教室の扉を開ける。窓際のいちばん後ろの席が空っぽなのを見止めて、胸の辺りに薄い靄がかかる。低血圧のせいで足元を這う朝の気分は、名前の不在を確かめる度、更に下降する。クラスメイトの大半も体育祭に向けて士気を上げてきているが、いまいち気分が乗り切らない。
 入院して以来、少なくとも日に数度、自分の話題が出てるなんてアンタは思ってないだろうね。いまも眠っているらしいかのじょの席に背を向けて耳郎は思いごちる。
 雄英に入り出会ったクラスメイトのひとり、名字名前はどこか浮世離れした少女だった。二次性徴を迎えていないような痩せた身体。落ち着きのある日常の所作に反して、大胆な戦い方は少し危なっかしい。いわゆる今どきの女子高生としてもヒーローの卵としても、周囲と一線を画していた。気鬱そうな眼差しの、表情の乏しい女の子。


 耳郎が初めて話したのは体力テストの時だ。話しかけたことに深い意図は無かった。自分の順番が終わって少し退屈していたところに名前の呟きが聞こえてきたから、興味本位で声をかけた。ただそれだけ。
 大人しい子なんだろうな、迷惑な顔されそう。よっぽど嫌なようなら早めに切り上げなきゃな。少なくとも一年同じ教室で過ごすクラスメイト――しかも数少ない女子のひとり――に早々に嫌われることは避けたい。そんな杞憂もありつつ名前の顔を覗き込んだ。
「ウチ耳郎響香。そっちは?」
「……名字、名前」
 緊張を如実に表す声が幼くて、ちょっと笑ってしまった。
 名前は存外ひとと向き合うことに真摯だった。困ったように俯くのに、律儀に会話には応じる。詰まりながらも言葉を探す様子は好感が持てた。曖昧に笑って誤魔化すだとか、適当な返事をして話を切り上げるだとか器用な真似はできないのだと短い時間で知った。


 頬杖をつきながらスマホをいじる。
『無事?』
 我ながら素っ気ないトークアプリのメッセージに既読は付かない。アプリ内の1−Aグループの『招待中』欄には名前だけが取り残されている。朝の喧騒の中、あてもなくスクロールを続けていると、
「はよー」
 軽薄な声がするりと入り込んだ。顔を上げる。
「おはよ」
 隣席にスクールバッグを投げ出した上鳴が椅子を引きながら、やはり耳郎と同じく教室の隅に視線を遣っていた。
「今日も名字休みかね」
「……たぶん」
 そっかー、椅子の後ろ脚に体重をかけて身体を揺らしながら上鳴がぼやく。かれの横顔はなまじ整っているから冷たく見える。普段乗せている笑みが無いと余計に。

 耳郎はぽつりと零した。
「ウチ、名前の『個性』、すごいねって言えない」
 上鳴がこちらを見た。僅かに目を見開いて、それから苦笑する。
「聞いてたんかよ」
「聞こえたんだよ」



 ヒーロー基礎学の翌日、変わり映えしない朝の喧騒の中でのこと。
「――――急に手ぇぶった切ったもんな、びっくりしたわ」
 軽薄な声が微かに届く。耳郎は耳から伸びるプラグをぴくりと動かした。はきはきとした男子二人とは別に、かき消されそうな小さな声を途切れ途切れに拾う。
「――……リカバリーガールにも……言われたから、……びっくりさせないよ……します」
 実戦演習で大立ち回りを演じた名前は、その後倒れて保健室へ送られた。右手を躊躇いなく切り落としたあの光景は目に焼き付いている。荒いモニター映像の中でも、飛び散った赤は鮮烈だった。静まり返ったモニタールームにはオールマイトの叱責が響いていた。
「あーまあ心臓に悪いけど、すげぇ『個性』じゃん」
「……な! 対戦も熱かったし!」
 切島も上鳴も昨日は蒼い顔で押し黙っていたのに、どうしてそんなことが言えるのだろう。無性に苛立って、みっともなく泣きそうになるのを堪える。
 途切れ途切れの名前の声が段々と明瞭になる。やたら大きな扉を開けて声の主三人が教室に入ってきた。スクールバッグを抱える名前は顔色こそあまり優れないものの、足取りはしっかりしており元気そうだ。
 上鳴が近くのクラスメイトと挨拶を交わしながら名前を振り向いた。
「でさ、今度いっしょに飯行かね?」
「え、と……嫌、です」
 ほらもう。あんなの無視したっていいのに、律儀に返事をする。
 上鳴が名前にひらひらと手を振りながら机にスクールバッグを引っ掛けた。名前が横を過ぎる。傷ひとつない右手を見て、耳郎は咄嗟に目を逸らした。



