Story-06

 同期会の後、いろいろ考えつつも、後方支援気味な日々が続いて、季節はいつのまにか梅雨入りを果たした。
 気分の落ち込みやすい梅雨時期は、悪魔にとって絶好の行動チャンスであり、悪魔取締本部でも繁忙期と呼ばれる季節だ。
 連日の張り込み、潜入、確保、報告書、報告書、捜査――……と一課も例外なく多忙を極めている。

「――……諏訪がダウンした」

 中瀬さんが困ったように朝礼で告げた言葉に、目を剥く。
 持っていたカバンを落としてしまった。

「諏訪さん、風邪とか引くんですね……」
「お前は葵をなんだと思ってんだ」
「いや……諏訪さんには悪魔とか風邪菌とか寄らなそうじゃないですか」

 散らばったものを拾いつつ、呆れ気味の西浦さんに返すと、松田さんが苦笑気味になった。

「まあ確かに。初めてじゃないですか? 諏訪が体調不良で休むの」
「連日残業と早出だったからな……」

 それは――その通りだ。
 文句言いつつ、書類を昨日も遅くまで処理していたのは知っている。
 西浦さんの言葉を継いで、中瀬さんが三人を見渡した。

「みんなも体調管理には気をつけて、くれぐれも無理はしないように」
「……中瀬さんこそ、ですよ」

 課のメンバーが思っているであろうことを代表して言う。
 今回ばかりは、西浦さんも怒らなかった。
 誰よりも早く出勤して、誰より遅くまで残業しているのは、誰でもない中瀬さんだ。

「ああ……俺は大丈夫だよ」

 相変わらず眉を下げて笑う顔に疲れは見えない――が。
 中瀬さんだって人間だ。
 疲れは溜まるし、風邪だって引く。

「それで、今日の突入になんだが」

 さらに食ってかかろうとしたのを、中瀬さんがあっさり話題を変える。
 
「……佐々木、諏訪の場所につけるか」
「……はい!」

 後方支援ではない、前線。
 五月の一斉摘発以来の、最前線。
 心臓がどくんと脈打った。

「よし、あとで意識合わせをしよう。西浦と松田は前も言った通り――……」

 的確に指示が飛んでいく中、みんなから見えない位置で小さく拳を握る。
 同じ轍は踏まない。
 私には、私の闘い方がある。
 
「佐々木」

 指示を終えた中瀬さんが手招きで呼んだ。
 呼ばれて向かった中瀬さんのデスクに広がるのは、今回の突入先の間取り図。

「本来、佐々木はビルの入り口を固める手筈だったが、諏訪が担当予定だった確保側に回ってもらう」
「はい」

 メモを取りながら、聞き漏らしがないよう耳を傾ける。

「――……いけるか」

 一通り説明を終えた中瀬さんが、不意にまっすぐこちらを見た。
 
「はい。いけます」

 もう二度と同じミスはしない。
 業務の合間を縫って、祓魔機関の貸し道場で練習もした。
 付き合ってくれたキリと橘くんに報いるためにも。
 
「任せてください」

 強い意志で宣言する。
 中瀬さんの目元がふと和らいだ。

「頼もしいな」

 一瞬で、もとの真面目な顔に戻る。

「……無理はするなよ」
「はい!」

 成長した気になっていたあの時とは違う。
 今度こそ、大丈夫だ。
 『負けない戦』をする。
 どんどんと鳴る心臓に、深呼吸。
 突入まで、あと八時間――……。


◇ ◇ ◇ ◇


 十八時五十五分、とある雑居ビルにて――。
 今回確保の対象になる悪魔は一体。
 最近都内を中心に起きている連続婦女誘拐事件の容疑者だ。
 現場に残された痕跡から悪魔の仕業と断定、悪魔取締本部が捜査を引き受けた。
 さらに痕跡から容疑者特定。
 張り込み捜査で、容疑者が寝泊まりしている雑居ビルを確認した。
 しかし、被害者の安否は不明。
 最悪の事態も想定して、裏口に救急隊員も控えている、が。
 ――……今回も一課のみでの突入だ。
 
