それはもう私のものだけど
私の名前は名字名前。しがない結婚詐欺師だ。
詐欺師と云う物は、詐欺師でなくても、人間は体が資本である。不健康そうな女子はモテるだろうか?否!痩せぎすで顔色が悪い女と結婚したいと思うだろうか?否!
と云う訳で、今年に入り何度目かの体重測定である。マメに計る者も居ると云うが、毎日なんて見ていられない。あまり変わらないので面倒だ、というのも本音なのだが。
却説、と風呂上がりの格好の侭、機械を取り出す。目盛りが丁度零の位置にあるのを確認し、ゆっくりと上がった。
カラカラカラ…………カラカラ……
…………あれ、何時もより揺れる―――と思った時、果たして針は結果を示した。
と、同時に自分の喉から大きくもない、然し小さくも決してない声がもれる。
「ひあっ…………」
―――――――ピリリリリリッ!
その時、電話が鳴った。半ば呆然としながら取る。そろそろ服を着なければ寒いのだが。
「もしもし」
『如何したんだい名前?今叫んでたけど』
「いやああああああ!!!」
今度こそ悲鳴を上げてしまった。
大家から苦情が来たのは云うまでもない。
「…………体重が増えた?」
「はい」
「名字君、太ったの?」
「所長、私も一応女の子ですので」
「あ、ごごごごめんね」
否、冗談です、と慌てる上司に声をかける。この年で『女の子』も恥ずかしいのだが。
特殊な職場ではあるが、太ったからと云って上司に相談する義理も無いので、ただの雑談である。上司はお茶を飲んでいた湯呑を置き、少し首を傾げた。
「そう云えば名字君、少し……こう……健康的になったよね」
「えっ、矢張り太りました?」
「いやいや、今までが痩せ過ぎだったんだよぅ。あの細い体の何処に飯が入ってるんだ、って皆云ってたんだから」
「本当ですか……」
そんなに痩せ細っていただろうか?私は食べるのは嫌いでは無いので御飯三食お八つ付き、なんて生活は普通である。貧乏だけど。お金無いけど。おかず?そんなもの知らない。
「あれだね」
「どれでしょう」
「いやーほら、太宰く」
「世の中には『太宰』なんて沢山居ますよええ」
ホクホクした顔の上司の言葉を遮ると、忽ち笑顔の侭青ざめて行った。正直面白い。
「でも、でもさ、一緒にご飯作ったりしてるんでしょ?」
「…………最近は、一人で作れるようになりました」
「彼の為に作る時だってあるでしょ?」
「あります、けど」
「君自身の分も作るでしょ?其れじゃないかなあと思うんだなあ」
「…………それは、」
太宰が、一人分だけ作ると怒るからだ。
だから、例えば作り置きしていて『勝手に食って、食ったら出て行ってくれ』が通用しない。顔を合わせて食べなくてはならない。
「…………私、太りました?」
「『幸せ太りだね!』」
「…………………………」
「御免よ!云いそうだなって!太宰君云いそうだなって!」
「……………………」
「…………ごほん。ええと、太ったって話だっけ。そうだね」
咳払いをして、上司は話を続けた。許しません。
「正直に云えば、太ったね」
「はっきり云いますね」
「見た目は変わってないけど、ちゃんと御飯食べてるなって感じがする」
「…………?」
食事なら前からちゃんと取っている。然し首を振って上司は云った。
「御飯ってね、『美味しくない』って思って食べても、美味しくないんだよね」
「そうでしょうね」
「聞いた事が有るんだ。『美味しくない』って思いながら食べても、栄養にならないって」
「それは、如何なんでしょうね」
「それを聞いて思ったんだ。『美味しい』って思えるって幸せだなあって」
沈黙が降りた。お茶を啜る音。煎餅を齧る音。ものを食べる音。
「…………え」
「え」
「それだけです?」
「それだけです」
「ええ!?なんかこうもう一寸、ために為る事云うと思ったのに!?」
「名字君」
私としては至極真っ当な突っ込みだと思ったのだが、穏やかな笑顔でスルーされた。何だか悔しい。私も太宰に何か茶化されたら穏やかな笑顔で流してやろうか。絶対無理だ。
「誰かの前で、安心して物が食べられるって、実は凄い事だよね」
「凄い事?」
「ほら、僕、以前フラフラしてた時期が有ったんだよね。家が無くてさ。御飯が美味しいどころか、安心して眠れるところも無かった」
「…………」
「そうしたらね、とても美しい出会いが有ったんだよ」
「急に御伽噺のような」
「そうだね、御伽噺だったよ。おっちょこちょいなお姫様に逢ったんだ。世界が変わったよ」
昔を懐かしむ様に目を細める。初めて聞く、上司の過去の話だった。
もう少し聞きたいと思ったが、その前に上司が、「まあ、この話は詰まらないものだし」、と切ってしまった。
