「雄英に行きたい?」
 担任教師が素っ頓狂な声を上げ、奇妙なものを見るように名前に視線を合わせた。
「はい」
 小さく頷く。
 窓から温かな風が吹き込み、髪を揺らした。掲示物が一緒になってはためく。向かい合わせの机上から進路希望用紙が逃げ出そうとしたのを、指で止めた。
 担任が難しい顔で名前の二年次の実力テスト結果をめくり、住所や『個性』が書かれている個人調査票を見つめた。
「普通科や経営科じゃなく?」
「ヒーロー科、です」
「……今年の偏差値知ってるか?」
「七十九」
「倍率は?」
「三百」
 淡々と答える名前は、こちらを覗き込む担任に目を合わせず、ただ自分の右肩上がりの字を見つめた。第一希望の欄に自信無げに佇む『雄英高校ヒーロー科』の筆跡。第二希望には普通科を書いた。第三希望は空欄。
「あのなぁ、名字」
 溜め息混じりの呼びかけに、そっと目を上げる。緩んだネクタイの結び目が気になった。担任が指で机を叩く。
「ヒーロー科ってのは、プロヒーローになるための資格取得を目的としてるとこだ。雄英じゃなくても難しいし、入った後のカリキュラムも厳しい。『個性』の向き不向きもあるし……ただの憧れとか、軽い気持ちで目指す場所じゃないんだぞ」
 名前は奥歯を噛みしめた。なにも知らないひとが、よくほざく。
「ただでさえ大人しいし、言っちゃ悪いが協調性もない。第一お前、ひと嫌いだろう。そんな人間が人助けか?」
 別に、ひとが嫌いなわけじゃないのに。

「名字、本気でないやつがヒーローを目指しても、絶対に上手くは行かない」

 は、と息を吐き出した。
 くすぶりかけていた激情が急速に冷めた。
 身勝手に断じたのだ、この大人は。名字名前はヒーローにはなれない――と。
 かちこちと時計の秒針が半周ほどを刻んだろうか。頭の芯は冷え切っているはずなのに、言うべき言葉が見つからない。心臓だけが大きく拍動している。色の乏しい唇を開いて呟いたのは、拙い言葉だった。

「わたしは、ヒーローになりたいんです」

 だって、それだけを望んで生きてきた。



 もう一度考えろ、そう突き返された進路希望用紙と実力テストの結果と共に、名前は帰路に就いた。
 部活動をしている生徒の帰宅はもう少し後なのだろう。活発な声が溢れるグラウンドを尻目に、ポケットから飴を取り出して口に放り込んだ。
 ――『軽い気持ちで目指す場所じゃないんだぞ』
 がり、と飴を砕いた。安っぽいイチゴ味が歯にくっ付く。
 軽い気持ちなものか。本気じゃないなんて、名前のなにもかもを知らない大人が、どうして分かる?
 今更、傷つくばしょが残っていたのが滑稽だった。
 初めてだったのだ。ひとに自分の夢を話したのは。
 何度も頭を反芻する担任の言葉を振り払い、意識を他に飛ばす。帰ったら数学を中心に勉強しよう。休んでる暇はない。その後は雄英の過去問を解く。ああ、その前に夕飯だ。総菜を買って済ませたいところだけど、金銭的なことを考えるとそうもいかない。何をつくろうか。
 だいぶ型の落ちたスマートフォンを取り出してレシピを探す。画面はひび割れているし、バッテリーの持ちも悪いが、買い替える余裕もなかった。
 ふと周囲が暗くなった。
 液晶に雫が落ちる。空を見上げる間もなく降り出した雨が、コンクリートの色を変えてゆく。先ほどまでの快晴が嘘のようだ。慌てて走りだしたが、すぐに止めた。寄ろうとしていたスーパーまではまだ遠い。どのみち濡れてしまうだろう。
 行きすがら、大通りから少し離れた商店街に人だかりを見つけた。濡れるのも厭わず騒ぐ人波。一瞥して通り過ぎる。すれ違った二人組の女性から「オールマイト」というささやきを拾ったが、名前は振り返らなかった。

 まさかこんな場所にトップヒーローがいるわけがない。よしんばいたとしても、名前は逃げていただろう。ヒーローを目指していながら、名前はヒーローの活躍を見るのが苦手だったから。



 スーパーを出ると、雨はすっかり止んでいた。沈みかけた夕陽が空を色づけている。
 半透明のポリ袋を持ち直した。安かったため大量に買った玉葱が重い。
「あのっ!」
 後ろからかけられた声が自分に向けられたものであることに、しばらく名前は気付かなかった。ようやっと足を止めた時には、追いかけてきた少年の方が気まずげな顔をしていた。

 知り合いではない。
 学ランを着ている――隣の折寺中学校の生徒だ。名前と同い年かひとつ下くらいだろう。緑がかった髪は癖っ毛で、どこか冴えないながらも柔らかい印象を与えた。真ん丸の瞳がせわしなく動いていた。右手で黄色いリュックサックの肩紐をぎゅっと握りしめたまま、左手を名前に突き出す。
「あああの、これ!」
 名前は思わず後ずさった。怯えたような様子に、少年が更に瞳を泳がせて途切れ途切れに言葉を繋ぐ。
「あのっ、違うんです、さっきそこで。あのすれ違ったときに、拾ってっ、」
 少年が左手を開く。載っていたのは、名前の家の鍵だった。
「ぁ、」
 スクールバッグの外ポケットを探ると、鍵に付けていたキーホルダーだけが残っている。おずおずと少年に手を伸ばした。かれはその場に立ち止まったままで、近づいて来ようとはしなかった。それがどれだけ名前を安心させたか、少年自身は気付いているだろうか。
「ありがとう、ございます」
 ぺこりと頭を下げると、なぜか少年も頭を下げた。少し和んで、ちょっと首を傾けた。じゃあ、と少年がきびすを返す。

 曲がり角に差し掛かったところでなんとなく来た道を振り返る。瞬間、誰かが脇を駆け抜けた。
「デク!!!」
 角を曲がる刹那見えたのは、茜色を受けて輝く砂色の髪と、その向こうに佇む、少年の小さなシルエットだけだった。
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