「総員突入準備」

 中瀬さんの言葉が静かに耳に入る。
 ビルの五階。
 部屋に窓はない。
 出入り口は一つ。
 悪魔は人間化しているのか、本来の姿のままなのか、それとも憑依しているのか。
 直前の確認では一般人に憑依しているとされていたけれど。
 無駄に饒舌になる思考を振り払う。

「……五」

 扉の前で、声なく、指でカウントする。
 中瀬さんの長い指が一を作り――……

「関東悪魔取締本部だ。手を挙げて――」

 西浦さんが扉を開け、中瀬さんが素早く室内に足を踏み入れた。
 その声が不自然に止まる。

「中瀬さん!」
「っ……松田!」

 銃を構える中瀬さんにぶつかる影。
 次いで突入した松田さんがすばやく室内を通観した。
 松田さんと西浦さんの背中越しに見えた室内には、五人の女性。
 中瀬さんにぶつかったのも女性で――……容疑者がいない。

「どこに……」

 つぶやいた瞬間、背後から人の気配。
 
「佐々木!」

 西浦さんが叫ぶより早く、身を屈める。
 間一髪、頭上を手が掠めた。
 低姿勢のまま振り向くと、そこに探していたヤツはいた。

「チッ、すばしっこい……」

 忌々しげな舌打ちと共に、再び伸びる手。
 事前の確認通り、一般人に憑依したままだ。
 銃は使えない。
 判断して、横に転がる。

「動くな……」

 地に這うような声で男が唸った。
 視線を部屋に向けると、被害者であるだろう女性たちが中瀬さん松田さんを抑えている。
 いくら女性とはいえ、全部で六人。
 被害者なので手荒にするわけにはいかない――となれば応援は望めない。

(どうする)

 唯一手の空いてる西浦さんが反対側の通路を塞いで、男の隙を窺っている。
 距離は、私の方が近い。
 膝から伝わる床の冷たさが、冷静にさせる。
 
「動くな……」

 同じ言葉を繰り返す男の手が眼前に迫った。
 西浦さんもそこにいる――大丈夫だ。
 練習もした。
 怖くない――!
 伸ばされた手を両手で掴み、こちらに思い切り引き寄せる。

「なっ」

 予想外だったのか、男は簡単にバランスを崩し、そのまま床に落ちた。
 ギリギリのところで押しつぶされそうになるのを避け――……

「西浦さん!」
「ああ、任せろ!」

 言うが早いか。
 床に突っ伏す形になった男に馬乗りになった西浦さんが、素早くその手に手錠をかける。

「確保!」

 凛とした声が現場に響く。
 安堵する前に、中瀬さんと松田さんの方に視線を投げて確認。
 
「こっちは大丈夫だ」 

 落ち着いた中瀬さんの一言でようやく息が吐けた。
 銀の手錠をかけられたことでかけられていた術が無力化されたらしい。
 被害者の女性たちは正気を取り戻し、呆然としている。
 誰一人、怪我はしていなそうだ。

「お前はいつまで床に座り込んでるんだよ」

 容疑者を立たせつつ、西浦さんが呆れた声で私を見下ろした。

「ぐ……そんなに長時間座ってませんけど」

 ムッとしつつ足に力を入れる――と自分の手足が震えていることに気がつく。
 
(うわ、情けな……)

 先輩方に見られているのに。
 被害者の前なのに。
 意識すればするほど震えてしまう。
 立てないでいると、頭上に影が落ちた。

「……佐々木」

 優しい声に顔を上げる。
 中瀬さんが大きな手をこちらに向けていた。
 
「……すみません」

 その手に甘えて立ち上がるのは二度目だ。
 恥ずかしさと申し訳なさで俯いてしまう。

「怪我はないね」

 確認する声に頷く。
 「よかった」と私にしか聞こえない音量でこぼれた呟きに、ぎゅと心臓が痛んだ。

「松田、佐々木、被害者の移送頼めるか」
「はい」
「西浦と俺で容疑者を連行する」
「はい」

 指示を聞きながら、震えを落ち着かせるように息を深く吐き出す。
 掴まっていた手を離す一瞬、中瀬さんがわずかにそこに力を込めた。

(――……え)

 ほんの一瞬の出来事で、他の誰も気づかれることなく手は離れた。
 けれど。
 握られていた手が、熱い。
 離れるのを惜しむような、――というのはやっぱり自意識過剰だろう。
 
