「あれ、佐々木だけか」
昼休み。
ちょっと席を外したわずかな時間に、先輩方はみんな居なくなっていた。
ランチにでも行ったんだろう。
誘ってくれてもいいのに、と少し不貞腐れた気持ちでコンビニへ行こうと立ち上がったそのとき。
会議を終えた中瀬さんが課に帰ってきた。
「中瀬さんおかえりなさい」
「うん、ただいま」
うわ。今のやりとりファンとしてはめちゃくちゃアツい――……。
いやだから、上司に向かってファンって。
「みんなは?」
「ちょっと席外してる間に消えてました。ランチにでも行ったんだと思いますけど……」
薄情者たちめ。
心の中で悪態をついてから、中瀬さんの方を見る。
「私今からコンビニ行きますけど、中瀬さん何か要りますか? ついでに買ってきますよ」
最近はたまに時間が合えば先輩たちとランチに行くこともあるので、前みたいに朝コンビニに寄ることが減った。
今日も然り、である。
「そうだな……」
考え込む中瀬さんを待つ。
……中瀬さんって何食べるんだろ。
この一ヶ月、昼休みも会議だったり、本部に赴いていたりと、ゆっくり休憩してるところを見たことがない。
食事しているイメージが湧かずにいると、ようやく中瀬さんが言葉を続けた。
「佐々木さえ良ければ、外に食べに行こうか」
思いがけない誘いにフリーズ。
それは、と意味を理解して――……
「行きます行きます! 喜んでお供させていただきます……!」
「ハハ。そんなに喜んでも、普通の店にしか行かないよ」
「中瀬さんとランチっていうレア度に喜んでるので、お店はなんでも大丈夫です!」
「そうか」
中瀬さんが忍ぶように笑う。
うわー、うわー。
先輩方置いて行ってくれてありがとう。
(でもって、私もう完全にファンの喜び方してるし……)
何はともあれ、中瀬さんとランチだ。
「それじゃあ時間も限られてるし、行こう」
「はい!」
外は快晴。
花びらを落としきった桜が緑を茂らせる、さわやかな季節。
心地よい風と、隣にイケメン上司。
こんな良い日は人生でそうない。
「上機嫌だね」
「そりゃもう。初めてですもん、中瀬さんとランチ」
「ああ――……他のメンバーとは何回か行ってるんだっけ」
「はい。四人揃ってはなかなか無いですけど、何人かで」
他愛ない話をしながら中瀬さんについて行くと、大通りを二本奥へ進んだ先、人通りの少ないそこにたどり着いた。
老舗、とでもいうべきか。
都心部ではあまり見ない深いブラウンの小さなお店。
オシャレなカフェという感じではないが、落ち着いた雰囲気が感じ取れる。
「ほら、佐々木」
外観をぼーっと眺めていると、中瀬さんがさりげなくドアを開け、レディーファースト。
この動作が嫌味にならずここまで様になる人、初めて見た。
「すみません、ありがとうございます」
疼くファン心を抑えて、お礼を言いつつ中に入ると、ふわりと香る木の匂い。
それと。
「ハヤシライス……?」
思わず呟いた言葉に後から入ってきた中瀬さんが楽しそうに頷いた。
「正解。美味しいんだ、ここのハヤシライス」
カウンター席がいくつかと、テーブル席は全部で四つ。
そこまで広くない店内だが、それが逆に心地よく感じる。
カウンター席はほぼ埋まっていて、おそらく常連客なのだろう、皆思い思いに時間を過ごしていた。
「佐々木、こっち」
中瀬さんに手招きされて、テーブル席の一つに腰をかける。
ちゃっかりソファー席の方に座らせられて、その手際の良さにまた一つため息が出た。
(こういうエスコートも完璧って……)
中瀬さんの欠点はどこにあるんだろう。
