第一章 十九
空の旅において常に付きまとう危険。それは、空船などの乗り物からの落下だ。島々が天空に浮かぶこのアズールでは、この世界がどれ程の高さにあるのか、青く霞んで見える下の世界がどうなっているのか、それらを知る者は誰もいない。しかし、空を渡る乗り物から、あるいは島の縁から落ちて生きて戻った者がいないことは分かっていた。この空船の屋上には高さ一メートル程の木製の柵があるが、それでも落ちない保証はない。
すぐそこに迫る死の気配に、シュードは剣の柄を掴む手を強張らせ、リリィは体の芯が冷えるような感覚に身を竦ませる。セージは喉を鳴らさんばかりに唾を飲み込んだ。ナスタは表情こそ変わらないものの、短刀を握る手がぴくりと動いた。
「……シュード。進行方向より十時の方角から……魔物が……」
「あの茶色の、でしょうか?」
「……はい」
辺りを見回していたシュードは、前髪を押さえているナスタに呼ばれた。姫君の指し示す方向を見やると、確かに青い空にぽつんと不自然な茶色い何かが二つ浮かんでいた。シュードの肉眼では目を凝らしても魔物と断定できなかったが、それだけ距離があるのならばこちらも準備を整えて戦闘に臨める。
シュードの指示で、セージは前衛、リリィは後衛、ナスタはその間に立った。シュード自身はセージの隣で前衛を務める。
一行が各自の武器を構えると、四人の目に映った茶色い何かは確かに鳥の形をしているのが分かった。鷲によく似た栗色の体の大きさは一メートル、翼を広げると優に二メートルを超える。大きく鋭い嘴と鉤爪を持ち、人でさえも獲物にする獰猛な種であった。真っ直ぐにこちらへ向かってくる。
「ナスタ様とリリィは魔術で援護を! セージ殿下は私と共に後衛を守って下さい!」
「はい……」
「分かったわ!」
「何ならオレが仕留めてやるよ! 攻撃は最大の防御、ってな!」
セージが自信たっぷりに笑う後ろで、ナスタとリリィは魔力を高め始めていた。魔術の発動まで無防備になることの多い後衛を守るのも前衛の役割であるが、アルデバランの第三王子は自ら敵を倒すことが好きなのだろうか。シュードはため息を吐きたいのを堪えて頭を振り、自分が三人のフォローをする覚悟を決めた。
「――来ます!」
そうこうしているうちに、魔物が一行の目前まで迫ってきた。翼を広げて威嚇する鷲型の魔物に、この種の魔物を初めて近くで目の当たりにしたリリィが、悲鳴を上げて後退る。
「ちょ、やだ、おっきいよ……!」
「大丈夫だ、オレが守ってやるよ!」
魔物の片方が一行の中で最も小柄なリリィに目を付けたのを察知した金髪の王子が、怖じ気付く明るい茶髪のヒーラーを励ますと、魔物の前に立ちはだかって彼女を背に庇った。その言葉と後ろ姿に、リリィは目を見開く。
「セージ王子……」
セージが魔物の進路上に躍り出ると同時に、魔物の片方がリリィ目がけて滑空してきた。リリィの頭を文字通り鷲掴みにする筈だった鉤爪が、金属同士がぶつかったような硬質な音を立ててセージの槍の刃に弾かれる。
セージが応戦する傍らで、もう片方の魔物もリリィに狙いを定め、大きな翼を羽ばたかせる。魔物の意図に気が付いたナスタが、そちらを向いて短刀を持つ右手を掲げた。魔物とミッドナイトブルーの髪の姫君の動きを見て、深緑の髪の騎士が魔物の足止めに走る。
行く手を阻んできたシュードに標的を変えた魔物の嘴が、彼の顔面を襲う。咄嗟に後ろに跳んで避けたシュードは、すぐさま反撃に転じた。
「その程度か!」
牽制に振るう剣は魔物の体を傷付けはしないが、確実に効いていた。魔物は刃をかわす度に、少しずつ後退していく。
魔物が屋上の柵の外まで身を引いた、その時だった。
「――〔ストーンバレット〕」
ナスタの地属性の初級攻魔術の完成を告げる声が、作り出された石の礫と共に弾丸の速さで魔物を貫いた。三発の石の弾で左の翼を撃ち抜かれた魔物は、苦悶の叫びと栗色の大きな羽根を散らし、体勢を崩す。左に大きく傾いた隙を突き、シュードが一閃の元に切り捨てる。片翼を切断された鷲型の魔物は、為す術なく墜落していった。
シュードとナスタが振り返れば、リリィがセージと対峙している魔物に魔術を仕掛ける直前であった。
「〔ディープミスト〕!」
霧の民の特殊術が発動し、濃い霧が魔物を包む。魔物の動きが鈍くなったところに、シュードが加勢に駆け寄った。
しかし、シュードがセージの元に到着する前に、水属性の魔力に苛まれて苛立った魔物の鉤爪がセージを再び襲った。自棄になった魔物の攻撃は軌道が読めず、セージが避けられないと悟って防御姿勢を取ろうとした瞬間、シュードの声が響いた。
「〔サンドウォール〕!」
すると、セージの前に大量の砂が噴き上げた。地属性の初級防魔術だ。強度は低くともごく短時間で発動するその砂の壁は盾となって魔物の鉤爪を阻み、アルデバランの王子を守った。
「っ、危ねえな!」
砂の防壁はたちまち崩れる。魔物が〔サンドウォール〕に怯んでいる間に、セージが素早く体勢を立て直して槍を突き出した。鋭い一撃は翼に風穴を開け、魔物が痛みのあまりに耳障りな叫び声を上げる。飛んでいられなくなった魔物の体を、駆け付けたシュードの一太刀が切り裂いた。胴体に深く斬り込んだ剣を横に薙ぎ払うように振るい、空船の外へ投げ捨てる。空中に放り出された魔物は、そのまま見えなくなった。
「……これで終わりか」
血振るいして剣を鞘に納めたプレアデスの騎士は、三人に声をかけた。
「皆様、お怪我などございませんか」
「……はい」
プレアデスの姫君はこくりと頷くと、短刀を鞘に納めた。アルデバランの王子は「大丈夫だ」と返すと、唇を尖らせる。
「オレがとどめ刺せたのに」
「セージ殿下にお怪我などさせては、アルデバラン国王陛下にもプレアデス国王陛下にも申し訳が立ちませぬ故」
「うっ……」
さらりと言えば、セージはばつが悪そうに黙ってしまった。その様子に、シュードは今までの仕返しができたような気がして、思わず笑みが零れそうになる。今にも上がりそうな口角に力を入れて真一文字に引き結び、プレアデス王家直属のヒーラーを見れば、彼女は杖を抱えてあらぬ方向を見つめていた。その愛らしい横顔は、どういうわけか酷く悲しげである。
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