(震えを落ち着かせようとしてくれただけ、だよね)

 中瀬さんを盗み見ると、普段と何も変わる様子なく西浦さんと並んでいる。
 残念なような安心したような不思議な心地で、指示通り松田さんの隣に向かった。

 ――……六人の被害女性は目立った外傷は何もなく。
 大事をとって病院へ運ばれたのを見送り、先に課へ戻った二人を追うように松田さんと車に乗った。
 運転は申し訳ないながら、松田さん頼みだ。

「佐々木、無茶するね」
「え、無茶でした?」

 信号待ちの時間に、松田さんが苦笑いと共にこぼす。
 
「あー、無茶っていうか、心配になるっていうのが大きいな」

 前を向いたまま松田さんがさらりと告げた。
 心配、かけたのだろうか。
 前回の失敗は活かしたつもりだ。
 最後まで相手から目を逸らさないこと、周りを見ること、自分をちゃんと大切にすること、負けない戦をすること――……。

「今回は怪我しませんでした……し、ちゃんと相手のことも周りも見えてた、と思います……?」
「ああ、うん。それはもちろん。かっこよかったよ」

 おそるおそる口にした自己評価を、驚くほどあっさり松田さんは認めた。

「ごめん、佐々木は悪くないし、この二ヶ月半の成長は贔屓目なしですごい」

 言葉に詰まる。
 松田さんからの賛辞が単純に嬉しい。

「けど、やっぱり心配なんだよ」

 信号が青になり、車がゆっくり発信する。
 中瀬さんも松田さんも運転が丁寧だ。

「俺だけじゃなくて一課全員、佐々木のことは可愛い妹分だと思ってるから」

 一瞬、松田さんの視線が柔らかく向いた。
 優しい声色に、一課の面々の顔が浮かぶ。
 口では皮肉を言う人もいるけれど、みんな新人のことをすごく気にかけてくれているのは、私自身よく気づいている。

「……うれしいです」

 素直な気持ちを伝えると、松田さんが少し悪戯っぽく笑った。

「まあ、お兄ちゃんって言われちゃったしな」
「うぐ……それは忘れてください」
「アハハ」

 いつぞやの失敗を持ち出されて下を向く。
 ついさっきまで緊迫した現場にいたのが信じられないような、何の取り止めもない会話をしながら、車は関東支局へと走った。


◇ ◇ ◇ ◇


「中瀬さん!」

 廊下を歩く背中を呼び止める。
 今日の報告書は明日でいいと言われ、遠慮なく退勤した――のが十五分前だ。
 恥ずかしいことに家の鍵を持っていないことに気づいたのは、駅に程近い場所で、そこから慌てて戻ってきて今に至る。
 もう一課の他のメンバーはさっさと帰路についているはずだ。
 ただ一人、まだ仕事をしている人の名前を口にすると、その背中がゆっくりと振り返った。

「……佐々木? どうした、忘れ物か?」

 給湯室からの帰り道だったのだろうか、手にはマグカップが握られている。

「はい……忘れ物しました」
「ハハ。そうか」

 軽く笑って中瀬さんが課のドアを開けた。
 後を追って部屋に入ると、昼間よりやや冷たく感じる空調。
 少し人がいないだけで、普段とこんなに違うんだ――……。

「佐々木?」

 ぼうっとドアの前で突っ立ったままの私を、中瀬さんが伺う。
 
「あ、すみません」

 小さく謝って、ドアを閉めた。
 早足で自分のデスクに近づき、めぼしい場所を探す――……あれ。

「……ない」

 突入時には持っていかなかったから、現場には落ちていない。
 今日の朝課に来た時はあったし、絶対どこかにあるはず。
 もう一度、今度は徹底して探す。

「見つかったか?」
「……見つからないですね」
「何を探してるんだ?」
「家の……鍵です」
「それは……思ったより重要だな」

 中瀬さんがパソコンを閉じ、立ち上がってこちらに寄ってきた。
 一緒に探してくれるらしい。申し訳ない。
 というか、普段カバンから出さないのに何でないんだろう。
 今日の行動を思い返して――……あ。

