そっちはこわれて、こっちはおいで

 気分が悪くなって目が覚めた。

 元々寝起きは良い方ではない。名前は頭をひとつ振って何とか起き上がった。ぼうっとした頭で見回すと何時もと何の変わりも無い自室である。また朝が来てしまった。憂鬱だ。のそのそと起き上がり、着替えて鏡の前へと進む。非道い顔色だ。化粧で誤魔化せるかしら。
 顔色を誤魔化す前に冷蔵庫に手を伸ばす。パンを一枚、トースターに放り込んだ。皿を取り出す。その瞬間手が滑った。

 ぱりん、と甲高い音がした。

 何もかも面倒になって、溜め息を吐きながら鞄を引き寄せる。其の侭玄関へと向かった。後ろでパンが焼き上がった合図が聞こえて、無視した。


「おはようございます」

 挨拶をするとバラバラに返事が聞こえる。ふととある席を見た。
 その席は書類やファイルが散乱していた。如何やらその主は不在で、名前はその理由を知っていた。出張だ。明日には帰ってくるだろう。明日には。

「おっはよう〜!」

 それなのに如何してその声が聞こえる?

「あっ、君も来てたの…………おはよう」

 探る様な声音で話しかけてくる。嗚呼、気付かなくて良かったのに。
 笑顔だ。此方も笑顔で返せばいい。

「…………おはようございます、太宰さん。出張から帰って来たんですか?寂しかったんですよ」

 だから精一杯笑って云った心算だった。上手く行けばこの男は其の侭興味を失った様に離れる筈だ。

「……『寂しかった』、ねえ?」

 然しその口角が吊り上がるのを見て、自分の演技の失敗を悟った。

「あんなの直ぐに解決したさ。昨日帰って来たのだよ」
「……そう、ですか」
「まだ依頼人が来るのに時間があるねえ……ご飯食べに行かない?」
「昼にも遥かに早いかと」
「どうせ朝御飯、未だでしょ?」

 ―――『君』は。

 囁く様な声に、今日のこれからを想像して、取り繕っていた笑顔が引き攣った。



 気分が悪くなって目が覚めた。

 一つ伸びをして起き上がる。皺だらけの布団をバサリと広げ、畳んだ。鏡を覗き込みながら洋服を選ぶ。台所を見ると、焼けたのに冷めきったパンが一枚、トーストからはみ出ていた。あらあら、と取り出して一口齧る。かたい。新しいパンを取り出して焼いた。奥に進もうとして床の散乱に気付き小さな悲鳴を上げる。慌てて破片の片付けに取り掛かった。そして終わる頃、時計を見て、パンを咥えた侭、何処の女子高生かしらと思いながら外に出た。


「おはようございます!」
「3分遅刻だ」

 眼鏡の理想男が何か云っているが笑顔でスルーだ。口では謝っておいた。パンで一杯になった口を動かしながら席に着くと、隣の事務員がはしたないですよ、と苦笑している。固い事云わないでよ、等々心の中で毒づく。

 あの人は何処か、と探す。遅刻常習犯だが、昨日は遅くまで残っていたしひょっとしたら―――そう思いソファに回り込む。すると思った通り彼は其処に居た。
背凭れに長い外套を掛け、うつ伏せになって太宰が寝ていた。首が痛くならないだろうかと思いながら声を掛ける。