「名字君」
「はい」
「最近太った?」
「……ふふっ。訊き方もう少し如何にかなりません?」
「あはは、御免」
「太ったか、ですか」
否定したくないな、と思う。何と云う事だ。幸せ太りと云うのは間違いではないのかもしれない。
「所長。私、太宰治がマフィアの顔をしているのを、一回だけ見たんですよ」
「お帰りー」
「そしてまた当然の様に居るんですよね……」
「何の事?それより今日はね、私が夕飯を」
「今日外食にします?安いお店知ってるんですよ」
「名前非道い……」
最早我が物顔で居座る男を見て、やれやれと首を振る。静かな部屋に、二人分の声。其れだけで随分変わるものだ。
「太宰治」
「うん?」
「御飯、美味しいですか?」
云っていて笑いそうになった。まだ何も食べてない。然も作った本人は味を知っているだろう。
案の定、太宰は不思議そうな顔をして、然し何時もの食事を示す問いだと思ったのか、「うん、美味しいよ」と頷いた。
「そうですか………………ふふふ、そうですか」
「一寸如何したの名前?可笑しいな、あの薬今日は入れてない筈だけど」
「あの薬ってどの薬だ!聞いた事無いんですけど!」
「名前、どんな物だって私は君の笑顔が好きだよ」
「一寸良い事云ってるけど『だからやっちゃった。てへ』が付くと思うと殴りたくなりますね」
「嗚呼、折角の笑顔が消えてしまった……これは今からでも投入……」
「私は自然な笑顔の方が好きなので!自然な笑顔素敵!」
「そんなに褒めないでよ照れるなあ」
「貴方の事だとは云ってませんけどね?」
「…………私はさ、」
身を引く間も無く。ふと見た時には、目の前で少しだけ笑う顔。
「笑顔も好きだけど、君のそう云う顔も好きだよ」
「……そういう、とは」
「私も『貴方の笑顔が大好きです!その笑顔の為に生きます!』って名前に云ってもらいたいなあ」
「鏡を見てこい。其処に写る奴にその台詞が云えたら大したもんです」
そうだ、鏡を見ればいいではないか。と思い立ち自分の顔を見てみても、何時もの仏頂面があるだけだ。
不思議だ。私は何処が気に入られたんだろう。自分の事を考えたって判らない。
それが判れば、私は踏み出せるんだろうか。
一緒に歩けるだろうか。一緒に行けるんだろうか。
「…………貴方の笑った顔、嫌いじゃないですけど」
「へっ?」
「何食わぬ顔で一緒に御飯食べてる時の顔は苦手です」
「如何云う事!?」
「そう云う事です」
平然と云い返し、用意された食事に手をつけることにした。まあ、折角作ってくれたのだから勿体無い。
上司に云われて気付くなんて以ての外なのだけれど。
私はこの時間が当たり前になっている事に確かに少しばかりの充足感を憶えていた。それは知っていた。
その幸福が、確かに自分の一部になってしまっている事に今更気付いたのだ。
絆なんて、脆い。嘘で塗り固められた世界は、嘘と判っている分、ほんの少しだけ安心できるけれど、屹度そうではないものよりずっと脆い。私はそう思って生きてきた。そうして生きてきた。
―――――屹度曖昧なのが一番良いのだろう。そうすれば失くすものなんて何もないじゃないか。
そんな考えが頭を過る。
それは唯の甘えだ。私自身を守るための我が儘であり―――たった今私を一番苦しめている盾だ。だから、苦手。幸せを享受している彼も。
答えを出さないことでその幸せを形成して、其れに浸っている、自分も。
だから、もう少し。判ったから、もう少しだけ、この微温湯に浸からせて欲しい。屹度進むから。
一緒なら怖くないって判ったら、屹度、云うから。
『所長。私、太宰治がマフィアの顔をしているのを、一回だけ見たんですよ』
『そうなのかい……怖かった?』
『いいえ。ただ、寂しそうな気がして。あの人には親友が居るんです。私にも大切な人たちが居ます。でも少し寂しくなった時、あの人が私を見つけたのかなって思ったら、屹度一緒に居ても後悔しないような気がしたんです』
「却説、出掛ける準備はできたかい?」
「今日は止めましょう。明日が良い」
「えっ……でも明日は会議……」
「嫌い」
「明日にしよう!会議なんて直ぐ終わるとも!」
「……………………リンタロウ、顔が気持ち悪い」
「非道いよエリスちゃん!然し、そうだなあ――――嬉しいのだよ」
「何がー?」
「太宰君が変わった事だ。勿論良い方に。喜ばしい事に違いない。
―――――嗚呼、早く『名前』くんとやらに逢いたいものだ」
(2018.01.17)
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