Story-03

 配属からあっという間もなく、三週間。
 新人ということで定時に返してもらっているが、先輩方が定時で帰っているところは未だ見たことがなく。
 どれだけ多忙な職場なのか、身をもって実感する日々だった。

「菜々ちゃん、ここ間違ってる。再提出ね」
「……ハイ」

 普段どれだけ馬鹿にされようと、仕事に対する諏訪さんは真面目そのもので、おもわず拍子抜けした。
 合間に軽口は飛んでくるものの、業務時間ではちゃんと弁えた軽口だ。
 そう。
 業務時間では。

「もう昼休憩かあ……。菜々ちゃん、コンビニでなんか買ってきてよ」
「……パシリじゃないですか。嫌です」
「パシリも立派な仕事じゃない?」

 そんなわけあるか。
 拒否するも、諏訪さんは譲らない。

「どうせコンビニ行くんでしょ。いいじゃん、ついでに」
「いつも言ってますけど、朝コンビニ寄ってきてるんです!」
「えー? そうだっけ」

 かれこれこのやりとりも三週間。
 課のメンバーはもう誰も突っ込まない――が、この日は違った。

「珍しく事件も落ち着いてるし、外にランチでも行かないか?」

 提案したのは松田さんだ。
 
「たまには、いいな」

 西浦さんも乗り気らしい。

「拓真さんのおごりですか? 行きまーす」
「勝手に決めんな」

 ここぞとばかりに諏訪さんも乗っかる。
 え、えー……。
 一人で置いていかれるのも、それはそれで寂しい。

「佐々木、どうする?」
「――……行きます!」

 朝コンビニで買ったおにぎりは今日の夕飯にしよう。
 
「中瀬さんは……上層部との会議か」
「本部の方に行ってるみたいですねー」

 西浦さんが、入り口付近に掛けられた課員の行動予定表を見てつぶやく。
 それに対して、ジャケットを羽織りながら諏訪さんが付け足した。

「……中瀬さんって、休んでるところ見たことないんですけど」

 二人の会話を聞いて、この三週間ずっと感じてたことを思い切って訊いてみる。
 私の言葉に三人が真顔になった。

「……それは、俺も見たことないな」

 口火を切ったのは西浦さんだ。
 おそらくこの中で一番長い付き合いだろう、西浦さんの言葉に絶句。

「夏季休暇とか代休とか……俺らに回すだけ回して、自分は休んでないんですよねー」

 三年目になる諏訪さんも、思い出してため息混じりに零した。
 
「今年度から課長になって、さらに忙しそうだしなあ」

 西浦さんの一個後輩に当たる松田さんが、同じようにぼやく。
 誰も休んでるところを見たことがない中瀬さんて、一体。

「ていうか、中瀬さんって今年度から課長になったんですか?」

 純粋な疑問に西浦さんが頷いた。

「ああ。二課の藤岡さんもだ。……まあ、昨年度いろいろあったからな」

 いろいろ、の部分で西浦さんの顔が一層苦くなった。
 他の二人も明るい表情ではない。
 
(訊かない方がいいかな……)

 新人の分際で突っ込んでいいような事情じゃなさそうだ。
 
「中瀬さんが課長っていうのしっくりきすぎて、もう何年もやってるのかと思ってました」

 タブーそうな部分をスルーして返すと、松田さんが笑う。

「それはたしかに」

 その笑顔を見て少し安心する。
 突っ込まなくてよかった。

「何年も、って、おまえ、あの人何歳に見えてんだよ」

 西浦さんが呆れた顔でため息を吐く。

「ち、ちがいます! 別に年老いて見えるとか、そういうんじゃなくてですね!」
「うわ。菜々ちゃん自分が若いからって」
「諏訪さん! というか諏訪さん私と二つしか違わないじゃないですか!」

 にやにやと揚げ足を取る諏訪さんに反抗すると、松田さんが乾いた笑いをこぼした。

「……そうか、佐々木から見て、四つ上の俺はもうおじさんかあ」
「諒、それ俺も巻き込んでるからな」
「い、言ってません! 松田さんも西浦さんもお兄ちゃんです!」

 慌てて弁明する。
 諏訪さんのせいで余計に話がややこしくなってる――……、と三人が同時に噴き出した。

「ふ、はは、お兄ちゃん、って」
「おまえ、はは、ほんと、ワードのチョイスが……っはは」
「諒さんはともかく、拓真さんつかまえて『お兄ちゃん』……菜々ちゃんほんと期待を裏切らないよねえ」

 三者三様に笑われて、自分の失言に気づく。

「ち、ちが――! おにいさん! そう、おにいさんって言いたくて!」
「それもどうなんだよ」

 笑いを堪えたまま、松田さんが突っ込んだ。
 ――……もう、どうにでもなれ。
 一向に笑い止まない三人を、諦めて眺めるに徹する。

「っはあ。あー……今といい、新歓のときといい、ほんと面白いやつだな」

 最後に笑いの落ち着いた西浦さんが、懐かしむようにつぶやいた。
 
(ん?……新歓?)

