「緑谷、ばあさんのとこ行って治してもらえ。名字も」
 全ての種目を終え、除籍の話を合理的虚偽とのたまった相澤は、二枚の用紙をふたりに差し出した。緑谷は見たままだが、隠していた名前の傷もお見通しらしい。大人しく保健室利用書と書かれた紙を受け取った。


「こんなに体力消耗した状態で治癒なんてできないよ」
 看護教諭であるリカバリーガールが穏やかに、しかしぴしゃりと言った。一足先に治癒を受けた緑谷が、扉に手を掛けたままこちらを窺う。
 そうだろうなとは思っていた。普段は限界を見極めて『個性』を扱っているつもりだが、如何せん今回は除籍の危機があったので、悠長な使い方はしていられなかった。しかし倒れる程の無茶もしていない。名前にしてみれば反省する箇所が見当たらないので、そうですかとただ静かに返した。
「全く、綺麗な手をこんなにして……。お腹空くんだろう、先にペッツお食べ。野菜ジュースも。緑谷は先戻ってな、大丈夫だから」
 てきぱきと名前にパックの野菜ジュースを渡しながら包帯を準備し、扉の前で固まっていた緑谷を急かす。名前はぐるぐると右手を覆う包帯を見ながらストローを咥えた。トマトの酸味に喉の奥が窄まる。程よく冷えていて、消耗した身体に丁度良い。
「『蘇生』は切り傷には効かないのかい?」
 リカバリーガールの声色が単なる世間話のそれだったので名前は素直に頷いた。
「繊維が切れただけで、死んではいないので」
 蘇生可能なものとそうでないもの。切り傷、打撲傷、火傷は経験上蘇生できないと知っている。そのため、元の形を保っているか否かが『蘇生』可不可の分岐点だと名前は考えていた。名字名前は五体満足の身体で生を受けたから、恐らくその状態からひとつたりとも欠けてはいけないのだ。見た目の有無で生死を判断するなんて、大雑把な『個性』である。
「逆に一回死ねば――手首から切り落として蘇生すれば、この切り傷も修復されて……まっさらな状態に、元通り、です」
 淡々とした話口調が段々と尻すぼみになる。手当てを終えた名前の右手を握ったまま、リカバリーガールがじっとこちらを見ていた。
「自分の身体は、自分がいちばん大事にしてやんなきゃいけないよ」
 刺された。きぃん、と耳鳴りがする。
「…………はい」
 ナイフで紛い物の心臓を刺された、そんな錯覚を起こした。紛い物だから痛くはないけれど、鋭い刃が沈んでゆくのは分かる不快感。
 リカバリーガールに小さく頭を下げて名前は逃げるように保健室を出た。お礼を言う余裕すら無かった。
 心の柔い部分がぐずぐずと膿んでいる。不意に突き付けられる優しい正論は凶器だ。誰かに振るわれる度、名前は過去に引き戻される。埃っぽい床に放置された、壊れた人形の惨めさを思い出すのだ。
 しんとした廊下に立ち止まって手をきつく握りしめた。
 自分を大事に。そんなの、だれが教えてくれた? 今更なにを言っているの? 自分を大事に。ならば名前の身体はもっと傷だらけでないと可笑しい。『綺麗な手』なんて馬鹿みたい。傷ひとつない身体こそ、自身を含めて、誰も名前を大事にしなかった証左だというのに。