神様に愛されすぎな上司と机を挟んで向かい合うと、いつもと違う雰囲気に少し緊張する。
「何食べる?」
「あ、そうですね……」
差し出されたメニューを受け取る。
シンプルな手書きのメニューに、お店の温かさを感じた。
控えめにハヤシライスの上にマスターおすすめと書いてあるのが可愛らしい。
「ハヤシライス……にします」
「わかった」
中瀬さんが頷いて手を挙げ、慣れた様子でウェイターを呼び注文を終えた。
「すみません、注文してもらっちゃって」
「ハハ。前から思ってたけど、佐々木は気にしすぎるところがあるな」
なんとなく真っ直ぐ中瀬さんを見れず、趣味のいいグラスに注がれた水を眺める。
「他のやつら見てれば分かると思うけど、堅苦しい上下関係とかないから、気楽にしてくれればいいよ」
「……ちょっとその三人を参考にするのは」
個性豊かな三人を思い出し、苦笑。
それに、なんだかんだで三人とも中瀬さんには敬意をもって接している。
「私はまだ実力もないですし、せめて他のところではしっかりしてたいと言いますか」
「……そうか」
……今の『そうか』はあんまり納得してなさそうだったな。
と、いつのまにかグラスから視線を上げて中瀬さんを見てたことに気づく。
ごまかすように、口を尖らせて拗ねたふりをした。
「今、他のところでもあんまりしっかりしてない、って思いました?」
「……どうかな」
また、少し悪戯っぽい顔だ。
課にいるときは大人で完璧超人な中瀬さんだけど、二人で話す時は、たまに少しだけ意地悪になる。
それが、すごく心臓に悪い。
「このあいだ給湯室でコーヒー溢してるのを見たし――……、重ねてた書類を思い切り床にぶちまけてるのも見たから」
「えっ、それ見てたんですか!」
誰もいないと思ったのに……。
「急いでたから助けてやれなくて悪かったよ」
「そ、それは別にいいです……」
思いがけない暴露に、羞恥で顔が熱くなる。
隠すように両手で覆うと、中瀬さんの方から小さい笑い声が聞こえた。
「……中瀬さんって、実は意地悪ですよね」
苦し紛れに恨みをこぼす。
「ハハ」
否定も肯定もせずに中瀬さんが笑った。
余裕綽々なその反応に悔しがっていると、先ほどのウエイターが料理を運んでくる。
テーブルの上に置かれたハヤシライスは、きらきらして見えた。
「おいしそう……!」
「っ、ふ」
思わず声が漏れる。
それを、中瀬さんが耐えきれないというように小さく吹き出した。
「……なんですか」
なにもしていないのに笑われた。
意識してジト目で中瀬さんを見る。
「いや……表情が素直だなって」
言いつつ、おかしそうに口を押さえて笑う。
屈託のない笑顔を見るのは、二回目だ。
こうして笑ってるところを見ると、とても三十代には見えない。
(童顔なんだ……)
新発見に胸がしびれる。
「ほら、冷めないうちに食べよう」
「はーい」
少し早足になった心臓を誤魔化すように、スプーンを手に取った。
◇ ◇ ◇ ◇
「中瀬さん、ごちそうさまでした……!」
「ああ」
「ほんと、びっくりするくらい美味しかったです!」
「それはよかった」
お会計で小さく一悶着あったが、「新人に財布出してもらうほど薄給じゃないよ」と言われて、大人しく甘えた。
兎にも角にも。
「今まで食べたハヤシライスの中でダントツの一番です!」
「ハハ。そんなに喜んでもらえると連れてきた甲斐があったな」
いつも通りと同じように小さく笑った中瀬さんが歩き出す。
あわててその背中を追った。
「それにしても、中瀬さんって見かけによらず大食いですね」
「そ……見た目は関係ないだろう」
あ。ちょっと拗ねた?