「おはようございます、太宰さん」
「…………」

 起きている。直感でそう思った。然し完膚なきまでの無視。

「その恰好で寝ていたんですか?寒くありません?」「社に泊まったんですね。朝御飯食べました?」「良かったらこれ食べます?」

「………………ねえ」
「はいっ!」
「敦君の方手伝ってあげて」
「はいっ!?」

 素っ頓狂な声が響く。急に名を出された敦は、びくりと震え手にした書類をバサバサと落とした。

「あ、はい……」

 かけた声を凡て無視され、かつ他の男(というのも如何かとは思うが)の方に追い遣られた名前は、しょんぼりと敦の方へ向かった。

 一方の太宰はそんな名前の背中を見送る。まるで面倒臭そうな物を見たかのように溜め息を吐くと、名前の肩がぴくりと震えた。

 それに気付いた太宰が目を細めたのは、太宰以外誰も知らない。



「何故冷たく当たる」
「何が〜?」
「惚けるな。名字だ」

 二人で外に出た際に太宰に問い掛けたのは国木田だった。
 国木田は心底不思議に思っていた。太宰の、名前に対する不可解な態度にである。

「別に。私の態度判り易くない?」
「或る意味ではな。『主人格』の時はべったりで『別人格』の時は突き放す」

 太宰の言葉に国木田も頷く。然し問題は『何故か』と云う事だ。

「何方も彼女だろう。何故分ける必要がある」
「そりゃあ、決まっている。何方も彼女だからさ」


 名字名前という女性は解離性同一性障害、所謂多重人格である。

 何方も普通の女性らしいと云う事では差違はそれ程無いように思える。然し主人格の方が内気だ。はっきりと云ってしまえば『暗い』という印象を抱く。同僚への態度を見れば幾分判り易い。挨拶の声は交代人格(別の人格の事をこう云うらしい)の方が明るく、世間話が飛び出す事も多い。

 最も差違が在るのは表情だ。表情の動きが乏しい方と、良く動く方。何処か影が在る方と、普通の女性らしい方。大体の人物はそれで判るだろう。

 が、然し―――幾ら人格が判れていようとも、名前は名前なのである。社の殆どの人物はそういう認識だった。かくいう国木田でもそうだ。ただ一人を除いて。

 太宰だけは違った。明らかに名前のその時の人格によって態度を正反対な物へ変えるのである。それがどの様な物かは、云わずもがな。


「何方も彼女だからとは如何いう意味だ」
「言葉通りだけど」
「貴様が名字のあの二つの人格を別の人間として捉えているのならまだ納得がいく。だが」
「あのねえ、国木田君?」

 並んでいた国木田を少し追い越し、くるりと太宰が振り返った。器用に歩きながら、人差し指を口に当てる。

「二重人格と云うのはね、一人なのだよ。二人がひとつに為っているんじゃない。ひとりが二つになったのだ」

 指をいち、に、いちと増やしたり減らしたりしながら太宰が語る。国木田はその指の動きを目で追いながら、顰め面で頷き先を促す。

「そして人格が別れる主な要因として、『抑えつけている自分の心情』『精神的に強い苦痛を受けた』――などなど。あの子の場合はね、『厭なこと』だと思うんだ」
「というと」
「自分が厭なことは他の人に任せたい、でも自分の事だからそういう訳にもいかない。そのストレスが並々ならぬ質量になった時、きっともう一人のあの子が出てくるんだ」


 名前に関して、こと主人格に関して、「人づきあいが良い」と評する者は少ないだろう。他人を寄せ付けない雰囲気が何処かにある彼女は、それに違わず人と話す事があまり得意ではなさそうだった。それが別の人格が出てしまう程のストレスなのか、或いは他の要因まで降り積もってしまった結果なのか、それは判らない。

 与謝野によれば、本人は多少自覚はしているとの事だ。

『自分の中に「他の誰かがいる」ってのは気付いちゃあいるみたいだ。だがそれをはっきりとは口に出さないねェ……そりゃあそうだろうさ』

 ―――――厄介事を知らぬ間に片付けてくれる存在が居るんだ。有り難いが、薄気味悪くもあるだろう?

 因みに、気付いているとはいっても『感覚で』と云う事では無く、日付のずれや周囲からの情報で、と云う事らしい。

「並々ならぬストレスと云うのはお前の事か」
「え、待って何故そうなるの―――と云いたい処だけど、大正解だよ」

 太宰がよく気付きました、と云わんばかりにバッと両腕を広げる。そして高らかに云い放った。


「あの子、明らかに私を好いているよ!」


「………………」
「その可哀想なものを見る目は一体何!?」
「その手の思い込みは哀れだな」
「思い込みじゃないよ!事実!」
 国木田は眉間に皺をよせ「不可解だ」と眼鏡を押し上げた。

「主人格の方はお前を嫌っているじゃないか」
「悲しい事にね」
「そして別の人格は……まあ、あの態度ではお前を好いているのだろうな。然し『厭な事を別の人格に押し付けている』と云うのならば―――」

