スカートの裾を引っ張る。ワンルームを映す全身鏡の前で、名前は慣れぬ制服に身を包んでいた。スマホでネクタイの結び方を検索し、鏡と手元に目を行ったり来たりさせる。五分ほど試行錯誤したが、時間を見て潔く諦めた。不格好に垂れるネクタイを引き抜き、畳んでスカートのポケットに入れる。
 少し早い電車に乗り、中身がペンケースとファイルだけのぺたんこのスクールバッグを抱えて目を閉じた。

『私が投影された!!!』

 実技試験の一週間後。
 転がり落ちた投影機から何の前置きもなくオールマイトが現れた為、名前はうっかり味噌汁を零した。行儀悪く食事をしながら封筒を破ったのが悪いのだが、それにしてもサプライズが過ぎる。ラグを拭きながら呆然と合格を聞いたのだった。
 入学が決まってからは、保護者である従伯父に報告をしたり、ヒーローコスチュームのオーダー用紙を記入したりと中々に慌ただしく時が過ぎた。
 従伯父は身寄りのない名前を引き取ってくれたひとだが、生活のほどんとを海外で過ごす仕事をしているため、ここ一年会っていない。進学やお金の話もメールで行った。もちろん今日の入学式にも来ない。ただ昨日確認したところ、口座に入学祝いと思しき金額が振り込まれていた。
 無関心を貫きながらも、保護者の役割は十二分に果たしてくれる。かれとの関係に不満を感じたことは無かった。


 名前は一年A組に振り分けられた。教室のやたらに大きな扉を開けると、既に幾人かの生徒が座っていた。集まった視線に委縮して俯く。
「やあ、おはよう。俺は私立聡明中学出身の飯田天哉だ。君は確か入試の時にいた……」
 黒板の席順を確認しようと踏み出したぎこちない歩みを、早々に遮られた。頭ひとつは高い位置にある顔を見上げる。気真面目そうな男子生徒。入試の時のひとだ、と思い当たった名前は、顔を蒼くして一歩後退した。
 名前の『個性』を知らないとはいえ、いきなり「緊張感が足りない」「失礼だ」などと言われたのだ。それも男性に。苦手意識を持たない方が難しい。
「………………名字、名前、です」
 おざなりに会釈すると、飯田がひとつ頷いた。
「名字君、入試での無礼を謝罪するよ。すまなかった」
「え、」
「帰宅してから兄に言われたのだ。『個性』によっては、使った傍から酷く体力を消耗するひともいる、と。食料を持ち込むのは緊張感の無さからではない。自分の『個性』や体質を自覚した行動だと……! ボ……、俺の視野が狭く、勝手な判断で君を糾弾してしまった! もちろん謝罪ひとつで許して貰おうとは思っていないが、謝らせてくれ!」
 お手本のような直角のお辞儀を向けられた名前は、肩を竦めて身を引いた。怖い。名前は名前で大分ぞんざいな返答をしたはずなのに律儀な青年である。
「気にしてない、から。席、見せてほしい」
「そうだな、すまない! 君の席は――窓際の一番後ろだな! おや、名簿順だと思ったんだがなぜ名字君だけそんな場所に?」
 名前は曖昧に首を傾げ、スクールバッグを抱えて足早に席に向かった。
 ペンケースとファイルを重ねて机上に載せて、やっとひと息つく。と思うも束の間。前の席の少女がくるりと振り返った。豊かな黒髪が艶めいて揺れる。
「おはようございます。私、八百万百といいますの。よろしくお願いしますわ」
 名前は言葉に詰まった。おはようとよろしく、どちらから言えば良いか分からなかった。結果的に飯田とのやり取りを繰り返す形になった。軽く会釈をして、名乗る。席順のことを尋ねられても名前にだって分からないから、やはり首を傾げるしかできない。
 元よりひとりが苦でなく、周りも名前を遠巻きにしていたから中学で口を開くことはほとんど無かった。雄英でも変わらないだろうと高を括っていたから、普通に話しかけられることに戸惑ってしまう。
「名字さん、ネクタイはどうなさったんですか?」
 八百万がふと名前の首元を手のひらで示す。指差しをしない辺りに染み付いた礼儀作法が表れている。
 名前は俯き、迷った後に口を開いた。
「…………結び方、分からなくて」
 一拍。
「あら」
 八百万が小さく呟いた。恥ずかしさで耳が熱い。
「それなら私がやってもよろしいですか?」
「え」
「中学の時はリボンだったので、私も今朝母に教わったばかりなんです。練習がてら結ばせていただけたら嬉しいですわ」
 微笑んだ八百万が返答を待っている。あくまで無理強いしない申し出は、かのじょの純粋な好意だ。断るのも受け取るのも勇気が要る。
 いくら雄英が服装を重要視しない自由な校風だからと言って、初日にネクタイをしないでいるのは抵抗があった。入学式までまだ時間もある。お言葉に甘えてしまおうか。

「ハイ静かになるまで八秒かかりました。時間は有限。君たちは合理性に欠くね」

 名前がネクタイを取り出しかけた時、唐突に現れた低音がそう断じた。クラスのざわめきが止み、名前と八百万も正面に顔を向ける。低い声は続けた。
「担任の相澤消太だ、よろしくね」
 教室中がまさかと思ったことだろう。
 黒い長髪に不精髭を生やし、布のような帯のようなもので猫背気味の肩を隠している。一見して教師には見えない風貌だ。
 相澤は絶句する生徒たちを置き去りに寝袋をごそごそと探る。
「早速だが、コレ着てグラウンドに出ろ」
 淡々と突き出されたのは、青を基調とする雄英の体操着だった。
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