第二章 一
 一行が空船に揺られて七日目の昼過ぎであった。
「皆様、まもなくベテルギウス共和国の港町アルバレアに到着致します。どうぞご支度を」
 この空船の一室、男性陣が使う筈が結局のところは四人が日中集まるようになった客室に、一人の騎士が現れてこう告げた。シュードが「分かりました」と返事をすれば騎士は一礼して退室する。この七日間で恒例になったやり取りを見て、リリィが大仰に息を吐いた。
「あ〜、長かったぁ〜」
「やっと着くんだな」
 プレアデス王国を出てからというもの、一行は一日に一度は宿ギルドの憩いの小屋の宿泊施設がある小島に降り立っていた。空船で夜を過ごしたのは一度だけで、あとは宿に泊まっていたのだ。それでも、空船に乗っている時間は一日の半分以上である。空船に乗ったことのなかったナスタとリリィはいざ知らず、四人の中で最も空船に慣れているセージも思わず「やっと」と零してしまう程には長い空の旅だった。
 低い円卓に山となっていたトランプのカード――四人はもう幾度目かも分からないババ抜きに興じ、シュードが両手両足を使っても到底足りない数の負けを更新した直後に騎士が来たのだった――を、シュードが真面目くさった顔で片付け始める。
「皆さん、どうぞ支度を」
「って言っても、あとは靴履くだけなんだけどな」
 そう答えたセージは、両腕を擦った。
「しっかし、寒いよなあ。ナスタとリリィちゃんは平気か?」
「……平気ですが……やはり、寒いですね」
「我慢できますけど、寒いですよね。あたし達は単を重ねてるんですけど。ベテルギウスがこんなに寒い所だったなんて、もっとあったかいのを用意しとけばよかったですね」
 北上する中で気温の下降は何となく感じてはいたのだが、ベテルギウス領に入ってからはあからさまに空気が変わった。プレアデス王国で月見する頃の夜のような涼しさが、霜が降りるひんやりとした朝のように、さらに雪が降る夜の身に染む寒さにと、ベテルギウス共和国本島に近づくにつれて冷たくなっていくのだ。暖房器具が小さな火鉢しかないこの船室では、白い吐息で震える一行が倉庫から持ち出した半纏を着て掛布団に包まり、熱い茶の入った湯呑を湯たんぽ代わりにして暖を取っている。薄手ながらも袖も裾も長いシュードとナスタはまだいいが、リリィは半袖で袴は太腿の半ばまでしかないのだ。その恰好で歯の根が合わないのを堪えていると、見ている方まで鳥肌が立ちそうだ。
「オレ、寒いの苦手なんだよなあ」
 アルデバランの薄い衣服のセージの薄い唇は、ほんのり紫色であった。本当に寒さに弱いのであろう。肌の白さと体の線の細さが、彼の言葉により説得力を持たせる。
「船を降りたら、まずはベテルギウスの服を買いに行きましょう。このままでは探索も難しいでしょうから」
 到着を知らせる笛の音が、一行に代わってシュードの言葉に賛成しているようであった。


「寒っ!」
 扉を開けたリリィとセージの第一声が、これであった。室内でさえぶるぶると震えていたのに、寒さの質がまるで違うのだ。プレアデス王国でもアルデバラン王国でも氷点下の冷え込みになることはあるが、ここの空気はそれを簡単に凌ぐ気がする。身に染みるどころではない。肌を突き刺すような、とか、身を切るような、とは、まさにこの感覚なのであろう。一行は到着して数分も経たない内に北の大国の気候の厳しさと、ついでに四人が囲んで手をかざせば指先が触れ合うちっぽけな火鉢やその他諸々の偉大さを、身を以て知ったのだった。
「では、私達はアルバレアで準備をしてからアルバウィスの森に向かいます。何かあれば文や使いを寄越しますので、あなた方は予定通りこの町の憩いの小屋でお待ち下さい」
「承知致しました。どうぞご武運を」
 シュードが騎士達と会話を済ませて操舵室から出てくると、一行は地面すれすれで停止した空船から降りた。シュードが先立って雪で足場の悪い石畳に着地し、ナスタ、リリィ、セージの順に手を貸す。四人が降り立った所に、ぼこぼこと新たな窪みができた。
「……ここが、ベテルギウス……」
 ミッドナイトブルーの髪の姫君が、ほうっと白い息を異国の極寒の空気に溶かした。
 今は雪が降っていないが、空はどんよりと重たく曇っていた。停船スペースの石畳は空中停止が前提らしく、所々にうっすらと灰色が見えるものの、雪で白いままである。
 昼下がりの港はそれなりに賑わっていた。空船が何隻もごく低空で停止しており、人や貨物が忙しなく上下している。近くに同じように停まっている客船らしき空船から人々が降り、ぞろぞろと歩いていくのが見えた。彼らが行く先を確かめると、背の高く色の濃い針葉樹が連なる中に不自然に開けた所があり、その向こうには尖った屋根の建物がいくつも見える。
「早く行こうぜ! もう無理、寒すぎっ」
 悲鳴を上げる金髪の王子は、酷い顔色でがちがちと歯を鳴らしていた。明るい茶髪の少女が「ねえ、シュウってばー!」と泣くような声色を重ねてくる。深緑の髪の騎士は何も言わないが、指先が動かなくなってきたのに危機感を覚えていた。このままでは氷になるのも夢ではなさそうだ。生きたまま凍る幻想など、七日前までの自分なら抱くことすらなかったであろう。だが、主の透き通るような白い肌が陶器のように血の気をなくし、自らの触覚と体の自由が奪われつつある今は、四人の末路として想像に難くなかった。
「防風林の向こうが町のようですね。皆さん、参りましょう」
 しかめっ面のシュードに促されると、リリィが真っ先に駆け出した。セージは体が思うように動かせないのか、鈍くぎこちない様子で後に続く。ナスタをエスコートするシュードが、リリィの背中に控えめに叫んだ。
「リリィ、足元に気を――」
 付けろ、と続く前に、リリィは足を滑らせてよろめき、すれ違った人とぶつかってしまった。
「きゃあ!?」
「リリィ!?」
「リリィちゃん!」
 シュードとセージが血相を変える。
「おっと、大丈夫かい?」

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