早めの夕食を終えた後、名前は病室をそっと抜け出した。
 見回りの看護師がいないことを確認して階段を下りる。以前入院していた時は小児科棟の病室だったため、今いる棟は馴染みが薄い。当たり前だが子どもの姿はほとんど無く、静かなものだ。自販機等が設置されている共用スペースに辿り着いた名前は、その隅の椅子に腰かけた。夕飯時とあってか人は少ない。入院着を着た者と、恐らくは見舞いに来た者とが数人ずつ。各々がぼうっとテレビを見たり、飲み物片手にささやかなお喋りに興じたりしていた。
 名前は温かいお茶を買い、飲まずに手のひらを温めながらテレビを眺めた。バラエティ番組で若手ヒーローがにこにこと笑っている。
 お茶が手のひらと同じくらいの温度になり、名前はようやっとキャップを開けた。少しずつ飲みながら、持ち出したスマホをいじる。開いたのはSNSアプリ。検索するのは操縛布を操るアングラ系ヒーローの目撃情報だ。しかし当然というべきか、他のヒーローと違ってその手の投稿は一切無い。
 最後に見たかれは身体中が血塗れで、名前の手では治せない傷でぼろぼろになっていた。
 退院したとは聞いたが、詳しい容態は教えられなかったのだ。安心には程遠い。

「おい、問題児」

 足音と共に誰かが傍に立った。まさか。たったいま思い出していたぶっきらぼうな呼び声に、ぱっと顔を上げる。
「相澤先せ、ぃ…………」
 自然と尻すぼみになる。叶うなら語尾に疑問符も付けたかった。
 相澤だ。人違いではない、はずである。全身黒い装いは平生と変わらないし、重たい黒髪もそうだ。しかし顔どころか全身をすっかり包帯で覆われ、更には腕が吊り下げられた痛々しい姿。
 名前がいちばんの重症だなんて言ったのは誰だ。どう見ても相澤の方が重傷である。こんな状態で退院しただなんて、冗談がきつい。
「……だいじょうぶ、なんですか?」
「俺の台詞だよ」
 相澤が突っ込むが、どっちもどっちである。辛うじて見える眼光を鋭くさせ、相澤が顎をしゃくった。
「担当のお医者さんが探してたぞ。夕飯の後に診察するはずだったんだろう」
 名前は曖昧に頷く。憶えていて抜け出したとは流石に言い辛い。
「……先生は、何でここに」
「俺もこれから検診だ。終わったら病室に行っていいか?」



 ベッドに腰掛けた名前は、パイプ椅子を引き寄せた相澤と向かい合った。身を固めたまま、さて説教か除籍勧告かと沙汰を待つのは辛いものがある。先手を取ってぎこちなく頭を下げた。
「ご迷惑……お掛けして、すみません、でした」
「掛けられてないから謝るな」
 相澤が操縛布の下で長く息を吐いた。
「13号の怪我、治したんだってな」
 口ごもる。治したと言うには余りにお粗末だ。結果的に自分が倒れてしまったら世話は無い。後悔はしていないが、許容量を易々と超えて『蘇生』したことに関しては反省の余地がある。せめて何か食べてエネルギーを補給してから行っていたら、今よりはましな結末だったかもしれない。
「そのことについての説教は13号から。退院したら朝一に職員室、だそうだ」
「……はい」
「そんで俺からもひとつ」
 相澤の眼差しが厳しくなり、緊張が張り詰めた。本当にこの担任は空気を変えるのが上手い。唇を結び俯く名前に、相澤が問う。
「なぜ逃げなかった?」
 どの場面のことを言っているか直ぐに把握できなかった。USJでの記憶を辿る。ワープゲートでセントラル広場に落とされた直後? あの時は相澤の呼び声で避けた。その後の死柄木と対峙した時だろうか。しかしあの時も逃げ場が無かったのだから仕方がなかろう。まさに四面楚歌だった。
 首を傾げた名前は髪を耳にかけようと腕を持ち上げ、はたと動きを止めた。
「……ヴィランの『個性』を受けた時、ですか」
 左腕を失ったあの短い時間。相澤の沈黙が答えだった。名前は釈然としない。結局は元に戻るのだから、わざわざ逃げる必要性があるだろうか。現にいま、名前は五体満足でここにいる。
「肝が冷えたよ。みすみす死なせてしまうかと思った」
『蘇生』できると知っているだろうに心配するだなんて、可笑しな話だ。
「だって、あれくらいじゃ、」
「『あれくらい』じゃないんだ、名字」
 名前の反論は、欠損を目の当たりにした者にとっては気休めにもならない。いいか、と辛抱強く相澤が念押しをする。猫背気味の背を僅かに傾けるようにして名前に目線を合わせた。
「痛みに強いのはアドバンテージだが、鈍いとなると話は別だ。おまえは圧倒的に鈍い。今回はそれだけ自覚して、憶えておけ」
「今回は……」
「おまえは周りより未熟なところが多い。主に精神的な面でな。自分で認識してるかは知らんが、そこは一朝一夕で埋められる部分でもない。だから『今回は』だ。ひとつずつでいい。全部吸収して糧にしろ」
 相澤がここまで言葉を繋げるのは初めてだった。名前に対しては、その方が合理的だと踏んだのだろう。周囲と根本的な意識の差異がある名前に、かのじょ自身の解釈を挟む余地を与えてはいけない。少なくとも現段階では。最短で意図を伝えるには、逆に言葉を尽くすが手っ取り早いのだ。

 最後に相澤が言った。自然の摂理を語ったり、授業で基礎の基礎を教えたりする時と同じ、当然の調子で。
「ヒーローになるんだろう」
 ひくりと喉が引きつった。鼓動が速くなる。

 ――『何でそっちにいるんだ?』
 正義の側にいることを、あろうことか敵から純粋に疑問視された。自分でも分かっている。名前は、敵側へ堕ちる危険があると判断されるに充分な境遇で育った。端々に滲む価値観や生育環境は誤魔化せない。いつか図書館で読み漁ったのは、ヴィランになった人達の手記や取材記録だった。過去に親から虐待を受けた者、見放された者、『個性』のせいで冷遇を受けた者、いじめられた者。自分との類似点に気付かずにはいられなかった。

 ――『何でそっちにいるんだ?』
 だから激昂すると同時に納得したのだ。そうか、やっぱりなあ、と。


 相澤が名前をじっと見つめている。かれは死柄木のあの言葉を聞いていただろうか。聞いた上での言葉か、それとも。
 いや、そんなのはどうでもいい。
 先生は何も疑っていない。名前がヒーローを目指していることも、いつの日かヒーローになることも。
 胸が轟く。
「なります」
 気付けば、自然と答えていた。
 重い前髪と包帯の下、眼差しが緩んだ気がした。ならいい、相澤はそう呟いて名前の頭をぐしゃっと一回撫ぜた。
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