指先からじわじわと暗闇が侵食する。抵抗しないように腕は真っ先に押さえられる。すぐに身動きが取れなくなった。
「ゃ、あだ、や、」
「××××××××××」
 真っ黒な影が名前を覆った。首を振っても、叫んでも泣いても助けは来ない。なす術なく甚振られた。痛いと言ってはいけない。怒られるから。あれ、どうして知っているんだっけ。この影は誰だっけ。
 ああ、違う、ちがう。影は化け物で、怪物で、お化けで、――。ひとりぼっちのわたしを食べにきたの。怪物だから、しかたない。殺されないだけ、まし。空っぽにして。心も痛覚も頭も全部すっからかんに。いいの。全然いい。イカれてるって嘲笑われても構わない。あれ、あれ。怪物って喋るっけ。笑うっけ。包丁を持っている。あれ、あれ。
 黒い影が歪んで、ひとを形どろうとした。
「あ、ぁ」
 小指が変に折れ曲がった素足が床を引っ掻く。涙がぼろぼろ零れた。


「たすけて」


 ひしゃげた声が直接耳に届いた。はっと目を開ける。夜色の天井がいつも通りに名前を見下ろしていた。目尻から零れた涙がこめかみを伝う。荒い呼吸がひどく煩わしく、胸に爪を立てTシャツを握りしめた。半身を起こすと冷気が一気に身体を包む。身を震わせながら照明のリモコンを探した。
 平生の自室であると分かっていながらも、悪夢で飛び起きた名前にとって暗闇は恐怖の対象だ。
 いつ黒い影が――怪物が襲ってくるか分からない。
 そう思った瞬間、夢の光景がまざまざと脳裏を駆けた。喉が引きつった音を上げる。咄嗟にベッドから身を乗り出してゴミ箱を引き寄せ、嘔吐いた。
 暗い室内に苦し気な呻きと水音が響く。
 栄養の成り損ないが饐えた匂いと共に吐き出されてゆく。嘔吐きながらもどこか冷めた頭で、袋を被せておいてよかったなと思った。ゴミ箱に直接戻したら後処理が厄介だ。

 処理を終える頃には、部屋はエアコンの乾いたかぜで暖まっていた。ラグに腰を下ろす。
 二月二十六日、午前四時半。スマホに映るその文字を見て、改めて嘆息した。六時にセットしていたアラームを解除してベッドに放る。
 よりにもよって実技試験の当日に飛び起きる羽目になろうとは。白々とした照明の中、スクールバッグに仕舞っておいた受験票を取り出した。
『雄英高等学校ヒーロー科』
 名前の意志は変わらなかった。
「だれも、たすけてくれなかったでしょう」
 印字された自分の名前を見つめながら呟いた。誰も助けてくれなかった。だから名前はヒーローになるのだ。
 冷たい床を、素足で引っ掻く。爪も指も真っ直ぐに揃ったうつくしい足。
 名前の身に、傷はひとつも残っていない。



「今日は俺のライヴにようこそー!!! エヴィバディセイヘイ!!!」

 静寂が耳に痛い。名前は呆気に取られた。講堂の中央でまさにライブ会場かのように手を広げてレスポンスを求めるひとりのプロヒーロー――いや、この場では一教師。プレゼント・マイク。受験生の沈黙もなんのその。めげずにレスポンスを要求しつつ、声高々に試験の説明を始める。
 普段からこの声量は遠慮願いたいが、今ばかりは、彼のおかげで寝不足も吹き飛んだ。目の下に隈は残るものの、頭ははっきりしている。
「……ラジオ毎週聞いてるよ感激だなあ雄英の講師は皆プロのヒーローなんだ……」
 どちらかと言うと、名前は右隣の少年が呟く声の方が気になっていた。試験概要を聞きながら横目で見遣る。緑色の癖っ毛に学ラン。なんとなく見覚えがある気がした。受験番号が隣同士でこの学ランなら、隣の折寺中学の生徒だ。どこかで会ったろうか。
「――各々なりの『個性』で『仮想敵』を行動不能にし、ポイントを稼ぐのがリスナーの目的だ!!」
 名前は飛びかけていた思考を戻す。今は試験を乗り切ることが第一だ。
 膝の上で組んだ指を弄ぶ。……行動不能か。壊す必要はないらしい。『個性』によっては絶望的な試験内容である。
 配布されたプリントの仮想敵を見つめた。やり様が無いわけではない。しかし、名前が人前で『個性』を使うのは初めてに等しい。
 指をきつく握り込む。

「最後にリスナーへ我が校『校訓』をプレゼントしよう――かの英雄ナポレオン=ボナパルトは言った!」
 プレゼント・マイクの声が会場をびりびりと震わせる。
「『真の英雄とは人生の不幸を乗り越えていく者』と!! "Plus Ultra"!! それでは皆、良い受難を!!」

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