第一章 二十五
ふと思い立ったシュードは、着替えの入ったやや大きな鞄はそのままに行灯の灯りを消し、部屋の鍵を掴んで部屋を出た。
風呂に入ったナスタとリリィは、部屋でくつろいでいた。網戸だけを閉めた窓からの涼しい夜風が、風呂上がりの火照った体に心地よい。窓際に佇んで部屋にあった団扇でぱたぱたとあおげば、涼しさが一層増した。
「……」
腰よりも長い髪を宿のタオルで丁寧に挟んで乾かし、部屋の中央の座布団に慎ましやかに正座するナスタは、自身の右の手のひらをじっと見つめている。
「ナスタさ……あっ」
姫君の愛称を敬称と共に呼ぶことしか知らなかった明るい茶髪の少女は、ミッドナイトブルーの髪の少女をうっかり「様」をつけて呼ぼうとして、口を両手でぱっと押さえた。
「……はい」
「どうしたんですか? もしかして、手が痛いんですか?」
俯いて手のひらを見続けていたナスタに、リリィは心配そうに尋ねた。愛らしい顔を痛々しげにしてこちらに来た彼女に、ナスタはゆるゆると首を横に振って静かに否定してみせる。
「……いえ……」
「そうですか? 痛むのなら、すぐにあたしに言って下さいね。痛くなくても、変な感じがするなら」
「……はい」
ナスタがこくりと頷けば、リリィはにっこりした。表情をころころと変えるヒーラーに、姫君は無表情のままで告げた。
「……シュードの元に行って参ります。留守を……頼みます……リリィ」
「シュウのとこに、ですか? はい、ここで待ってますね」
空船の番をしている三人の騎士に食事と風呂の準備があることを伝えたシュードは、彼らが食事や入浴をしている間だけでも番を代わると言い出し、一人で船番をしていた。空船の男性陣が使う部屋から絨毯を持ち出した彼は、石畳の上に絨毯を広げる。月の明かりだけでも分かる豪華絢爛な模様に、シュードは異国の香りを嗅ぎ取った。
(空飛ぶ絨毯の発祥の地は南の大国アンタレスらしいが、これもそうなのだろうか)
――アンタレスとは、アズールの南に浮かぶ大国のことだ。砂漠が国土の大半を占める、ベテルギウスとはまた違った厳しい環境で、魔術が特に発達した王国だと名高い。遠い異国で織られ、空を飛べる細工を施されたであろう絨毯に、シュードは見知らぬ南の大国に思いを馳せようとして、止めた。今、自分がすべきことは、こんな空想などではない。
絨毯の片端に、プレアデス王国の六弁の花の飾りと共にエレメントストーンが編み込まれている。暗がりではサファイアのような深い青に見えるそれに、シュードは手をかざす。魔力を流し込めば、絨毯はふわりと浮き上がった。着地させると、今度は絨毯に乗り込んでから離陸させようと試みる。が、魔力の加減を間違えたのか、絨毯は浮いたもののシュードの乗る辺りが奇妙に反り返り、シュードは絨毯の上でバランスを崩してしまった。
「っ」
片膝をついた姿勢のままで仰向けにひっくり返るが、空中にいたおかげで絨毯が柔らかく体を受け止め、どこもぶつけることなく倒れ込む。見上げた先には、玲瓏たる月があった。
(そうだ、今宵は――)
今夜は満月。あの事件さえなければ、プレアデス王国第一王女たるナスタの成人の儀が行われる予定だったのだ。秘匿の姫君の成人を祝福する筈だった満ちきった月は、いつになく大きく見えた。随分と明るい月夜だとは思っていたが、見上げるとこの明るさにも納得がいく。ナスタの髪と目の色の空に堂々と君臨し、眠る世界を優しく照らして見守る大いなる存在に、その姿と美しさに、息が止まる。
シュードは絨毯に横たわったままで光に洗われたような夜の空気を吸い込み、目に沁みるような月光を全身に浴びていた。静かな夜であったが、夜風が木々を穏やかに揺らす音も何だか遠くに聞こえる。月に魅入られて思考も遠くなってきたその時、宿の玄関の戸が鈴の音を伴ってからからと開いた音が耳に飛び込んできた。騎士達が戻ってきたのだろうか。ゆらりと起き上がってそちらを見やれば、そこにいたのはナスタであった。不意打ちのような主の登場に、月にかけられた魔術など一瞬で解けてしまった。
「ナ、ナスタ様?」
ナスタは戸を閉めると、満月を仰いでからシュードを見た。一人きりで一体どうしたというのであろうか。近衛騎士はこちらに歩いてくる姫君の元へ、空飛ぶ絨毯で文字通り飛んで行った。
「いかがなさったのですか」
絨毯からひらりと飛び降りて主に尋ねれば、両手を胸の前で組んだ彼女から思いも寄らぬ言葉が返ってきた。
「……シュード。そなたに、お礼を……申し上げたかったのです」
心臓がどくりと跳ねた。自分は何をしただろうか、と普段の半分にも満たない速さで今日の出来事を思い起こしている最中で、ナスタが再び口を開く。
「……空船で、魔物と戦った時のことです……。そなたは……斬った魔物を、船の外に放り出しましたね。あれは……リリィに見せないように、と……気を遣って下さったのでしょう……?」
「!」
シュードの心臓が、先程よりも大きく脈打った。忠誠を誓い仕える姫君に一介の近衛騎士である自分のさりげない行いに目を留められ、その真意を汲み取られて、さらに謝意を抱かれ告げられるとは思いもしなかったのだ。顔に熱が集まるのを止められず、紅潮していく。
「……仰る通りにございます。ですが……」
「……?」
語尾を濁して視線を逸らした深緑の髪の騎士に、ミッドナイトブルーの髪の姫君は小首を傾げて彼の言葉の続きを待った。
「あれは……ナスタ様のお目にも入れぬ為にしたことなのです」
すると、ナスタは目を数回瞬かせた。表情は変わらないが、目がいつもより少し大きく開かれていることから察するに、彼女なりに驚いているのだろうか。緩やかに首を捻ったナスタは、確かめるように返事を紡いだ。
「……私が、魔物の傷を……魔物の死を見ないように、と……ショックを受けないように、と……リリィのように、配慮して下さったのですか……?」
「……左様でございます」
月を背にしたシュードは、極度の緊張と羞恥にさぞかし強張り、赤くなっているであろう自分の顔が逆光で見えないことを祈った。対する月明かりに照らされたナスタの白い美貌は、やはり変わることはなかった。長い睫毛を顔と共に伏せた姫君の顔は月下で陰り、彼女の考えていることは読み取れない。
「……そう……でしたか」
ぽつりと呟いたナスタは、ふと顔を上げた。
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