声に素っ頓狂な悲鳴が出た。何時の間に湯に這入っていたのか太宰がかなりの至近距離で、はだ、肌が、包帯巻いてないこの人!

「いやいや近い!近いです!」
「タオル巻くのはマナー違反だよ?」
「触ら!ないで!ください!来ないで!」

 幸いにも透明ではない、然し動きにくい湯の中を必死で後退する。きょとんとする太宰の顔には何時もの包帯は無い。濡れた髪が張り付いた右目の直ぐ上には少し歪な傷痕が見えた。首筋にも何かの跡がある。
 それら凡てが露わになっている肌は吃驚するくらい白い。白いその手が此方の腕を掴んで、引っ張られた私は其の侭彼の腕の中に引き摺り込まれる事となった。

 向かい合わせで。防壁はタオル一枚のみで。

「…………太宰治」
「何だい。ああ、矢張り腕が細いねえ」
「太宰治。『一緒に這入る』というのはくっ付く必要は全くないと思うのですが」
「あのね、名前。私はこれでも気を使っているのだよ」
「はあ?」

 冷静な会話が出来ているのは訓練の賜物だ。詐欺師として危機に陥れば陥る程落ち着いて来る。現状を踏まえつつただただ耐えるのだ。別名『思考停止』とも云う。

「『灯台下暗し』と云う言葉を知っているかい?」
「ええ、まあ……」
「つまり人はね、遠くの物に目を取られがちで、近くの物が見えないものなのさ」
「詰り?」
「君が離れた処に居たら、きっとその肌が良く見えてしまうだろう。だからこうして近くに居る事で君の体を見ない様にという私なりの配慮なのだよ。況してや抱き込んでしまえば全く見えない」
「成る程」

 ……………………………………。

「いや誰が騙されるか!!そんな妄言!!」
「ああ〜あったかい……」

 もう完全に無視されている。
 判った。私も無視しよう。なに、湯の中だ。外で同じ状況になるより千倍はマシな筈だ。

 何処かで湯が絶え間なく落ちる音がする。布一枚で肌を合わせているという事実は思っていたよりも重い。呼吸に合わせて上下する肌は思っていたより硬い。

 細い首が間近に有った。ふと腰の辺りに巻き付いていた腕が更に締まって、二人の間に隙間が無くなる。そんなに大きくはないと自覚している膨らみが押し付けられて、口から出そうになった息を慌てて噛み殺す。何にもない。何にもない。何も当たってない。

「肌白いね」
「…………」
「髪の毛も綺麗だし」
「……………………」
「温かくて柔らかい」
「………………………………」
「小さいけど胸も形が良……」

 ばしぃん!!と、誰も居ない銭湯に音はよく響いた。

 後から聞いた話だが、元々女性構成員が少ない所為か、この時間に誰も居ないのは何時もの事らしい。何故それを太宰が把握していたのかは知りたくもない。



 もう此処まで来たら自棄だ。当然のように一組しかない布団にげんなりしつつ、そう思う。食事は美味しかった。味をあまり覚えていないけど。美味しかったと思う。だからそれでもう良いとしよう。

 それでも、先に布団に這入ってニコニコと待ち構えているアレを見ると、如何しても決意は揺らぐ。

「そんな世界が滅びたみたいな顔しないでよぅ」
「そんな顔してますか私……」
「何にもしないから。何にも」
「貴方の『何も無い』と私の『何も無い』は大きく違うと思いますが」
「…………ええと……最後まではやらない」
「判りました。布団もう一組出します」

 浴衣の襟を直し、立ち上がる。然し振り返った瞬間、袖がクイッと引かれる気配がした。見ると、少しだけ起き上がった太宰が上目遣いで此方を見上げている。

「…………駄目?」
「駄目です」
「うわあああん名前の莫迦!良いよ!隣に布団敷いて寝ると良いよ!夜中に何されても文句云わないでね!」

 泣き落としかと思いきやただの脅迫である。此の侭だと本当に夜中に襲われかねない。溜め息が口から洩れる。
 もそもそと元の位置に戻り、布団に手を掛けると先刻の不満顔は如何したと云いたくなる程太宰の顔が輝いた。蹴り飛ばしたい。

 布団の中は温かくは無かったが、隣に寝る人間の所為で其処まで冷たくもなかった。私が這入るまで布団を持ち上げていた太宰が腕を下すと、ぱさりと掛け布団が落ちてくる。そして当然のように温もりに包み込まれた。

「…………なにも、しないで」
「はいはい」

 向き合ったまま、抱き合っている様な。そういえばこんな事が前もあった。何時だったか、朝起きたら布団に此奴が潜り込んでいた。懐かしい。真逆二度目が有るとは思わなかった。

 無かったのだ。降誕祭の時だって夜中とはいえ無理矢理帰った。夕食まで共にするようになったとはいえ流石に泊まることまで赦してはいない。

 おそらく『旅行』だからだろう。とてもじゃないが自分の家に泊められるかと云えば死んでも厭だし、逆も然りだ。

 そんな事をつらつらと考えていると―――不意に、視界が天井を向く。

「…………何も、」
「しないよ」

 上に乗って来た太宰を睨む。動かす前に手首を抑えられた。先刻解いたらしい包帯は其の侭巻かれない侭だった。浴衣以外は何も纏っていない男が此方を見下ろす。
 左目は微笑んでいた。右目は良く見えなかった。

「……口付けだけ」
 ぽつりと呟く声に力は無い。
「それだけ。駄目?」

 応える前に唇が重なる。選択肢なんて無いじゃないか、と思いながら目を閉じた。深く深く絡め取ろうとする舌は、多分、私が応えない事を知っていた。



 夜中に目が覚めたのは、月の灯りが明るかったからだと思う。
 少し顔を上げれば、向き合う様に眠る人の顔が見えた。寝る前に無かった距離が、寝ている間に生まれていた。

「……今更、疑わないで下さい」
 二人の間に有る彼の手に、少しだけ触れる。
「私だって、近付き方が判らないんですよ」
 嗚呼、きっとこれは夢だ。

「貴方の前じゃあ、私は嘘吐きにも慣れないから」

 ―――――貴方に吐いた嘘なんて一つだけ。綺麗な月の下で云った、貴方が嘘だと判っていたから云った、あれだけ。

 きっと静かな夢を見たのだ。だから自分のこの言葉も多分夢で。
 微睡みの中、また意識が落ちる前。
 触れたその手が握り返されたのも、きっと夢に違いない。

(2017.05.08)
リクエスト企画2016.12 優愛莉様リクエスト「太宰さんと旅行に行く話」
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