 其処で国木田は気付き、言葉を止めた。太宰もその通り、とにんまりする。


「あの子は他人が苦手なのに、私を好きになってしまったのさ。だから押し付けたんだ。『太宰治が好きな自分』をね」
「矢張り嫌われているじゃないか」
「聞いてよ。云ったでしょ、『何方も彼女自身』なのだよ」

 国木田もそう返ってくることが予想出来ていたのだろう、ややげんなりして「そうか……」と返す。

「何となくだが判ったぞ」
「でしょ?」
「だがもう一つ疑問がある」
「何?」

「彼女は―――」



 社に戻ると、時計の針は午後の三時を回る頃だった。

「お茶どうぞ」

 名前が居る者に茶を淹れている。其れを見て太宰の表情が僅か、ほんの僅かに歪むのを、国木田は少し苦々しい思いで見た。一言かけて、おざなりな返事が追いかけてきたのを聞きながら離れる。

 一方太宰は席に戻り、椅子に座って頬杖をつく。「報告書!」という怒声にも碌に返事もしない。
 その視線の先には名前。頭の中には国木田の言葉。


『彼女は―――いや、主人格の方だが……あんなに他人と壁を作るような性格だったか?寧ろ……』


 国木田の疑問は正しい。

 何度も云うが、『彼女たち』は『彼女』なのだ。
 厭な事を別人格に押し付けるのは、実のところ、羨望も含まれている。自分が苦手とすること、それが出来ない事への歯痒さ、それらが綯交ぜに為って『出来ないから厭だ』という感情になる。それが裏の人格となって表れている。『それが出来る自分』として。

 そして彼女はまだ、太宰の事を想っているのだ。

 却説、話を戻すと、名前自身は人嫌いな訳ではない。社に来た時も、国木田の云う通り寧ろなるべく皆と仲良くしようとしていた。勿論太宰とも。
 交代人格も然程出る幕が無かったのだ。


 それが何故あんな風に変化したのか。
 結論だけを云えば太宰の所為である。


 名前の視線には気付いていた。何を隠そう太宰自身もあの子可愛らしいなと思っていたので悪い気はしない。時折一生懸命話しかけてくるのが大層いじらしかった。

 太宰が名前のカルテを見たのは偶然だ。医務室で怪我の治療をしていた際、与謝野の机に置いてあったファイルが目に這入った。
 与謝野にそれとなく、然し確りと他言無用の釘を刺され乍ら、名前の話を色々と訊いた。


 人間に信頼を抱かせるのは難しいが不信感を抱かせるのは簡単だ。世間話にそれとなく不穏な噂をちらつかせればいい。例えば複数の女性と居たとか、他人の引き出しに手を掛けていたとか。嘘だとばれても「噂だし」「勘違いだったかな」で済む。

 効果は覿面だった。

 計画通り。計画通りなのだ。あまり他の事務員と会話をしなくなった。その役目は交代人格が担うようになった。そして太宰への想いも。他人への不信感を煽ったのが太宰だと、無意識のうちに気付いているのだろう。


 はやく壊れてしまえばいい。もう一人の君なんて。


 徹底的に交代人格に冷たく当たる理由は二つ。一つは予想通りとはいえ、矢張り自分に対しての恋心を別の人格へと追い遣った名前への、少しばかりの憤り。これは唯の八つ当たりなので全面的に太宰自身が悪いとは判っている。

 二つ目は、逃げ場を失くすこと。

 実の処太宰が気に入らないのは、縋る先が太宰の他に存在すること、其処なのである。例え其れが彼女自身であっても。彼女の中で完結している逃避と犠牲の螺旋は、それはそれで愛おしいけれども、其処に自分が這入れないのなら話は別だ。

 そろそろ無視だけでは響かなくなっている頃だろう。却説次は如何虐めてやろうか。余りやりすぎると本気で嫌われてしまうから程々に。
名前が、『名前』に頼れなくなるように。

 太宰への想いは何処へ行く?何処へも行きようがない。名前の中に留まるしかない。何処にも逃げ場はなくなって、ほらもう太宰の手の内だ。


 はやく、はやく壊れておくれ。そうしたら沢山愛してあげる。私が。私だけが。


 がちゃん、と音がした。名前が湯呑を落として割ってしまったようだった。
 破片を見詰める名前が溜め息を吐いた。

(2017.09.08)
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