 耳郎はスマホを伏せて手のひらを握り、繰り返した。
「聞こえただけ」
「おまえ耳良いもんなー」
 肩を竦めて今度は上鳴がスマホを取り出す。真っ直ぐに向かい合わない距離が、逆に耳郎の気を緩ませた。
「『びっくり』なんて簡単に済ませないでよ」
「俺難しい言葉知らねぇし」
「なんで『すごい』とか言っちゃうの」
「すげーじゃん、名字の『個性』。そりゃ危なっかしいし、おいおい大丈夫かよって思うけどさ。めっちゃ頑張って、んでああいう使い方してんじゃん?」
 耳郎は言葉に詰まった。上鳴のこの衒いの無さは一種の才能だと思う。迷い子のような目で自分を見る耳郎に、上鳴がへらりと笑った。
「俺はすげー! って思ったからそう言ったけどさ、耳郎は別に怒ってもいいと思うぜ」
 虚を突かれた。

 ヒーロー基礎学の実戦演習について、相澤は緑谷と爆豪に釘を差した。あの時、耳郎は縋るような気持ちで祈っていた。名前にも何か言ってよ。涼しい顔であんな無茶苦茶な戦い方をして良い筈が無い。
 名前を異常だなんて評すのは嫌だけれど、頭ごなしに間違っているなんて否定できもしないけれど、耳郎は止めてと言いたかった。友だちが傷付くのは嫌だ。治るとしても、元通りになるとしても、痛い思いをしてほしくない。それだけの単純な気持ちを、ヒーローを目指す身が押し付けて良いのかと引き留める。
 だから代わりに誰かに言ってほしかったのだ。相澤の――先生の言葉なら名前も聞くかもしれないと思ったから。しかし懇願空しく、相澤はかのじょに視線のひとつも寄越さなかった。
 ――「みんな心配してたんだから、ひょいひょい過激なことするの控えなよ」
 結局、耳郎が言えたのはそれだけ。中途半端な言葉は足枷にすらならなくて、結局名前はまた『個性』を使って目を覚まさない。

 震える喉で、小さく問う。
「いいのかな、ヒーロー目指してるのに」
「えっそれ今関係あるか?」
 上鳴が心底怪訝に眉を寄せた。
「ダチなんだから、心配かけさすんじゃねぇっつって怒ればいんじゃん?」
 唇を噛んだ。目頭が熱くなる。顔を見られたくなくて勢いよく頷いて、そのまま顔を伏せた。上鳴が慌てたように顔を覗き込もうとする。馬鹿、ここは放っておいてくれていいんだよ。
 金髪を手で追い払っていると、机の上のスマホが一度鳴った。はっとして画面を開く。通知のポップアップに表示された名字名前の文字。アプリを開く。
 耳郎のメッセージの下に、ひとつの吹き出しが浮かんでいた。

『無事です ありがとう』

 色々な感情が押し寄せる前に、もうひとつ吹き出しが増える。
『明後日から登校します』
 じわじわとその言葉が沁み込んで、耳郎は笑み崩れた。横で見守っていた上鳴にスマホを差し出す。画面に目を走らせたかれは勢いよく席を立った。表情は明るい。耳郎の背中を叩いて、教室中に叫んだ。


「名字が目ぇ覚ましたぞ!!!」

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