 記憶にない話の流れに戸惑う。

「中瀬さんの『綺麗なご尊顔』ですもんね」
「そのあと中瀬さんに説教し始めたしな」

 ……なにそれ。
 欠片も覚えていない出来事に、背筋がヒヤリとした。
 
「……それは、一体、どなたの話ですか……」

 一縷の望みをかけて訊く。
 
「は? 何言ってんだ。お前だよ」

 情けも容赦もない西浦さんの言葉に、がっくりと項垂れる。
 ハイ。話の流れ的にそうですよねー……。
 
「おもしろかったなー。中瀬さんも何が何だかわからない顔してたし」
「あんな中瀬さん見たの久しぶりだったな」

 どうやら課内では周知の事実らしい。
 そう言われると、そんなことを言った記憶があったり、なかったり……。

「これからも期待してるよ、菜々ちゃん」
「なんの期待ですか……」

 本当にお酒の飲み過ぎは注意しようと、改めて固く誓った。


◇ ◇ ◇ ◇


 平穏だったのはその日の昼休みまでだった。
 本部から中瀬さんが帰ってくると、すぐに課内ミーティングが開かれた。

「新宿でおそらく悪魔の仕業だという事件が発生した」

 中瀬さんの簡潔な言葉に心臓が鳴る。
 この三週間、先輩方は何度か事件に赴いていたが、それは後処理が多く、こうして事件の始まりに居合わせたのは初めてだ。

「被害者は二十代女性、被疑者はその交際相手の男だ」

 矢継ぎ早に飛ばされる情報を、漏れがないようメモに取っていく。
 程なくして中瀬さんの説明が止まった。

「――……なにか、質問はあるか」

 不意に中瀬さんと目が合う。

(あ、これ、私のための時間――……)

 質問したいが、正直なにがわからないか、わからない。
 どうしよう――自然とメモに視線が落ちた。

「菜々ちゃん」

 珍しすぎる優しい声が呼んだ。

「まずは、俺についてくればいいから」

 普段の諏訪さんからは考えられないほど、優しい。
 
「はい。ありがとうございます」

 満足そうに頷いた諏訪さんが前に向き直る。
 それを見た中瀬さんが、話を再開した。

「さっそく調査の割り振りだが――……」

 
◇ ◇ ◇ ◇


 思わぬ形で事件が終息したのは、事件発覚から一週間もしない、木曜日の夕方だった。
 須和さんの割り振りを手伝う形で調査に当たっていたが、昼過ぎに中瀬さんに呼び出されて課に戻ると、一課全員が揃っていた。
 
「被疑者が吐いた」

 重々しく口を開いたのは中瀬さんだ。
 ――……吐いた、って一体。
 私の疑問に答えるように、言葉が続く。

「今回の事件は、警察の管轄だ」

 警察の、管轄。
 それはつまり。

「悪魔は関係なかったってことだね」

 諏訪さんが補足をする。
 
「ああ。……本人の自供もだが、現場検証の結果も踏まえての判断になるから」

 ほぼ確定で悪魔の仕業じゃなく、人間が自らの意思で行ったこと――……。
 不意に、ぐっと胸が苦しくなる。
 つきあげるような吐き気。頭痛。
 
「……佐々木、大丈夫か」

 中瀬さんの気遣わしげな視線。
 
「すみません、大丈夫です」
「……そうか」

 納得いったようないっていないような表情で、中瀬さんは再び続ける。
 ――今回、諏訪さんと中瀬さんの判断で、私は現場の写真を見ていない。
 口頭で聞いただけでも胸糞悪くなるような、想像したくないほど凄惨な、現場だった。
 それを、人間が、自分の意思で。
 
