やつれた背中が項垂れている。両の手はダイニングテーブルの上できつく絡まり、血が滲むほど爪を立てられていた。
 裸足がぺたぺたと背後を踏む。
「お父さん」
 いとけない声がかれを呼んだ。かれがこちらを振り向いてくれることを疑いもしない、真っさらな声。
 ちくたくと秒針が時を刻む。冷蔵庫が小さく唸った。
「お父さん?」
「お前を……」
 少女はきょとんとする。次第、不安げに瞳が揺らぎだす。
「名前、だよ」
 小さく返答すると、父の首がもたげた。肩が強張り、爪が両手の甲に食いつき、指先が白くなる。何かしらの衝動を必死に抑えているのが幼い名前にも分かった。その衝動がどんな形をしているかは、この時は知る由もなかったけれど。
「お前が……ッ、」
 そんな呼び方、されたことない。名前っていつもは呼んでくれるでしょう。もっと小さな頃は、名前ちゃんと呼んでくれていたでしょう。
 丸まった背に小さな手が伸びる。父の低い声が止めた。
「少し、自分の部屋に行ってなさい」
 肩を揺らす。手を引っ込めて、ワンピースの裾を握った。
 
 ――ここが分水嶺だったのかもしれない。
 下から覗き込んだかれの横顔は、真っ黒に塗りつぶされていた。
 遠くの意識で気付く。ああ、なんだ夢か。横顔からどんどん暗闇が侵食してゆく。姿を飲み込み、名前の足元にまで迫ってくる。

 いつの間にか裸足ではなくなっていた。ヒーローコスチュームの黒いスニーカーを履いている。左腕から血が落ちた。頼りなく揺れる黒い袖口。じわじわと襲い来る黒色が靄のように揺らぎ出し、ひと所に収束する。
「おまえ何なの?」
 いつの間にか、靄の横に死柄木がいた。
「何でそっちにいるんだ?」
 足元が揺らいだ。



 はっと目を開ける。白い天井と頭上を囲むカーテンレール、点滴の袋が視界に映った。保健室? いや、
「起きましたか」
 聞こえる筈のない声が耳朶を打った。
 ベッド脇のパイプ椅子に腰掛ける四十代そこそこの男性。グレースーツを纏っている。柔らかな造りの目元に反して、瞳に宿るは厳格な光。久方ぶりに対面するしかめっ面に瞬きを繰り返した。
 未だ夢の中にいるのだろうか。頬を抓るという古典的なやり方を試そうにも、やたら身体が重くて動かすのが億劫だ。口を開きかけるが、名前は未だにこの人のことを何と呼んで良いのか分からない。
 逡巡が停滞する。
「……イギリスにいたはずじゃ……なかったですか」
 ようやっと口に出した言葉は痛々しく掠れていた。男性が僅かに眉を潜める。
「ヴィランの襲撃に遭って目を覚まさないと聞いたら、保護者として来ないわけにはいかないでしょう」
 そう、夢うつつから名前を迎えたのは、海外にいるはずの従伯父だった。


