女よ、美しいものよ 下

 寂しい思いをするのは慣れていた。慣れてしまっていた。でも、今回の寂しさはこれまでに無いほど大きかった。

 今でも聞こえる気がするのだ。彼の笑っている声。名前、と呼ぶ声。捕まえた、と云う楽し気な声。

 まるで今にも此処に来て、『また来てやったぞ』と云わんばかりに「かくれんぼしようぜ」なんて云ってくれる気がするのだ。

 然し、それは名前の錯覚だった。少年は待ち望んでも来なかった。



 そうして、長らく時が過ぎていった。

 その日、名前は、またあの廃校舎に居た。幼かったあの日、一緒に遊んだ友人達、そして、きっと一番大切だった少年の事を思い出していた。

 今思えば、あんな幼い子供が、所謂『異能力』を持ち、訓練を受けている時点で普通ではないのだと気付くべきだったのかもしれない。きっと彼は自分とは違う世界に住む者で、此処に来られなくなる原因など幾らでもあった筈なのだ。

 それでも中也は何回も此処に来て、名前と一緒に居てくれたのだ。そのあたたかい思い出は、確かに名前の胸の中に残っていた。


 きっと、夢だったのだ。寂しい少女が見た夢。忘れられない程大切な友達が欲しいと願う名前が見た、哀しいほど長くて、苦しいほど短い夢だったのだ。

 夢は覚める。どんなに願っても。


 込み上げてくる思いに胸が一杯になった時、名前はふと、一つの違和感に気が付いた。

 体が、少しだけ重い。
 地面を見た。脚が地面に付いている。確りと。

 ふと前を見て、自分が立っている廊下を見た。前触れもなく構えて、たった一人で走ってみる。

 あんなに走るのが得意で、誰にも負けたことが無かったのに、今の名前には素早さも身軽さも無かった。

 可笑しい。可笑しい。如何して?

 名前はもう割れてボロボロになった鏡に自分を映した。

 あの時と同じ顔。あの時から変わらない背丈。あの時と同じ服装。
 昨日まで映っていたのはあの時に、時が止まった侭の姿の筈だった。

 然し、其処に映っていたのは、見たこともない女性の―――自分の姿。

「何……?誰?私……?」

 名前が呆然と呟いた時、

 ―――――カツン、と、後ろから足音が聞こえた。

「ずっと疑問に思ってたんだ」

 そんなに大きな声でもないのに、静かな静かな廊下に、その声はよく通る。

「手前はいつもあの場所に居たようだが、手前を知っている奴は組織にも居なかった。取引に使われる現場の近くだ、此処を通るのは俺だけじゃあなかったのにな。まァそれだけじゃあ如何も思わねえ。問題は、『名字名前』という少女が、表じゃあとっくに死んでるってことになってたッて処だ」

―――――此処は昔から餓鬼共の良い遊び場だった。先刻も云ったが薄暗い奴らがうろつく様な場所だったとしても、な。『名字名前』もその一人だった。此処で友人たちと遊んでいた、かくれんぼでな。

―――――然し丁度、『名字名前』と仲違いをしていた少女が鬼になった時、其奴は最後まで『名字名前』を探さず、最後に集まった奴らに云った。『あの子は最初に見つかって、拗ねて帰ってしまった』と。疑う者は居なかった。そうして『名字名前』は廃校舎に取り残された。

 ―――――勿論悪戯だったんだろうな。然し度が過ぎた。翌日『名字名前』が行方不明になったと騒ぎになった。

「記憶が違ってンだろうな。手前が云った、大人たちの『此処でかくれんぼをすると連れ去られる』云々は、手前が原因だよ。俺に逢った時、手前は友人と仲違いしたから泣いてたんじゃねえ」


 入れ替わり入れ替わり、新しい『友達』が来た。あの日は、来なくなってしまった友人を惜しんで泣いていた。


「手前が浮いた時、俺が間違って能力を使ったモンだと思ってた。だが違ェな、あれは手前が普通の人間じゃなかったからだ」


 その時、また、新しい『友達』が来たのだ。大きくなって、この廃校舎に来なくなるまでの、名前の『友達』。


「なァ、そうだろ、一人が嫌で泣いていた幽霊」


 振り返ると、其処には懐かしくも記憶とは違う、あの日の少年が青年になって立っていた。
 身長も結構伸びた。相変わらず自分と同じくらいだけど。黒帽子は変わらず被っている。彼が少し動く度に、黒い外套がふわりと揺れた。

 目つきが悪いのは全く変わっていなくて、成る程『悪い子』が其の儘『悪い人』になったかとぼんやりと思った。

「…………『幽霊』か。でも私、死んでない。連れ去られただけで」
「手前を攫ったのは異能力者だ、俺と同じような、な。餓鬼を人形にして売る心算だったんだろ」

 さらりと飛んでもないことを云う彼に瞠目する。人形。人形って。比喩なのは判ってはいるが。
 ああでも確かに、そんなことを云われた気もする。『奴隷にもなるし、遊びに使ってもいい』と。とてもではないが、自分の未来が決して明るくなかったことを感じて、名前はそれ以上考えるのをやめる。

