恍惚とした暗い声が遠のく。
中央の噴水に身体を叩きつけられた名前は、自分の口からひゅうひゅうと漏れる嫌な呼吸音で目を開けた。足、肋骨、手と順に蘇生を試すが、『死んだ』部分は無いようで発動しない。
どれくらい気絶していただろうか。ほんの数分だったには違いない。しかしその僅かな時間で状況は一変していた。
顔を上げた名前の視界に映るは、脳無の手で地面に伏せられた相澤の姿。鳥のように口が尖り、脳漿が剥き出しになった脳無の見目は、顔を歪めたくなる気味の悪さが有った。大きな手に握られた相澤の腕は、小枝を折るかのように容易く蹂躙される。
「『個性』を消せる――素敵だけどなんてことはないね。圧倒的な力の前では、つまりただの『無個性』だもの」
死柄木が滔々と語る。脳無が手を伸ばし、相澤のもう片方の腕をも潰した。
「ぐぁ……!!」
「せ、んせい……っ」
腰から小刀を抜き脳無に投げた。脚に鞭打って走り出す。考えがあったわけでは無い。咄嗟に駄目だと思ったのだ。名前は良い。治るから。相澤は駄目だ。死んだら、戻ってこない。
「邪魔すんなよ」
立ちはだかった死柄木が名前の首根っこを掴んで簡単に引き倒す。足で貫かんとする勢いで背を踏まれた。先ほど折れたらしき肋骨がもろに圧迫されて呻く。呼吸もままならない。喘鳴を発しながら名前は身を捩った。目の前が霞む。
「ねえ……おまえ何なの?」
唐突に落とされたのは純粋な疑問。
「、は」
「何で
揶揄でも動揺を誘う声色でもない。死柄木は心の底から不思議がっていた。名前が正義の側に立っていることを、心底不可解に思っている。名前がヒーローを目指していることに対し、死柄木は当たり前に違和感を持っている。
名前は表情を消した。
わたしは、ヴィランになる方が正しいとでも言うのか。激昂のままに喉を絞ろうとした時、
「死柄木弔」
死柄木の背後に黒の靄が現れた。
「黒霧。13号はやったのか」
「行動不能には出来たものの散らし損ねた生徒がおりまして……一名逃げられました」
頭上で交わされる会話に一筋の光明が見えた。ひとりだけでも逃げることができたのなら、もうじきに救助が来る。
「黒霧おまえ……ワープゲートじゃなかったら粉々にしたよ……。――あーあ、今回はゲームオーバーだ」
繋がれた次の言葉に名前ははっと短い息を吐いた。
「帰ろっか」
あっけらかんとした声色。思わず耳を疑った。
死柄木がふらりと向きを変えた。視線は水難エリアの方向。つられる様にそちらを見た名前は瞠目した。クラスメイトが水面から顔を覗かせている。緑谷と蛙吹、峰田の三人だった。
「けどもその前に、平和の象徴としての矜持を少しでも」
死柄木の足が背から離れたのを感じて、名前は喉を引き千切らんばかりに叫んだ。
「にげて!」
「――へし折って帰ろう!」
瞬く間に死柄木が三人に迫る。間近に襲い来る悪意を、硬直して受け入れることしかできぬ蛙吹の顔が、やけに鮮明だった。だめだ、間に合わない。諦めに似た絶望が去来した。
死柄木の五指が、蛙吹に触れる。
緊張がぴんと糸を張った。
「本っ当かっこいいぜ。イレイザーヘッド」
死柄木が口の端を曲げて呟いた。
血塗れの顔で、目を赤く光らせた相澤が必死の形相で死柄木を見ていた。『抹消』が間に合ったのだ。しかし次の瞬間、相澤の頭は地面に叩き付けられた。呻きすら上げずに動かなくなったかれから手を離し、脳無が死柄木の元に消える。
名前は相澤の傍へ、覚束ない足取りで駆け寄った。
「先生、……相澤先生、」
仰向けにして呼吸を確認する。腕、腹、胸、額、目――身体中ぼろぼろだ。骨折どころか骨が砕けている。目元も血だらけ。瞳を使う『個性』なのに。
名前自身、声を出す度、息を吸う度に胸の辺りが痛む。それでも呼び続けながら相澤に『蘇生』を試し続けた。最早どこか死んでいてくれとさえ思った。そうすれば名前が元に戻せるから。
しかし幸か不幸か、相澤の身体は瀕死のまま、どこもかしこも命を繋いでいて『蘇生』することが叶わない。
「大丈夫、どこも死んでないです。目も、死んでない、から……『個性』も無事です。だいじょうぶ、大丈夫、……死んで、ない。治ります。先生は、大丈夫」
死んでないから治る余地がある。死んでないから蘇生できない。安堵ともどかしさが混ざって、ろくに頭が回らなかった。ただ単純な言葉を言い聞かせて相澤の肩に手を回す。
何とか立ち上がったその時、視界の端で緑谷が脳無に手を掴まれた。
「緑谷く、」
ああ、また駄目だ。
緑谷の顔が引きつる。蛙吹が舌を伸ばす。間に合わない。
「もう大丈夫」
時が止まったかと思った。扉を破る轟音と共に、広場に繋がる階段の上に人影が現れる。ぶれない声が泰然と響いて、気休めの言葉が無条件の信頼に変わる。
かれの険しい顔を初めて見た。
「私が来た」
「オールマイトォォ!!!!!」
歓声が上がる中、死柄木は落ち窪んだ瞳をぎょろりと上へ遣り、呟いた。
「コンティニューだ」