「朝、カバン落としてひっくり返した……」
「ああ……そういえば」

 中瀬さんも思い出したのか、納得したように頷いた。
 となると。

「デスク周りじゃなくて、床に落ちてる可能性が高そうですね」
「そうだな。手分けして探そう」

 ワイシャツの袖を捲りつつ、中瀬さんが提案する。
 ファン脳が湧きそうになるのを抑えて、頭を下げた。
 
「うう……お忙しいのに申し訳ないです……」
「いいよ、気分転換だ」

 上司として完璧すぎる返し。
 内心身悶える。
 
(もうファンでいいや……)

 頭の中で白旗を振ってファン宣言。
 という妄想を吹き飛ばして、床に膝をつく。
 誰にも指摘されなかったから、おそらく目立つところにはないだろう。
 となると、棚と棚の隙間とかに運悪く滑り込んだか。
 油断すると首をもたげる煩悩を払うように、床とにらめっこを決め込む――……。

「……見つからないですね」
 
 手分けして探すこと約十五分。
 一向に見つかる気配がなく、体を伸ばすために一度立ち上がった――……瞬間、部屋の電気が一気に消えた。

「っ!」

 急な暗闇に、息を呑む。
 
「……今日だったか」

 中瀬さんが小さくつぶやく。
 二人きりの部屋ではやけに大きく聞こえたその声に、「きょう、ですか?」首を傾げつつ訊いた。

「ああ。省エネの一環で一斉消灯を月に一回行ってるんだ」
「なるほど、省エネ……」
「今日は長く残る予定がなかったから、申請をしていなくて」

 なるほど……。
 暗闇に慣れてきた目で腕時計を確認する。
 時計は二十二時を指していた。

「……鍵を探すのは、難しいんじゃないか」
「……たしかに、そう、ですね……」

 中瀬さんが重たい口を開いた。
 同意しつつ、野宿、ホームレス――という言葉が脳を巡って、一つ思い当たる。

「あ、仮眠室。使ってもいいですか?」

 配属して早々、仮眠室を意図せぬ形で使ったのは記憶に新しい。
 とても居心地がいいとは言えないけれど、野宿よりずっとマシだ。
 ホテルという手もあるが、できれば無駄な出費は控えたい。

「……仮眠室も消灯対象なんだ」
「……徹底してますね」

 口角が引き攣る。
 家の鍵が見つかればそれに万事解決だが、この暗さで探せるものじゃない。
 
(ホテル探すしかないかぁ……)

 給料日前に痛い出費だなあ、とため息。
 しばらくの沈黙を経て、中瀬さんが「もし」と言葉を発した。

「佐々木さえ良ければ、うちにくるか」

 暗くて中瀬さんの表情は読み取れない。
 うちに、くるか――……反芻して、脳を回す。
 うち、に、くる、か……。

「ええ!」
「車で通勤してるからそう時間はかからないし、佐々木さえ良ければだけど」
「めっ、めっそうもな、いえ! これ以上ご迷惑をおかけするわけには!」

 一緒に鍵を探してもらって、さらにそこまでお世話になるわけにはいかない、と慌てて首を横に振る。
 というか、中瀬さんと一晩一緒は普通に心臓がもたない。

「私は野宿でも余裕ですので!」
「ハハ。野宿するなら余計連れて帰らないといけないな」

 明るく笑った中瀬さんに頭がくらくらする。
 
「泊まり道具はロッカーに置いてあるんだろう? ここにいても何だし、鍵は明日探すことにして」

 慌てる私と対照的に、中瀬さんは普段と同じ口調だ。
 
「一緒に帰ろう」

 月明かりに慣れた目が映した中瀬さんの顔はひどく穏やかで――……。

「……お世話になります」
「ハハ」

 早まる心臓と、ほてる体。
 赤くなってるであろう頬がバレないことだけが、唯一の救いだった。


◇ ◇ ◇ ◇

 途中コンビニでご飯を買ってからお邪魔した中瀬さん宅は想像通り、シンプルで綺麗なお部屋だった。
 中瀬さんに先に入ってもらい、十数分もしないうちに戻ってきた中瀬さんと交代でお風呂を借りる。
 服と下着一式、最低限の化粧道具。
 以前飲み会で失態を犯してから、ロッカーに常備してあったお泊まり道具を取り出す。
 さすがにパジャマはないので、中瀬さんからTシャツとズボンを借りた、が。

