第一章 五
「あっ、逃げた! 待ちなさいよっ――」
 平屋のこの城は、窓から出て行っても怪我をすることもないし、追いかけるのも簡単だろう。だが、ヒーラーの少女は後を追おうとはしなかった――いや、できなかった。シュードに左腕を掴まれて引き止められたのだ。
「シュ、シュウ!」
「……ナスタ様、許可なしの入室など、数々の無礼、申し訳ございません。お怪我はございませんか?」
 シュードはリリィの抗議を無視し、薄紫の髪の女――チェルシーが逃げ出した、破壊されて松や楓などが植えられた美しい庭園や漆喰の城壁がはっきり見える窓を警戒しながら、姫君の体を案じて主に尋ねた。
「……構いません。私は……無事です」
 淡々と答えたナスタは、深い焦げ茶色の木の床に散らばったガラスや和紙や木の破片の中から、謎の女に投げつけた簪を拾う為に屈み込む。
「……!」
 簪を手に取ると、奇妙なことに、簪から氷混じりの小さな雫が滴った。わずかに濡れた指先に首を傾げると、部屋の中で床を見ていれば目に当たる筈のない光が、ナスタのミッドナイトブルーの目に入った。彼女が顔を微かにしかめて瞬きをしながら光源を見ると、見慣れない物が太陽の光を反射しているのに気が付いた。
 落ちていた物は、鮮やかな青色の石に金細工が施されたブローチだった。手の平にすっぽり収まる程度の大きさの平べったくて円いそれは、金で縁取られていて、中央に金色の文字が彫られている。どうやら高価な石か、エレメントストーンという魔力の宿った石を使っているようで、丁寧に磨かれてつるつるとした表面が太陽の光を反射したのだと思われた。
「……『A・B』……?」
 そっと拾い上げたナスタは、ブローチに刻まれた金の文字を小さな声で読み上げる。
「それ、チェルシーとかいう、さっきの女の持ち物でしょうか?」
 先程よりは落ち着きを取り戻したが、つい普段の言葉遣いになりかけてしまったリリィがブローチを覗き込み、首を傾げる。
「リリィ、ナスタ様にその口調は無礼極まりない」
「あっ……も、申し訳ありません、ナスタ様っ」
「……いえ……」
 幼馴染みの少女を注意した青年は、ナスタに申し出た。
「それは何かしらの手掛かりになるかもしれません。姫、もしよろしければ私がお預かり致しますが、いかがなさいますか?」
 しかし、彼の主の一人であるプレアデスの姫君は首を横に振り、大切そうに桜色の小さな巾着に入れて、胸元にしまった。
 丁度その時、七星の間の開け放たれたままの襖から、十人の近衛騎士達が雪崩れ込んできた。シュードの在籍する二番隊の者達だ。
 参上が遅い、今まで何をしていたのだ、と数々の文句が頭の中を駆け巡って口を開くに開けないシュードに、隊員の一人が焦りと動揺を隠せない様子で捲し立てた。
「ナスタ様、副隊長、申し訳ございません! リリィ殿から侍女に言伝を頼まれ、席を外していた最中に異常な物音を聞きつけたのですが、自分一人では判断に迷い、隊長と副隊長を探しておりました! 共に警護に当たっていた者は、副隊長のご命令通りに応援を呼びに行きましたが、遅くなり、誠に申し訳ございません!」
 城への侵入者や襲撃は、千五百年の歴史を持つプレアデス王国でも数える程しかなかった事件であった。今回の事件は、まさに青天の霹靂だったのだ。しかし、非常事態への不慣れが失態の理由にならないことは、シュードも隊員達も承知の上だ。深緑の目の青年の震える握り拳と近衛騎士達の青ざめた顔や冷や汗が、それを物語っている。
 深い息を一つ吐いたシュードは、この場ではひとまず王女への無礼を詫びて正そうと、よく通る険しい声色で咎めた。
「報告は後程聞こう。その前に、ここをどこだと心得ている? 畏れ多くも、ナスタ様の御前であるぞ」
 その言葉に、近衛騎士達はすぐに整列し、片膝をついて頭を垂れ、王族や貴族への敬礼の姿勢をとった。そして、シュード自身も彼らの前で王女に敬礼し、深く頭を垂れながら謝罪する。
「ナスタ様。この度の不手際、誠にもって申し訳ございません」
(シュウってば、すごーい! さっすが副隊長さんだね)
 その様子を見て密かに感心するリリィの前で、ナスタは静かに口を開いた。
「……私は無事です。故に、構いません。しかし……精進なさいませ。……この度の騒動と私の無事を、陛下に報告せねばなりません。リリィとシュードは……私と共に謁見の間へ参りましょう。……そなた達は……侍女達と共に、部屋を頼みます……」
「御意」
 近衛騎士達に一礼したナスタは、紫の単の上の白い衣――童袍(わらわのうえのきぬ)と呼ばれ、プレアデスの未成年の貴族・王族だけが着る、単と袴の上に被る服だ――の胸元から背中に流れる緑色の飾り帯や袖、裾をふわりと揺らし、彼らの脇をすり抜けるようにして部屋を出た。そこで立ち止まり、振り返ってヒーラーの少女と近衛騎士団二番隊副隊長を呼ぶ。
「リリィ、シュード。参りましょう」
「あっ、はい! ナスタ様、お待ち下さいっ――」
「御意」
 深緑の髪の青年は敬礼したまま短く返事をし、ナスタとリリィが部屋から出たのを気配で察してから立ち上がる。渡り廊下に主と慌てて王女の後を追う明るい茶髪の少女の後ろ姿を確認したシュードは、部下達に近衛騎士団団長と二番隊隊長への連絡、七星の間の警護と侍女を呼ぶことを素早く指示してから、自分も謁見の間へと歩み始めた。

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