「各自に調査報告書はまとめてもらうが――」

 中瀬さんの声が遠い。
 聞かなくちゃいけないのに、身に入らない。
 
「菜々ちゃん」

 諏訪さんの声に呼ばれて、はじかれたように顔を上げる。
 どれくらい時間が経っていたのか、一課の面々の心配そうな表情。
 こういうときこそ、茶化してくれたら、楽なのに。

「すみません……」

 自分は今どんな顔をしてるんだろう。
 被害者が同年代だったから。
 初めて調査に携わった事件だから。
 悪魔のせいにしようとした、人間の仕業だったから――
 気持ちの整理が追いつかない。

「佐々木」

 中瀬さんが重い口を開く。

「すみません……」

 同じ言葉を繰り返すしかできない私に、誰も、何も言わなかった。
 ミーティングが終わったあと、各々報告書をまとめるためデスクに向かう。
 未だもやがかかったままの頭を、なんとか働かせようと深呼吸。
 ――切り替えろ、わたし。

「佐々木、いいか」
「――……はい」

 気合を入れ直したところで、中瀬さんから声をかけられた。
 ついてくるよう促され、中瀬さんの背中を追って課を後にする。
 しばらく歩いて、ついたのは二十階の共有スペースだった。
 給湯室の脇に並ぶ自販機の前で、中瀬さんが止まる。

「……なにか飲みたいのは?」
「え」

 思いがけない質問に、思わず口が開いた。
 めちゃくちゃなアホ面を晒していることに気づいて、慌てて「あ、じゃあ紅茶を……」とごまかす。
 中瀬さんは気づいているのかいないのか、頷いてボタンを押した。

「はい」
「……ありがとうございます」

 中瀬さんから受け取ったペットボトルはあったかい。
 四月も下旬とはいえ、夕方や夜は冷える。
 さらっとこういった気遣いができるあたり、やっぱり完璧だ。
 さっきよりずっと落ち着いた気持ちで、中瀬さんの背中を眺める。
 中瀬さんはブラックコーヒーを買っていた。

「……さっきの事件のことだけど」

 共有スペースに備え付けてあるソファーに少し間を開けつつ並んで座ると、中瀬さんが躊躇いがちに口を開いた。
 なんとなく予想していたので、何も言わず耳を傾ける。

「事件が途中でウチの管轄じゃなくなることは、ざらにある」
「はい」

 中瀬さんは前を向いたまま、言葉を続けた。
 
「悪魔の仕業なら無実になることも、刑が軽くなることもある。だから、それを狙ってわざと現場を凄惨なものにすることも――……多い」
「……はい」

 ぎゅ、と握りしめたペットボトルが熱い。
 冷えた指先がジンと痛くなる。

「そういう事件はまずウチにまわってくるし、佐々木だけを担当から外すことはできない」
「……」

 わかっている。
 捜査企画課の職務や請け負ってきた事件は、配属された最初の一週間で資料として何度も読み込んだ。

「けど、怖いことを怖いと言うのは、弱さじゃない」

 中瀬さんがこちらを向く気配がした。
 それに気づかないふりをして、目線を紅茶に落とす。

「佐々木はよく頑張ってる。それはいつもの業務態度や書類の出来を見てればわかるよ」

 どこまでも優しい中瀬さんの声が、耳に、心臓に響く。
 優しさにこのまま甘えて、泣き言をこぼしてしまいたい。
 
(けど――……)

 それじゃあ、ずっと『新人』のままだ。

「私の、覚悟が足りませんでした」

 意を決して中瀬さんの方を向く。
 驚いた瞳が私を映した。

「資料として読むのと、実際に事件に携わることは違うのに、甘えてました」

 そうだ。
 憧れの配属先に配属になったことを、心のどこかで浮かれてたんだ。
 資料を読んで、私もいつか、と他人事のように思ってた。
 
(全部、私に覚悟が足りなかったから)

 それがわかっただけでも、今回は成長だ。

「中瀬さん、申し訳ありませんでした」

 紅茶を握りしめたまま頭を下げる。
 頭上で中瀬さんが息を漏らした。

「……佐々木は……」

 言いかけて止まる。
 言葉の続きが気になって首を傾げると、中瀬さんは「いや」と缶コーヒーに口をつけた。
 缶コーヒーでここまで様になるんだから、ずるい。

「恥ずかしい話、俺も課長としては一年目だから、試行錯誤してるんだ」

 弱音なのか、世間話なのか。
 判断できないまま、思ったことを返す。

「中瀬さん、めちゃくちゃ頼りになりますよ」
「ハハ。直接そう言ってもらえると、結構嬉しいもんだな」

 気の抜けた、柔らかい笑顔。
 普段も笑わないわけじゃないけれど、こう、肩の力が抜けたような笑顔は初めて見た。
 きゅうっとなった心臓を誤魔化すようにペットボトルを小さく呷る。
 
