第二章 十四
「ナスタ様、畏れ多くも申し上げます。一つばかり、私の望みをお聞きいただけないでしょうか」
姫君は首を雅やかに傾け、無言で近衛騎士の懇願の中身を待つ。この八日間でいくつもの理不尽に幾度も苛まれて疲れたシュードは、旅が始まってからの願いを主に絞り出すように乞うた。
「私に、ナスタ様とセージ殿下への敬称及び敬語の使用禁止を命じてはいただけないでしょうか」
それを聞いたナスタの目が、ゆっくりと何度も瞬く。
シュードからすれば、この強いられた苦行が命令でないことが不可解極まりなかった。敬称と敬語が異国での極秘任務に支障を来す可能性、円滑な任務遂行の為のそれらの不使用の必要性は、彼も承知しているのだ。厳命として従えばこの長年の習慣も改められる気がするのに、アルデバラン王国第三王子殿下はこの八日間で一度たりとも「これは命令だ」などとは仰せにならなかった。散々注意するのに、指示ですらなく、あくまでも提案のつもりのようなのだ。それがプレアデス王国近衛騎士団二番隊副隊長には理解の範疇を超えていた。王族ともなれば、他国の近衛騎士やヒーラーに命令の一つや二つを下すことなど容易いであろう。それが任務の為ならば尚のことだ。シュード達が自国の者でないから遠慮なさっておいでなのだろうか。問題が生じるぐらいならば、そのような配慮など不要なのに。
深緑の髪の近衛騎士の苦しい胸の内を表すような少し掠れた声に、ミッドナイトブルーの髪の姫君は彼の心情を慮ったのであろうか。真相は彼女のみぞ知ることだが、ナスタは静かに頷いた。そして、ソファーに座したままで近衛騎士に穏やかに命じる。
「……分かりました。……では、シュード。私と……セージに、敬称と敬語を遣っては……なりませぬよ」
「御意」
シュードは額をさらに絨毯に擦り付けて望んだ大命をありがたく拝受し、ゆっくりと面を上げる。自分のものでないように上手く扱えない舌をどうにか操り、シュードは恐る恐る姫君の愛称を呼んだ。
「……ナス、タ……」
釣られて出てきそうになった「様」を「さ」が音になる寸前で吐息に変えると、呼ばれた少女の目がごくわずかだが細められ、頬が微かに緩んで――ふわりと微笑んだような気がした。
「ど、どうしよう……」
部屋で留守番をしているリリィは一体何があったのか、暖炉の前のソファーで一人困り果てていた。その手には、雪の結晶のような白い幾何学模様がスタンプされた小さな紙袋の他に、何かもう一つ乗っている。
そこに、ノックと彼女を戸惑わせている張本人の爽やかな声が聞こえてきた。
「リリィちゃん、いる? オレだけど」
「ひゃあ! セ、セージでん……」
「あー! いるのは分かったから、ちょっと入れてくれよ」
リリィが承諾の返事をしながらわたわたとドアを開ければ、そこにはやはりセージがいた。
「お邪魔しまーす。はあぁ〜、あったけぇ……」
アルデバラン王国第三王子殿下は相当寒さに弱いようだ。ベテルギウスに来てからというもの、暖かな部屋に入る度にこの台詞を心底ほっとしたような、どことなく情けない調子で言うのである。さすがは夜の北の大国というべきか、宿の廊下から流れ込んできた冷気は少しの量で体を大きく震わせた。ドアを閉めるセージに、リリィはこの寒さに同意してから訪問の理由を尋ねる。
「ほんとに寒いですよね。えっと、どうしたんですか?」
「ああ、リリィちゃんにあげたの、どうしたかなって――あ」
セージの言葉を聞いてリリィが固まったのと、セージがリリィの右手にある物を認めたのは、同時であった。みるみるうちに頬が上気する明るい茶髪のヒーラーに、金髪の王子は何やら嬉しそうな調子で話し始める。
「よかった、開けてくれてたんだな! それ、ペンダントなんだ。って言っても、確かプレアデスは首飾りを着ける習慣はないから、リリィちゃんは使い方分かるかな、って思ってさ」
リリィが貰った紙袋に入っていたのは、臙脂色の革紐に明るい桃色の毛糸を蝶結びにしたモチーフを下げたペンダントであった。蝶結びの両端には赤い毛糸のポンポンがついている。セージの言った通り、プレアデス王国で生まれ育ったリリィはこの可愛らしい物の正体が分からずに弱っていたのである。
「ぺんだんと……って言うんですか? とっても可愛いんですけど、どうしたらいいのか分からなくて。首に下げて使うんですね」
「そうそう。ちょっと化粧台の前に座ってくれるかい? 着けてあげるよ」
人懐っこくも品のある笑顔に魅せられたように、リリィは素直に丸太のスツールに腰かける。
「ちょっと失礼」
一言断りを入れたセージはリリィの後ろに回り、ペンダントの留め具代わりの赤いポンポンに掛けられた革紐の輪を外す。恭しくペンダントを持つと、ゆっくりとリリィの首元に下ろしていった。
(や、やだ、近いっ……!)
至近距離に、それも背後に立たれ、目の前にはセージのすらりとした手が、鏡を見れば自分達の様子が映っている。リリィは本物の王子様に首飾りを着けてもらう場面など想像したこともなかったが、その優雅な佇まいと手つきは物語から出てきたような麗しい王族貴族そのもので、現実味のない光景であった。顔に熱が集まるのを止められなくて、膝に乗せた両手をきゅっと握りしめる。
ポンポンが再び革紐の輪をくぐり、留め具はハイネックのニットの折り返しに隠される。首の後ろに軽く押しつけられた留め具の感触に、リリィは悲鳴をどうにか呑み込んだ。それで終わりかと思いきや、今度は鏡越しにペンダントの具合を確かめるセージの手がリリィの鎖骨の辺りに伸びる。今にもヒーラーに触れそうで決して触れることのない王子の指は長く細く、白くて節がはっきり分かる。リリィのそれよりも大きな手は、彼女のものとは全く異なっている。セージの眼差しは真剣そのもので、空船での七日間で見た朗らかな彼ではないようだった。今の彼の表情は初めて会った時、アルデバラン王国第三王子としての顔に近い気がするが、何やら眩しく思えるのはどうしてだろうか。リリィは恥ずかしくて目を瞑ってしまいたいのに、どういう訳か鏡から目を離せずに息を詰めていた。
ALICE+