第二章 十五
「んー、こんなもんかな。どう?」
 どうやら満足したようで、セージの手が離れた。セージは後ろに立ったままだが、背中に感じていた気配も消える。リリィは安堵していいのか名残惜しんでいいのか分からず、その二つが混ざった吐息を漏らした。促されるままに鏡に映る自分の襟元を改めて見ると、あの可愛らしい物が首に下がっている。ニットの明るいオレンジ色に鮮やかな桃色が映えて、蝶のように結ばれた毛糸が彩りを添えていた。セージばかり見つめていて肝心のペンダントを忘れていたリリィは、感嘆の声を上げる。
「わあ、可愛いです!」
「オレの思った通りだ、よく似合ってるぜ」
 うんうんと頷く明るい茶色の目の青年に、焦げ茶色の目の少女は不思議そうに首を傾げて真意を問う。すると、鏡に映るセージは得意気に話し出した。
「首元がちょっと寂しかったから、何かいいのないかと思ってたんだ。君の髪飾りが二つ共こんな感じだった気がしたから、これにしたんだけど」
 リリィのこめかみのプレアデスの六弁の花のモチーフは、花びらが鮮やかな桃色で、中央のエレメントストーンはほんのりピンクがかった赤い色であった。髪を結ぶ紐にはこれまた赤い毛糸の蝶結びのモチーフ、その両端には鮮やかな桃色のポンポンがついている。霧の民の証の薄くて透ける布をあしらった髪飾りはずっと着けているが、二つ結びに使う紐はアルバレアの服屋で髪飾りに色味を合わせて買った物である。リリィは細かなことをこの短時間でよく覚えていたものだと感心する一方で、そんなに見られていたのかと羞恥に駆られる。顔が赤くなるのをごまかすようにぶんぶんと頭を横に振ると、こう切り出した。
「あの、本当にあたしが貰っちゃっていいんですか?」
「ん? 勿論だよ、君にあげたんだし」
「でも、こんなに可愛い物……申し訳ないです」
「気にしないでくれよ。まさかオレに着けろって言うの?」
 あはは、と屈託なく笑う金髪の巻き毛の青年を明るい茶髪のおさげの少女は鏡越しに見つめ、彼がこのペンダントを着けているところを想像してみた。急に黙って鏡を介した視線を送るリリィを、セージがひらひらと手を振って呼ぶ。
「……おーい、リリィちゃん?」
 鏡の中で左手を振るセージに、リリィが一つ大きく頷いた。
「……うん、結構似合うと思いますよ」
「えっ?」
 虚を突かれたセージは幾度か目を瞬くと、照れたように笑いながら頭を掻いた。
「そうかなー、リリィちゃん程じゃないと思うけど。――よし」
 一息ついたセージが化粧台の鏡の中から消えたので、リリィは振り向いて立ち上がる。
「明日はすっげえ早いもんな、もう休まねえと。リリィちゃん、ちゃんと起きてくれよ?」
「が、頑張ります……」
 からかうような調子で念を押すと、リリィは肩を落として自信なさげに返す。セージはその様子に噴き出しそうになったが、堪えて爽やかな笑みを浮かべた。
「じゃあ、おやすみ、リリィちゃん」
「はい、おやすみなさい」
 鮮やかな金髪の持ち主がドアの向こうに行ってしまうと、リリィは魔力が出ていきそうな深い息を吐きながらへなへなとその場に座り込んだ。丈の短いワンピースとレッグウォーマーの間の太腿に直に触れたフローリングがひんやりするが、今のリリィにはどうでもよかった。
(い、今の、何だったんだろ……)
 あっという間に過ぎ去ったこのひと時は夢か幻か、とハイネックの折り返しに右手をやれば、そこには毛糸と革紐の感触が確かにある。それでも現実だとはとても信じられなくて、指先にある物を摘まんで胸元から持ち上げ、それに目をやれば、そこには鮮やかな桃色と赤のペンダントトップが確かにある。左手で目をごしごしと擦ってから改めて見ても、蝶結びの可愛らしい物は変わらずにリリィの指先にある。どうも、先程のやり取りは本当に起こった出来事のようである。
(これ、セージ殿下があたしに買って下さったんだ)
 その考えに至ると、顔に紅葉が散ると同時に口角が上がる。浮かれた心のままに立ち上がろうとしたその時、とある仮定がリリィの脳裏を過った。
(あの子達と遊んだ時に買ったの?)
 自分達を放り出して見知らぬ少女二人と町に繰り出していったセージの後ろ姿が鮮明に蘇ったかと思うと、想像は三人が楽しそうにはしゃいでいる場面に及ぶ。金の巻き毛を紫色のリボンで一つに結わいた王子は、彼の身分すら知らないであろう彼女達にも、あの爽やかな笑顔でこちらの心臓が高鳴るような言葉を囁いていたのだろうか。そう、例えば、「可愛いね」なんて――
「っ……」
 勝手に描いた空想に何故だか胸がちくりと痛んで、リリィはペンダントごとニットの胸元を握りしめた。桃色の毛糸の蝶結びがリリィの細い指の中でぐにゃりと歪む。
(変なの、セージ殿下が誰と何してたっていいじゃない。何であたしが苦しくなるの?)
 明るい茶髪の少女はこの痛みに覚えがある気がした。自分の中で芽生えそうなものに気付きたくなくて、この既視感も予感も否定したくて、握りしめる手に力が入る。指先で擦れた毛糸の感触で我に返ると、ぱっと離した手で今度はニットのワンピースの裾を掴み、頭を横にぶんぶんと大きく振った。そして、大きなため息をついたのだった。


 一行がベテルギウス共和国で初めて迎える朝は、慌ただしいものであった。
 この北の大国の今日の日の出は三時頃、プレアデス王国のそれよりも二時間は早いのである。誰もが五時前後にしか起きられず、出立を日の出と同時と定めた一行の目論見はあっけなく崩れてしまった。
(参ったな、六時前なのにもう明るいとは)
 宿の食堂で席に着き、リリィはいつになくしょぼしょぼした目でもそもそとライ麦パンを齧る。その緩慢な咀嚼は嚥下以外でも途切れがちであった。客室と食堂の間の廊下の寒さはセージだけでなくナスタもくしゃみが出る程の相当な物だったが、リリィの眠気は飛ばなかったようだ。その向かいのシュードは見積もりの甘さを恥じつつ、焦りを覚えていた。
「リリィちゃん、頑張れ、あとちょっとだ」
「んー……はい……」

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