二本早い電車に乗って学校へ向かった。通勤ラッシュの時分より幾分か空いている電車に揺られながら、朝特有のくすんだ蒼天に目を細める。スマホをいじっていればあっという間に降車駅だ。改札を抜けて十分も歩けば雄英の影が見えてくる。
 敵襲来以来、一層厳しくなったセキュリティを通り過ぎて名前は職員室へ向かう。
 
『退院したら朝一に職員室、だそうだ』――病院で伝えられた13号の言葉を無視することは流石にできない。とは言え、と床から天井まで大きく構えられた扉を前に、名前は長く息を吐いた。職員室がすきな生徒はそういない。名前とて例外ではなく、まして雄英の教師は全員がプロヒーロー。敷居の高さは中々のものである。
「…………失礼します。13号先生いらっしゃいますか」
 覚悟を決め、ノックと共に顔を覗かせた。幸いにもかれは扉に近い位置にいた。無理に張らずとも声は確りと届いたようで、宇宙服のヘルメットはすぐにこちらを向いた。手に持っていた資料をデスクに置き、名前の前に歩み寄る。
「おはようございます。体調は大丈夫ですか?」
「はい……、あの、ご迷惑をおかけしました」
 はたと動きを止めた13号は、とんでもない、と首を横に振った。
「相澤先生から聞いてはいましたが、直接顔を見られて安心しました」
 恐らくヘルメットの下では微笑んでいるのだろうと分かる穏やかな声だ。そのまま名前を職員室の隅に誘う。デスクの間を通り抜ける度、教師陣から視線を向けられていたのは気のせいだと思いたい。敵襲撃で病院に運ばれた唯一の生徒とは言え、受け持ちでない生徒の顔など憶えてはいないはずだ。温厚な13号が生徒を呼び出したので、よもや説教かと珍しがっているだけであろう。
 職員室の隅はちょっとした作業スペースになっていた。折り畳み式のテーブルが一脚あり、上には印刷ミスのプリントとホッチキスの入った土産菓子の箱が置いてある。授業で使うらしいプリントの束をそこに置いた13号が言った。
「資料作りを少し手伝っていただけますか?」

 プリントをそれぞれ五枚ずつまとめて、左上を青のホッチキスで留めてゆく。かちゃん、かちゃん。
「授業の初めに、人命の為の『個性』の使い方についてお話しました。憶えていますか?」
 単純作業の傍ら、13号が静かに話し始める。出来上がった資料を重ねながら、名前はちらと彼を見遣る。首肯した。
「もうひとつ考えていただきたいのは、命の使い方についてです」
 『命を使う』。些か剣呑とした響きだ。
 名前にとって『個性』の使い方はすなわち命の使い方に繋がっている。今回の出来事で実感した。死柄木との戦闘での『個性』使用と、駄目押しで行った重傷を負った13号の蘇生。あんな無理な『蘇生』を繰り返せばエネルギーは枯渇し、恐らく命を落とす。それを知ってか知らずか13号が続ける。
「私たちはヒーローです。敵に襲われている人がいたら、災害現場で命の危機に瀕している人がいたら。自分の命を懸けて――死ぬ気で助けてください」
 かちゃん。ホッチキスの針が資料を縫い留める軽快な音。流れ作業に釣られてあっさり頷こうとした名前の動きを、次の言葉が引き止める。

「ただし、決して死んではいけません」

 かちゃ、ん。ゆるゆると名前は俯いていた首を伸ばした。13号のつるりと丸いシルエットを見下ろした後、手元のプリントの角がずれているのに気付いて丁寧にばらす。テーブルに立てて角を揃え、もう一度ホッチキスを鳴らした。
「……難しい、ですね」
 情感乏しい少女の唇は肯定も否定も吐き出さず、ぼやけた言葉を空気に濁した。
「ええ、とても難しい。しかしそれを実践するのがヒーローです」
 曖昧な名前の返答と違い、13号の言葉は迷いが無い。
 死ぬ気で助ける。だけど死んではいけない。言葉遊びのようだと思った。名前には、まだ難しい。
 資料作りはすぐに終わった。特別名前の手際が良かったわけではない。元より、面と向かって話すよりも気楽だろうという意図で、13号が無理やり残しておいた作業だろうから。
 名前がスクールバッグを担ぎ直すと、13号が改まってこちらに向き直った。
「名字さん」
 きょとんとする名前に、それは酷く真っ直ぐに差し出された。

「助けてくれて、ありがとうございました」

 ひとつ瞬きをする。窓のサッシに反射した朝陽が目の隅でかちりと光る。
「……え、と」
「君のおかげです。――素敵な『個性』ですね」
 13号が吐き出す言葉は、単純で簡潔で、溶け込むように胸の内に届いてくる。
 ひゅっと息を吸った。耳の奥で、ざあっと血の流れる音がした。急に視界が明るくなったような気さえする。青空の広がる窓がやたら眩しい。
 両の手を握り合わせて、ぎこちなく首を横に振る。
「……あの、いえ」
 13号が苦笑した。指を立て、教師の口調に戻って言う。
「感謝を素直に受け取るのも大事なことです」
 名前は素直に狼狽えた。ありがとうの返答に相応しい言葉を、頭の中から必死で探す。視線を彷徨わせて十秒、二十秒。何かを受け取ることに不慣れな少女は、ようやっと思い当たる。自分に救われたのだという相手を見つめ、掠れた声で呟いた。


「……どういたしまして、……です」
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