(サイズ合わないよねえ……)

 分かりきっていたが、特にズボンは履いたそばからずり落ちる。
 とはいえ、Tシャツ一枚で出て行くほど痴女にはなれない。
 存分に悩みたいが、あまり長い時間脱衣所を占領するわけにもいかないし――……。

「……よし」

 とりあえず、ズボンを片手で押さえたまま出ることにした。
 余程のことがない限り、一番の安全策だ。
 廊下を抜けてリビングへ顔を出すと、中瀬さんがソファーでくつろいでいる。

(……部屋着、セットされてない髪の毛)

 職場では絶対に見ることのない姿に、認めたファン心をがっちり掴まれた。
 悶えそうになるのを抑えて、ぎゅっとズボンを握る。

「すみません、お風呂いただきました」
「……ん」

 柔らかい微笑みと手招き。
 
(ひええ……イケメン……)

 前髪を下ろしているせいか、いつもより幼く見える。
 そんな私の心情を知らない中瀬さんは普段と変わらない様子で、手でソファーに座るよう促した。
 ぎりぎり聞こえるくらいの声量で「失礼します……」と声をかけて腰を下ろす。
 ゼロ距離ではないけれど、少しでも動いたら触れそうな距離感に心臓は爆発寸前だ。
 今日の私の心臓忙しすぎる。

「服、やっぱりサイズ合わなかったな」
「貸していただけるだけありがたいです……!」
「ハハ」

 いつもより近い距離から中瀬さんの笑い声が聞こえる。
 落ち着かない私を察してか、中瀬さんがローテーブルに置いてあった缶を差し出した。

「好みの銘柄じゃなかったら悪いけど、良かったらどうぞ」
「あ……ありがとうございます。ビールならなんでも好きです」
 
 まだ冷蔵庫から取り出したばかりだったんだろう、冷たいビール缶を受け取る。
 隣で缶を開ける音がし、それに続いて私もプルタブを引っ張った。
 
「……落ち着いた?」
「……はい」

 ビールで乾いた喉を潤して、中瀬さんがそっと私の顔を覗き込む。
 染み渡ったビールのおかげで、さっきよりだいぶ気持ちに余裕ができた。
 落ち着きないのが中瀬さんにバレてたと思うと恥ずかしい。

「よかった。……夕飯食べようか」
「はい!」

 含むように笑った中瀬さんが立ち上がる。
 上司を差し置いて座ってるわけにはいかず、一緒に腰を上げた。
 手慣れた様子でコンビニ弁当を電子レンジで温める姿を見てる――……と。

「……中瀬さんも人間なんですね……」

 思ってたことがそのまま口から洩れた。

「……え?」

 驚いたように中瀬さんが振り向く。
 
「いえ、そのー、中瀬さんって欠点が見当たらないし、プライベートが謎なので、こう生活がイメージできないと言いますか……ええと」

 だめだ、どんどんボロが出る。
 一度口を閉じて、落ち着きを取り戻そう……。

「……ハハ」

 中瀬さんの笑い声が響く。
 乾いた、寂しい笑い声だ。

「俺は、完璧なんかじゃないよ」

 ――……あ。
 前も似たような話題になった時があった。
 そのときも中瀬さんはひどく寂しそうな声をしていて――……

「……私から見たら、完璧ですよ。……たまに意地悪ですけど」

 つぶやいた声に、電子レンジの音が重なる。
 中瀬さんは鳴る電子レンジを眺めて、小さく息をもらした。

「佐々木の方が、すごいよ」
「え……」

 思いがけない言葉に目が丸くなる。
 電子レンジにまだ手は伸びない。

「今日の現場も、この間の反省を活かしていて、見事な手際だった」

 褒められて嬉しいはずなのに、なぜか心がざわつく。
 中瀬さんの視線が、どこに向けられているのか、わからない。

「それは、中瀬さんのおかげです」

 こっちを見て欲しくて、願うように中瀬さんの名前を出した。

「中瀬さんが言ってくれたんです。私にしか出来ないことがあるって」

 おねがい。
 こっちを向いて。

「――だから、私が成長できたとしたら、それは中瀬さんのおかげなんです」

 おねがい――……。
 懇願に応えるように、中瀬さんの瞳がゆっくり私を映した。
 黒目がちの瞳は、どこか泣きそうで。
 穏やかに微笑みを浮かべる顔が、ひどく痛々しげで。