分かりにくい人ではあるけれど、この一ヶ月でなんとなく中瀬さんの感情が出るタイミングが分かってきた気がする。
「ハヤシライス大盛りに、ライスおかわりして、デザートもつけましたよね」
「……佐々木もデザートは食べてたじゃないか」
「いやいや、私のハヤシライスは大盛りでもないですし、おかわりもしてませんよ」
気持ちいいほどのペースでぺろりと平らげられた品々を思い出す。
デザートは確かに私も食べたけれど。
「……なんならこの後コンビニに寄ろうと思ってたんだ」
「え? ああ、飲み物とかですか?」
中瀬さんの顔が気まずそうに歪む。
あれ、私何か変なこと言ったかな……。
「いや……、なにか甘いものか、おにぎりでも買おうかと……」
「え……」
唖然とした私から逃げるように、中瀬さんの歩くスピードが上がる。
「っ、あはは!」
「佐々木」
耐えられず笑うと、少し先にいた中瀬さんが振り返った。
その顔はいつもより苦い。
「す、すみません、あはは、でも、ふふ……」
なんとか抑えて横に並ぶ。
中瀬さんの顔はまだ戻らない。
「中瀬さんが食事してるところ、職場で見たことなかったので、食に興味ないんだと思ってました」
正直に打ち明けると、中瀬さんがようやく普段と同じように、眉を下げて頬を緩めた。
「たしかに仕事中は食べる暇がないことが多いから……積極的に摂ろうとは思わないな」
「でも?」
勝手に続きを促す。
「ハハ。でも、食べるとなったら食べるよ」
「みたいですね。意外でした」
今日は新しい発見ばかりだ。
なんとなく満たされた気持ちになり、戻る足取りが軽い。
現金なもので、ここ最近で一番午後の仕事を頑張れそうな予感がした。
◇ ◇ ◇ ◇
「錦糸町にある地下倉庫で集会が行われるという情報が入った」
課長級の会議から戻った中瀬さんが、一課の面々に重く告げた。
集会、ということは。
「一斉摘発か……」
西浦さんがつぶやく。
「ああ。この件に関しては一課だけじゃなく、三課と合同で捜査・検挙を行うことになった」
三課――……同期でいうと橘くんが配属している課だ。
結局何回かエレベーターや廊下ですれ違った程度で、ちゃんと話をした記憶がない。
「基本的には捕縛を主体として、やむを得ない場合のみ発砲」
中瀬さんが淡々と伝える情報を、必死にメモする。
捕縛するには銀の手錠を悪魔に――つまり、悪魔に銀の手錠をかけなければいけない、ということだ。
体格のこともあって、あまり体術には自信がないけれど、甘えたことは言ってられない。
「規模は多く見積もって十。突入は一課、裏口や逃げ口に三課が配置される」
「……じゃあ単純計算で一人二体ですね」
松田さんの言葉にどきりとする。
二体も仕留める想像がどうしてもできない。
悪魔は男性的なことが多く、女性取締官とはどうしても筋力差や体格差が出やすい――……というのは研修で習った内容だ。
「一人三体の気持ちでいてくれ。タレコミによると、相手は人間に扮した低級の悪魔たちだ」
「了解」
「それと、今回は事前に悪魔の霊体化と本形化を防ぐ結界を張る。抵抗された場合は腕力勝負になると思うが――……」
霊体化や本形化を防ぐということは、悪魔が人間に扮した人間化のまま捕縛するという意味だが――……いけるかな。
なんか武術習っておけばよかった。
いや、今からでも……。
「佐々木」
「ひゃい!」
急に名前を呼ばれて、声がひくつく。
諏訪さんが視界の端で笑うのが見えた。
「……佐々木は確保を目標にせず、逃げる奴らの方向を三課に伝えることを主としてくれ」
「はい」
思いがけない指示に、安堵したような納得いかないような気持ちになる。
(体格差だけはどうにもならないし……)
ふと目に入った自分の手は、他のメンバーと比べてひとまわり以上小さい。
せめて、身長があと五センチでもあれば私も確保に回ったのだろうか。
(いかんいかん。与えられた仕事を全うするのが一番)
自分が体躯に恵まれなかったのは、もうずっと前からわかっている。
今更どうしようもない部分だ。
「突入は水曜二十時。場所は――……」
中瀬さんが最後に時間と場所を告げて、簡易会議は終了となった。
張り詰めた空気が緩み、思わず息が漏れる。