 翌日、ヒーロー基礎学。
 コスチュームボックスを開けた名前は、更衣室の隅で手早くそれらを身に付けた。
 要望通り手がすっぽり隠れる大きめのM65とショートパンツ。両方とも真っ黒でポケットが沢山付いている。小刀を五、六本腰にぶら下げベルトで固定する。着脱式のフードを被れば、顔の半分が覆われた。
「わ、名字さんカッコイ!」
 何もない所から突然声を掛けられ肩を揺らす。右を向くと手袋がふわふわと浮いていた。足元ではブーツがご機嫌そうに跳ねている。
「…………え、っと、葉隠さん?」
 確か『透明化』の。フードを持ち上げ、かのじょの顔に当たるであろう所を見ると、両の手袋がぱんっと合わさった。
「うん、葉隠透! さん付け要らんよ」
 顔は見えずともにこやかなのが分かる。快活な声は好ましい。耳郎とはまた違う距離の詰め方にたじろぎつつ、名前は小さく首を傾げた。この十五年間、真っ当な友人ができたことも無ければ、親しく呼び合ったことも無い。
 名前の迷いを察してか葉隠が親指を立てた。
「透でいいよ!」
 感情豊かな手に気持ちが和んで、名前は自然にその名前を呼んだ。
 同じ頃に着替え終えた耳郎も引き連れ、三人でグラウンド・βに向かう。名前は小気味よく交わされる会話を聞くばかりだったが、居心地の悪さは感じなかった。
 暗い廊下を抜けてグラウンドに出ると真昼間の陽差しが名前たちを包んだ。アスファルトに反射する陽光に目を細めた。

 しばらくして全員が集まると、今回のヒーロー基礎学担当教師であるオールマイトは、そのコスチューム馴染まぬ少年少女たちを見渡した。

「始めようか有精卵共!!! 戦闘訓練のお時間だ!!!」

 今回行うのは屋内での対人戦闘訓練。
 状況設定は至ってシンプルだ。アジトに『核兵器』を隠している『敵』と、それを処理しとうとしている『ヒーロー』。名前たちは二人一組で『敵組』と『ヒーロー組』に分かれ、二対二の屋内戦を行う。
『ヒーロー』の勝利条件は『敵』の確保もしくは『核兵器』の回収。
『敵』の勝利条件は『ヒーロー』の確保もしくは『核兵器』の防守。
 時間制限も設けられており、ペアの者と協力しつつ短期決戦で片を付けることが求められている。
 組み分けのくじを引いた名前は、中身を確かめて面食らった。
「『アタリ』……」
 アルファベットでの組み分けではなかったのか。昨日の怪我が残る右手に収まるくじと周囲とを見比べる。皆が次々とペアを見つける中で視線を彷徨わせていると、オールマイトが近寄ってきた。
「どうした、名字少女!」
 オールマイト自身は気軽なものだが、名前はどうしてもかれが先生以前にトップヒーローだということを意識してしまう。そもそも男性であることから気軽に話せるわけもなく、名前は俯きがちにくじを差し出した。
 えっ私嫌われてる……? 小さく言ったオールマイトはしかし、名前の手元を見て声を明るくした。
「『アタリ』を引いたのは君か! よし、それじゃあ皆注目!!」
 AからJのチームに分かれたクラスメイトたちの視線が集中する。
「このクラスは二十一人だからね、二人一組だとひとり余る! というわけでこの『アタリ』くじさ! 今回は名字少女!! 君には最後『敵』側として、ひとりでこの中の一チームと戦ってもらう!!」
 つまりは一対二。
 名前は目元を隠すフードの下で空を仰いだ。最後にたったひとりで戦闘だなんて、と苦々しい思いも湧くが、ほとんど初対面の相手に『蘇生』を見せてぎょっとさせるよりはマシかもしれない。協調性の無さも自覚している。思うままにワンマンプレイができると考えれば、確かに『アタリ』だ。
「相手をする『ヒーロー』は『個性』を知られた上、体力を消耗した状態で戦うというピンチに陥るわけだが、そんなことはヒーローならば日常茶飯事!! 数の利がある『ヒーロー』と情報の利がある『敵』! どうやって戦うか、対戦も観戦も有意義な時間になると思うぞ!!」
 一瞬、爆豪と目が合った。舌打ちしてすぐに逸らされる。彼が『アタリ』ならきっと最終対戦のプレッシャーもなく生き生きと戦闘訓練を楽しんだだろう。
「いいかい⁉ それじゃあ続いて――最初の対戦相手はこいつらだ!! Aコンビが『ヒーロー』!! Dコンビが『敵』だ!!」

 その言葉を皮切りに、初の戦闘訓練が始まった。
top