「佐々木は――……」

 言いかけた声にかぶせて、電子レンジが再び音を出した。
 言葉が止まる。
 中瀬さんの視線が逸れた。
 電子レンジに伸びる手――を掴む。

「私は、今まで自分が体格に恵まれなかったことを言い訳にしてました」

 おどろいた顔が視界に入った。
 大きくて、冷たい手を、両手で握りしめる。

「でも、そうじゃない。この小さい体だって役に立つって教えてくれたのは、中瀬さんです」

 油断すれば声が震えそうだ。
 でも、目を逸らしちゃいけない。
 この気持ちを、ちゃんと、まっすぐ中瀬さんに伝えたい。

「私、今は自分のこの体格も童顔も、相手を油断させることができる武器だと思ってます。もちろん、幼く見えるのは嫌な時もあるけど」

 ぎゅ、と握る手に力が入った。
 私じゃない。中瀬さんが、力を入れた。

「前ほど、自分の外見が嫌いじゃないのは、全部、中瀬さんのおかげ――……」

 言葉途中に、強く引き寄せられる。
 鼻先が硬いものに当たって、それが中瀬さんの胸板だと気づくのに時間はかからなかった。

「……ごめん」

 小さく頭上に振った謝罪。
 抱きしめる力は、私でも振り解けるほどで。

「――謝らないでください」

 丸まった背中にそっと手をまわす。

「言ったじゃないですか。私は部下だし新人なので、もっと思いっきり言いたいこと言っていいんですよ」
「……ハハ」

 耳元で掠れた笑い声が響く。
 悲しみの含まれないそれは、くすぐったくて、優しい。

「……佐々木は、強いね」

 慈しむように、ゆるやかに髪を撫でられた。
 そっと離れる体を、ほんの少し名残惜しいと思いつつ――柔らかい視線がぶつかる。

「強くて前向きで――……まぶしい」

 本当にそうであるかのように、中瀬さんが目を細める。
 初めて見る表情に、いまさら思い出したように心臓が暴れはじめた。

「そ、そんなの中瀬さんの方が……!」

 ずっとまぶしい――……と続けるはずの言葉は不自然に逸された視線で止まる。
 急にあからさまに視線を逸された。
 なんで、と思う間も無く、「佐々木」と中瀬さんが呼びつつ電子レンジを開ける。

「ズボン、落ちてるから」
「……あ!」

 言われて、漸く下半身の違和感に気づいた。
 そういえばさっき両手ズボンから離した……。
 慌てて落ちたズボンを上げる。

「あの……すみません……お見苦しいものを」
「大丈夫。Tシャツで隠れてて見えてないよ」
「うう……」

 たしかにTシャツは太ももの中心あたりまであるけれど。
 
「中瀬さんには不甲斐ないところ見られてばっかです……」

 いじけながら、温めたお弁当を受け取る。
 中瀬さんは小さく笑った。

「それは俺のセリフだよ」
「え。中瀬さんの不甲斐ないとこなんて見たことない……」

 もう一つお弁当を温めるために、再び電子レンジを操作する。
 ややあって、穏やかな微笑みが向けられた。

「……――」

 なにも言わず、ただ見つめられる。
 落ち着く暇なんてない。
 今日はずっと心臓が暴れっぱなしだ。
 それも全部――

(全部、中瀬さんのせいで――……)

 ああ。
 気がついてしまった。
 たぶん、気づかない方がよかった感情だ。
 
「片手で運べる? 持って行こうか」
「だ、だいじょうぶです」

 優しい声が、胸に甘く染みる。
 だめだ。
 もう、気づいてしまったから。

「落とさないようにな」
「大丈夫です! もうズボンも落としません!」
「ハハ」

 中瀬さんに背を向けて、ダイニングテーブルへ向かう。
 赤くなった頬は、さっき飲んだビールのせいにした。