それをめざとく見つけたのは、須和さんだ。
「緊張してる?」
「……はい」
ニヤニヤ顔に噛みついても良かったが、強がっても仕方ない。
素直に伝えると、諏訪さんは思いがけず真面目な表情になった。
「それが素直に言えるなら大丈夫」
その言葉が以前中瀬さんから言われたものと重なる。
――『怖いことを怖いと言うのは、弱さじゃない』
(うん。大丈夫。あのときより少しだけ、成長してる)
小さく息を吸って、吐く。
それだけで、視界がクリアになった。
大丈夫。
やることをやるだけ。
「菜々ちゃんの分は拓真さんがきっちり確保してくれるから」
「おい。……まあ、捕獲するけどな」
もとのチェシャ猫顔でさらっとなすりつけ、西浦さんがそれに眉を寄せた。
ここで言い切れる当たり、一課のエースを自称しているだけある。
「西浦さんが初めてカッコよく見えました」
「おまえ……俺はいつもカッコいいだろ」
「え」
「シメるぞ、ガキ」
今度はパワハラ……、とは言わずにおく。
頼れる素敵な先輩だ。
こうして軽口に乗ってくれるのも、私の緊張を解こうとしてだろう。
「今回は、集会における一斉摘発の方法とかを実際見てみよう、っていうことだろうから」
松田さんが柔らかい笑顔でこちらを見た。
「集会……って悪魔法違反なんですよね」
「そう。『現世に於いて、悪魔三体以上の集合を禁ずる』っていう項目だな」
新人研修時代に何度も学んだ悪魔に関する法律――悪魔法。
取締官はこの法律に違反する悪魔を取り締まるのが役目だ。
「今回みたいにタレコミがあるケースはレアだし、なかなか珍しい現場ではあるけど、経験としてはおいしいと思うよ」
「はい!」
「ははっ、いい返事」
気合は十分。
初めて悪魔と対峙する。
そのときは近い――……
◇ ◇ ◇ ◇
「総員、配置についたか」
「西浦松田OKです」
「諏訪佐々木もOKです」
「三課A班完了です」
「三課Bも同じく完了です」
「よし。では、突入まで十、九――……」
無線から聞こえる中瀬さんの落ち着いた声に耳をすます。
隣で諏訪さんが腰の銃を抜いた。
心臓が大きく跳ねる。
いよいよ、だ。
「――三、二、」
一。
走り出した諏訪さんの後に続く。
「関東悪魔取締本部だ。両手を挙げて、その場から動くな」
中瀬さんの低い声が辺りに響いた。
銃を構えつつ、部屋にいる人――もとい悪魔を囲む。
ざっと数えて八人。
今のところ抵抗する様子はない。
大きな抵抗が見られなかった場合の手筈通り、西浦さんと諏訪さんが銃を下ろし、銀の手錠を取り出す。
他の三人は威嚇のために銃を向けたままだ。
「くそっ」
「はいはい、くそだねー」
抵抗らしい抵抗は手錠をかけられたときの罵声くらいで、大したものじゃない。
(よかった、何事もなく終わりそう――……)
とはいえまだ全員確保したわけではないので、気は緩めず銃を握りなおす。
すると、諏訪さんと西浦さんの間。二人の手が届かない場所にいる男と目があった。
まだ、手錠はかけられていない。
「――……っ!」
嫌な予感を察知するよりも早く、男がこちらに勢いよく突っ込んでくる。
大柄な男だ。
(避ける、避けない、どうする――……)
避けても出入り口は三課が押さえている。
正面からぶつかれば、私なんか軽く吹っ飛ぶだろう。
(でも――)
私にだって確保できるかもしれない。
視界の端で、諏訪さんがこちらに向かって走り出すのが見えた。
「どけクソアマぁ!」
「佐々木!」
中瀬さんの呼ぶ声が耳に入ると同時に、足を一歩開き、丹田に力を入れる。
やや横を向いて、肘を突き出す――
「ぐ!」
衝撃。鈍痛。反転。鈍痛。
「佐々木!」
「確保!」
痛みを耐えて頭を上げる。
少し離れた場所で、諏訪さんが男を締め上げて手錠をかけているのが見えた。
「全員確保完了です」
須和さんが手錠をかけ終えると、西浦さんが中瀬さんに向かって言い放つ。
どうやら最後の一人だったらしい。
「あ……」
ここでようやく息を吐く。
瞬間、節々に痛みが走った。
(痛……いけど、打撲だけっぽいな)
さっと重傷ではないことを自己判断し、立ち上がる。
