微睡みの中にいた。
 オールマイトとリカバリーガールの声がする。水の中で揺蕩っているような感覚で、声が言葉として聞き取れない。身じろぎしようとするが、左腕から何かが繋がっていて、軽い力で引っ張られた。重い瞼を薄らと持ち上げる。白い天井と点滴の袋、そこから伸びるチューブが霞んだ視界に映った。
 ――憶えのある景色だ。
 力を抜いた名前は、薬品の清潔な匂いに包まれて再び目を閉じた。


 次に覚醒した時にはもう放課後だった。久しぶりによく眠った気がする。起き上がってベッドを仕切るカーテンを開けると、デスクに向かっていたリカバリーガールがくるりと椅子を回した。
「起きたかい、体調は?」
「大丈夫です」
 正面の丸椅子に座るよう促されたので大人しく従う。体温計を口に突っ込まれた。
 手持無沙汰に髪を手櫛で梳かす。毛先の絡まりを解く右手をじっと見られているのに気付いて、名前は咄嗟にその手を後ろに隠した。『個性』を使った真っ新な右手。リカバリーガールが治癒するはずだった傷を勝手に蘇生したのが一目瞭然だ。怒られるかと思ったのだが、様子を窺うにどうやら違うらしい。かのじょの顔は何故だか少し哀し気に見えた。
 名前はあの時の判断を間違っているとは考えていない。オールマイトには注意を受けたが、何が悪いのかも分からない。傷のせいで右手が思う様に使えなかった。だから傷を無くすために、最も手っ取り早い方法として『蘇生』を用いた。当然の帰結である。
 唯一悪かったところを挙げるならば、多くの目がある中で行動を起こした点だろうか。ただでさえA組は気の良い生徒が多い。知り合って二日とは言え、名前の大胆すぎる自傷は、クラスメイトからすればさぞショッキングだったに違いない。
 リカバリーガールが溜め息を吐いて名前の口から体温計を引き抜いた。
「あんたも緑谷も、どうしてこれだけガミガミ言われるか分かってるのかね」
 ぼやきにも似た声色。独り言か、問われているのか。
「自分を大事にしろ、ですか」
 昨日の続きだ。
 名前は隠した右手を膝の上に戻し、見つめた。正直全く分かっていない。分かっていないから、苦し紛れに口を開く。
「……『自分を大事に』するのは……例えば怪我をした時、医療班がいなかったらひとりで対処しなきゃいけなくなる、し……その分助けられる人が減るっていうリスクを避ける為、です」
 けど、と名前は続けた。
「わたしの場合は蘇生ができるので、わざわざ『大事に』するメリットは無い、と考えます」
 出題者の意図が分からないから、正答なんて望めない。ただきちんと考えて回答したんだという免罪符が欲しくて、途中式や論述の書きかけを残すみたいに言い訳じみた言葉を並べた。
 妙齢の養護教諭は名前をじいっと見つめている。自分の薄暗く柔い箇所を見透かされるようで、視線を避けるように俯いた。

 名前の中には、何年もずっと少女が棲みついている。腕が血や火傷に覆われ、足が変な方向に曲がった幼い少女。いつも誘うような嘲るような色を乗せ耳元で囁く。

 どうせ元通りになるんだから、すきにやりなよ。

 だってそう教えられたよね?

 ぜんぶ無かったことになるから、なにしたっていいんだって。


「間違っちゃいないけどね、足りないよ」
 リカバリーガールが名前の頭を軽く叩いた。消毒薬の匂いがふっと過ぎる。
「耳郎と言ったかね。授業の後すぐ顔を出して、ひどく心配してたよ。その子が鞄と着替えを持って来てくれたから、着替えて今日はもう帰りんさい」
 それ以上リカバリーガールは何も言わなかった。どこが足りないのかも、そのヒントも。


 制服に着替えて校舎を出ると、外は茜色に染まっていた。昼間とは色を変えた太陽が地面にくっきりとした影を描く。空腹に耐えきれず、カロリーメイトをひと箱食べてから保健室を後にしたが、まだ身体が重い。これから帰って夕飯を作ることを考えると流石にうんざりした。今日ばかりは出来合いのものを買って済ませてしまおうか。
 遅い足取りで校舎を出る。暮れなずむ景色の中、名前はふたつの影を見とめた。緑の柔らかいシルエットの髪にヒーローコスチュームの後ろ姿――緑谷だ。その向こうに立っているのは爆豪。戦闘訓練を思い出し、ふたりがここで喧嘩を始める可能性が無きにしも非ずとつい身構えた。個人的に緑谷のヒーローとしての在り方を好ましく思ってはいるが、だからと言って巻き込まれるのは御免だ。
 一度校舎に戻ろうかと向きを変えた時、一陣の風が吹いた。爆豪の砂色の髪が茜色を映して輝く。
 名前は無声音を零した。

 あの時のふたりだ。
 ビデオのコマ送りの様に短い映像がまざまざと立ち上る。ちょうど一年程前。道端でかれらを見た。鍵を拾ってくれた緑谷はいまよりひと回り小さかった様な気がして、だから全く気が付かなかった。
 角を曲がり際、一瞬だけ見えた光景。立ち位置は一年前と反対だけれど。
 一年前は分からなかった爆豪の表情が逆光の中でも分かった。橙の光を反射する鋭い目。
 これは名前が聞いて良いものではない。きびすを返した名前の背後で、荒々しい声が響いた。たくさんの感情や衝動が綯い交ぜになった叫び。それを受け取れるのは、多分緑谷だけなのだろう。
 しばらく時間を潰そうと下駄箱の前にしゃがみ込んでスマホを取り出した。ぱっと液晶に光が灯るか灯らないかの一瞬の間に、廊下の向こうから物凄い勢いでオールマイトが眼前を走り抜けていった。もはや速過ぎて飛んでいるようにさえ見えた。
「あれっ名字少女!?」
「はい」
 急に呼ばれたものだから、驚いて返事がぽろっと零れ出る。スマホ片手に呆ける名前へ、急ブレーキをかけたオールマイトが手の平を向けた。

「ちょ、っと待ってて!!」
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