「それにしても、よく逃げ出したな」
「彼奴ら、子供の事を完全に舐めきってたから。逃げるのは簡単だった。ただ、その所為で私の時間は止まってしまった」
「だからずっと此処にいたんだな。記憶が混濁するほど長い時間、一人で」
「うん。幽霊として。偶に此処に来る子供たちを『友達』と称して」

 ずっと一人ぼっちだった。みんな名前を置いて行った。

「……貴方だって、来なくなってしまった」
「……ああ。悪かったよ。俺の居る組織は年齢なンざ飾りなんだ。仕事に駆り出されれば行くしかねえ」
「良い。それで良いの……」

 口ごもった。本当なら、今此処に来るのは止めて欲しかった。名前はこれからも一人で此処に居るのだ。かえって寂しくなってしまうから、逢いに来てほしくなった。

 名前の思いを知ってか知らずか、中也は「それにしても」と帽子に手を中てて位置を直しながら笑った。

「随分化けたモンだな。元々美人さんだと思ってたけどよ」
「あ……」

 そうだ。そう云えば何故か自分の姿が変わっていたのだ。変わっていたというか、もし名前が普通に成長すればこうなるだろうと思われる姿になった。端的に云えば、成人女性になっていた。

「異能が解けたんだろうよ。あれから手前をあの姿にした奴らを見つけてな……その能力自らに使って生き延びてたよ」
「え、ちょ、その人は……」
「殺した」

 あっさりと残酷な言葉を口にする中也に、名前は息を呑んでから、ああでも彼らしいな、と少しだけ思った。
 彼が、自分なんて思いもつかないほど暗い世界の住人なことは、何と無く察していたのだ。中也もそれを感じ取ったのか、少しだけ目を細めて、然し目を逸らすことはしなかった。

「手前も判ってると思うが、俺はこういう奴だ。職業柄ってのもあるが、性分だ。それでも手前が俺を拒まねえってンなら……提案がある」
「……何?」
「俺と、共に来てくれ」

 一瞬、何を云われたのか判らなかった。

「……は?中也君は幼女を攫う趣味が有ったの?」
「幼女じゃねえだろ、殴られてえのか。まあ殴っても無駄だろうがな」

 少し残念そうに云うその言葉に如何云う意味かと尋ねると、中也はため息を吐きつつ教えてくれた。

「異能力の悪影響だ。解除はされたが手前は半分幽霊になっちまったんだよ。その姿もおそらく手前の精神年齢に則ってるが、自在に変えられる筈だ。まあ完全に解除されたら手前は灰になるんだろうな、昔々の幽霊さんよ」
「半端に解除されちゃったのね」
「大分楽に死なせてやったんだぜ、俺にしては。手前が残るかどうかは予測に過ぎなかったし賭けだったがな。それに関しては大分調べた。あの特務課の眼鏡野郎にまた貸し作っちまったな……」

 ぼやく中也だが内容がとても一般人のぼやきではない。名前の笑顔は少し引き攣る。

「因みに、『異能力を無効化する』っつう奴も居るんだが、俺が始末した異能者本人に触れないと解除されねえことは検証済みだ。其奴に触れても手前は消えねえから安心しろ。ったく、探偵社……敵の敷地に乗り込むのは苦労したぜ」
「………………」
「ま、これで手前が消える可能性はゼロに等しくなった。此処から出ても問題は無ェ」

 何というか。手際が良すぎないだろうか。名前の為に此処までしたというのか?……否、そう云えば先刻彼は何と云ったか。

「実はな、手前が消えても、それはそれで良いんじゃあねえかって思ったんだ。長い間孤独だったんだ、解放されて成仏した方が良いんじゃねえかって。こうして確かめに来るのも迷ったよ……だが」

 其処で言葉を切って、中也は歯を見せて笑った。よく得意げな表情をするとき、彼はそんな風に笑っていたな、と名前は思い出す。

「手前の姿見たら、悩みが吹っ飛んじまった。矢っ張り欲しいモンは手に入れねえとな。それがマフィアってモンだろ?」
「貴方、マフィアだったの。驚いた」
「ンだよ、知ってただろ」
「まあね。でも勘でしかなかったもの」
「ポートマフィアだ。其処で幹部に就いてる」
「そ……れは、予想以上ね」

 本当に予想を大きく上回ったので、名前は驚愕した。正直戦闘訓練などとする組織など限られているからある程度の予測は出来たものの、あの組織の幹部ともなれば、この街を牛耳っているにも等しい。

「却説、名前。如何する?此処から出てえか」
「選択肢を与えてくださるとは優しいマフィアね」
「自身で選択した方が良いだろ?自分で外を選ぶか、引き摺り出されるか」
「……それ、実質一択じゃあないの」
「そうだよ」

 微笑んだ侭、中也は腕を広げた。

「かくれんぼも鬼ごっこも終いだ」
「そうだね」

 名前は其処に飛び込んでいった。

「見つけたよ、中也君」
「捕まえたぜ、名前」


 旧校舎に住んでいた幽霊の、長い長い夢が、その瞬間終わったのだ。





女よ、そのくだらない可愛いい夢のままに、
私の許にやつておいで。嘆きでも、笑ひでもせよ。
(中原中也「女よ」)

引用:中原中也「女よ」より
(2017.04.29)
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