周りを見ると、中瀬さんが外にいる三課を呼び、確保した悪魔たちを連れ出していくところだった。
痛む体を気にしないようにしながら、それに加わる――……のを中瀬さんに止められた。
「佐々木、怪我は」
「大丈夫です。肘とかが少し痛いくらいで」
大したことじゃないのを伝えたくて、へらっと笑って見せる。
しかし、中瀬さんの顔は厳しいままだ。
「……説教はあとにしようか」
「え」
「車に応急処置の道具があるから、必要な処置をしておいで」
少し表情を和らげて、中瀬さんが背中を軽く押す。
「橘、佐々木のこと頼んでもいいか」
「はい」
近場にいた橘くんが中瀬さんに呼ばれて早足でこちらに寄ってきた。
「佐々木さん、行こう」
「……うん」
橘くんの笑顔が胸に痛い。
あらゆる方面へ申し訳ない気持ちを抱えたまま、橘くんとともに倉庫を後にした。
「……すごいな」
「……ね」
中瀬さんから預かった車のキーで車内に入り、袖を捲って打ち付けた場所を見る。
床に打ち付けた膝や、肩、腕……とにかく至る所が赤くなったり、擦り傷になっていたりしていた。
「他人事だなあ。痛くないの?」
「痛いけど……、見た目ほどじゃないかな」
橘くんが消毒液を擦れた頬に流す。
ぴりっと沁みる感覚に、思わず目を閉じた。
「痕にはならないだろうけど」
傷がまるごと隠れる大きい絆創膏が頬に貼られる。
次いで、肘や膝。
右腕は範囲が広かったので、ガーゼと包帯で巻かれた。
「右から転んだ?」
「正解。吹き飛ばされて、右からいった」
処置をし終えて、橘くんが苦い顔をした。
「佐々木さんのこと、桐野からかるーく聞いてたけどさ……」
「え、キリから?」
「そう。危なかっしいやつだって」
納得いかない評価に眉がよる。
「まじで危なかっしいね」
「……橘くんまで」
「心配になる桐野の気持ちがわかったよ」
「ええ……」
ぼやきつつ、腕を動かしてみた。
思っていたより痛みは治っている。
(うん。これなら動ける)
少なくとも日常生活には支障ないだろう。
ぐるぐる腕を回していると、窓ガラスをノックする音が聞こえた。
「――……あ」
中瀬さんだ。
確認して、橘くんがドアを開けて外に出る。
一言二言交わしたあと、中瀬さんが運転席に乗った。
「怪我は?」
「あ、はい。打撲と擦り傷だけです」
「そうか」
狭い車内を移動して助手席に落ち着く。
ゆっくりと車が動き出した。
行きも帰りも上司に運転させてしまって、申し訳ない。
とはいえペーパードライバーの私が運転して、事故を起こしても事だ。
窓の外を見ると、いつもと何も変わらない日常が流れていく。
不意に、中瀬さんが重たい口を開いた。
「……相手が佐々木の方に向かってきているのには気づいてたな」
「……はい」
ぎゅ、とスーツのパンツを握りしめる。
中瀬さんの顔は見れない。
「体格差があることもわかってたな?」
「……はい」
大柄な男性なのは、見た瞬間にわかった。
ぶつかったら押し負けることも。
「……なんで避けなかった?」
静かに、感情の読めない声が訊く。
「少しでも確保できる確率があるなら……と」
「……そうか」
理解はしたが、納得はしてない口調だ。
少しの沈黙の後、中瀬さんが小さく息を吐いて、言葉を繋げた。
「勇敢と、無謀は違う」
「……はい」
「相手が武器を何も持ってない保証なんてどこにもないんだ」
正論だ。
正しく私の胸に刺さる。
腕なんかより、ずっと痛い。
「すみませんでした……」
中瀬さんの言う通りだ。
もし、相手が刃物を持っていたら、私は今ここにいない。
不甲斐なさに目の奥がツンとなる。
「佐々木にできないことがあるように、逆に佐々木にしかできないこともある」
ふっと、張り詰めた空気が柔らかくなった。
信号は赤。
中瀬さんがこちらを向く気配がした。
「それを見込んで、ウチの課に入れたんだ」
黒目がちの瞳と視線がぶつかる。
口元が優しく緩められた。
「新人は失敗するのが仕事だが――……、自分の体は大事にな」
「……はい」
ぱっと信号が青に変わり、丁寧な運転で車が再び走り出す。
(……泣かない)
油断すればこぼれそうな涙を、唇を噛んで必死に耐える。
長くも短くもない帰り道、中瀬さんは察してか、何も言わないでいてくれた。