「肋骨骨折と軽度の肺挫傷。殴り飛ばされたんだって? 脊椎が無事だったのは不幸中の幸いだよ、背中に尋常じゃない打撲痕はあったけどね。あとは右手首の捻挫と、頭部皮下血種――えーと、所謂たんこぶね。それくらいだったかな――まあ君が寝ている間にリカバリーガールの『個性』でほとんど治っているんだけど」
 ベッドに横たわった名前は、医師の手でぱたぱたと動くカルテを目で追っていた。眠気を誘われて欠伸を噛み殺す。バインダーの角で布団の端をつつかれた。
「聞いてる? 名前ちゃん」
「……はい」
 気安い口調で話すこの男性医師は顔見知りである。
 USJから運ばれた先は、奇しくも名前が以前入院していたことのある病院だった。医師の後ろで窓の外を眺めている従伯父の姿と相まって、本当に昔に戻ったような錯覚に陥る。
「君、今日が何日か分かってる? 五日も目を覚まさなかったんだよ」
 医師が五本指を立てて振ってみせる。え、と名前は小さく声を漏らした。
「あと一日目覚めるのが遅かったら、『個性』障がい専門の先生がいる病院に転院だったんだからね」
 どうやら名前が眠り続けていたのは怪我のせいではなく、『個性』起因のエネルギー不足によるものだったようで。医師たちの間でも中々の大事になっていたらしい。
 名前の感覚としてはUSJで気を失ってから一日と経っていないのだが、五日も寝こけていたとは。我がことながら唖然とする。
 相澤と13号は既に退院しており、結果的にいちばんの重症は名前だったらしい。
「あ、そうそう」
 ひと通りの検診を終え、病室を出ようとした医師が振り返った。
「精神科の先生が、退院前に寄れってさ」
 窓の向こうに投げられていた従伯父の視線が、初めてこちらに向く。
「自己判断で通院止めたんでしょ? 本当に大丈夫なら怒られはしないと思うけど、現状どう? 今呼ぶこともできるけど、どうしよっか」
 穏やかながらも、このひとの話は矢継ぎ早で目まぐるしく、テンポが掴み難い。
 精神科の、という切り出しで既にちょっと嫌な予感がしていた名前は、気まずさに目を逸らした。
 中学一年の終わり頃から、名前はこの病院の精神科に通っていた。しかし中学三年の夏頃だろうか、受験勉強が忙しくなったこともあって足が遠のいた。薬を飲もうが飲むまいが悪夢は見るし、記憶は消えない。不振だった食欲に関しては、『個性』を使うようになってから半ば無理やりとはいえ食べられるようになった。いわば不調に対して慣れが生まれ、月一回の通院を勝手に止めてしまったのだ。
「いえ、あの……退院前に、行きます」
「そ? オッケー、伝えておくね。じゃあ今日は安静にしてて。夕飯は早めに運んでもらうから、辛いだろうけどちゃんと食べること。今日はプリン付く日だよ、ラッキーだったね。夕飯の後にまた診療来るから、よろしくね。バイバイ」
 にこにこと笑い、小さい子を相手にするように手を振る。まだ私が十歳の女の子だとでも思ってるんだろうな、このひと……と思いつつ、名前は扉の向こうへ翻る白衣の裾を見送った。一礼した従伯父が窓辺から離れ、ベッドの脇に立つ。

「起きられますか」
 もぞもぞと半身を起こすと、ペットボトルが手渡された。常温の水で、キャップは緩められている。
「……ありがとうございます」
 ひと口、二口と喉を潤した。人心地ついたのを確認した従伯父が、立ったまま名前を呼んだ。見上げる。かれは医師の出て行った扉を見つめていた。いつもそうだ。かれは人と目を合わせない。しかし名前と違って卑屈に俯くこともしないので、それが少しだけ恨めしかった。
「まだ、雄英に通いたいですか」
 唐突に切り出された台詞に反応することができなかった。意図を捉え損ねた名前の頭上を、堅苦しい言葉が流れてゆく。
「貴方の保護者として、雄英の管理体制を咎めないわけにはいきません。教師が付いていながら命の危機があった。――それが名前自身の『個性』の使い方に因るものだとしても、そんな無茶な使い方をせざるを得ない状況にあったという点が問題です。私はこの先も、貴方をあの学校に預ける判断をしかねています」
 この口調からも分かる通り、従伯父は真面目なひとだ。名前が見てきた限り、いつも正しさの側に立っていた。遠縁の子どもに対して、正しく誠実に『保護者』を務めようとしている。
「その上で貴方の意思を尋ねています。これからも雄英に通いたいですか」
 当たり前だ。プロヒーローが教職を務め、日本屈指の規模を誇るヒーロー養成校。雄英以上の環境はそう無い。
 なにより、と名前の脳裏に賑やかなA組の風景が過ぎる。過度な干渉や無関心ではなく、温かで明るい気遣いがあった。特に名前に対して向けられることの多かったそれを感じる度、申し訳ないような、困ったような嬉しいような感情が湧いてくすぐったかった。ほんの一か月しか過ごしていないけれど、居心地が良いとはあの場所のことを言うのだろうと思う。
 名前は掛布団の端を握りしめた。
「……はい。雄英で、ヒーローを目指します」
 雲が流れゆく。ゆっくりと病室に影が落ち、しばらくのち再び太陽が顔を出した。
「そうですか」
 従伯父が静かに言った。屈み、床に置いてあった仕事鞄を提げる。
「なら構いません。三年、励んでください」
 腕時計を見ながら足を扉の方へ向けた。
「私は仕事に戻りますので、また家を空けます。これまで通り、何かあれば連絡をするように」
「はい」
「精神科もきちんと受診しなさい。生活費は通院費も含めて振り込んでいます」
「…………すみません」
 小さな謝罪で返すと、かれは頷いた。足早に廊下の向こうへ消える。やはり目は合わなかった。
 ベッドの背もたれに頭を預け、窓の外に顔を向ける。こんな日はヒーローも暇をしているんじゃないだろうか。澄んだ青空は高く、広がる街並みも平穏そのものに見えた。
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