「だって、中瀬さん課長職もう何年もやってると思ってましたもん」

 いつか皆で話した内容を中瀬さんに伝えると、なんともいえない表情が返ってきた。

「何年も……って、佐々木から俺は何歳に見られてるんだか……」
「あっ、ちが! そういう意味ではなく!」

 いつぞやと同じ失態に背筋が凍る。
 慌ててさらに失言を重ねるのだけは避けなくては。

「中瀬さん隙がないというか! あまりにも完璧なので!」

 力説すると、中瀬さんの表情が困った。
 ――……あ、れ。
 
「そうか」

 笑うわけでも、怒るわけでもなく、淡々と返されて拍子抜けする。
 なにか、大きな壁を作られたような――……。

「じ、実際のところ、中瀬さんていくつなんですか?」

 空気を変えるように訊く。
 傾いた缶コーヒーに照明の光が反射して、眩しい。

「今年で三十一だよ」
「さんじゅういち……」

 ともすると、私の七個上?
 とても三十代には見えない容姿だ。

「年齢の話は置いておいて……」

 空になったらしい缶コーヒーを、中瀬さんが立ち上がってゴミ箱に捨てる。
 飲み終わっていない紅茶を両手で握りしめて、慌てて後を追った。

「一課には慣れた?」

 戻る足で訊かれて、ちょっと悩む。

「メンバーに、という意味だったら、多分」
「ハハ。まあたしかに。普段の様子を見てればわかるよ」

 普段の様子って……。
 須和さんや西浦さんのいじりに対して噛み付いてるところだろうか。
 そうだとするとちょっと複雑だ。

「須和もだけど、西浦も、いい意味で佐々木のこと気に入ってるみたいだから」
「……新しいおもちゃか何かだと思われてそうですけど」

 正直な気持ちを伝えると、中瀬さんが考えるように一瞬間を置く。

「……たしかに」
「えっ、否定するとこじゃないんですか!」

 中瀬さんにまで肯定されると居た堪れない。
 ショックを受けていると、頭ひとつ分上から小さく笑い声が降ってきた。

「……中瀬さん」
「ハハ、ごめん。……諏訪や西浦の気持ちがちょっとわかるな」

 珍しすぎる少し悪戯っぽい顔――……に気を取られ、気づくと課に戻ってきていた。

「おかえりなさーい。菜々ちゃんお仕事溜まってるよー」

 帰るや否や、普段と変わらない調子で諏訪さんが声をかけてくる。
 それがあったかくて、ありがたい。

「……諏訪さん」
「え、なに」
「これ、どう考えても十数分とかで貯まる量じゃないんですけど……」
「もう五月になるんだし、新人期間は終わりでしょ」

 前言撤回だ。
 やっぱり諏訪さんは優しくない。

「余計なこと考えないように、たくさん書類まとめるといいよ。俺の分も」
「鬼! 自分の分は自分でやってください!」
「そんなこと言ったって。菜々ちゃん現状、俺の仕事のお手伝い枠じゃん」
「な――……それは、そうですけど」

 事実なだけに言い返せないのが悔しい。
 ぎりぎりしていると、松田さんが笑った。

「落ち込み時間は終わったんだね」
「う……はい。おかげさまで」
「そりゃよかった」

 これ。これが本当の優しさだ。
 さらっと聞いて、さらっと流すあたり、さすが松田さんというべきか。
 程よい距離感が心地いい。

「もう少し大人しくしてれば可愛いのにな」
「……西浦さんはまたセクハラですか」
「……おまえ」

 この後に及んでまだセクハラ気味の発言をする西浦さんを睨む。
 向こうも睨み返してきたが、負けられない。
 
「ハハ、仲良いのはわかったから。はやく書類仕上げないと、休日出勤になるぞ」

 中瀬さんが爽やかな笑顔で、きつい一言。
 休日出勤。
 これ以上ない嫌な響きに、各々黙って書類に向かい始める。

(……さすが中瀬さんだなあ)

 課員のツボを押さえているというか。
 とても課長一年目には思えない手腕に敬服しつつ、目の前の書類の山を崩しにかかった。