第二章 十六
 今にも瞼と意識が落ちそうなリリィを、シュードは責める気も起こらなかった。日の出の時刻を宿の主人に聞いた時から、正直に言えば無理だと思ったのである。目標は高い方がいいかと思ってそのままにしたが、その次元の話ではなかったらしい。北国の時の流れに慣れようと、空船の中で生活リズムを速めていく努力もしたのだが、効果は雀の涙程もあるのか疑わしい。だから、慌てて支度して女性陣の部屋をノックした時、眠りと覚醒の狭間のリリィがぐずる幼児のような有様であったのにも、叱ることは選択肢に出すらしなかった。主たるナスタに体を揺さぶられているのは頭を抱えたくなったが、それを除けば朝に弱いリリィのことだから想定内だとも納得できたのである。長旅の疲れもあるのかもしれないと思うと、旅に不慣れなヒーラーの食事を急かすのも忍びなかった。かと言ってセージのように励ますこともできず、シュードはただリリィの完食をナスタと共に待っている。
 シュードの真向かいのナスタは何も言わずに温かな麦茶を飲んでいた。全国展開故に他国の食材も入ってくるこの宿では、取り扱いが容易な品であれば各国の味覚が楽しめるようである。紙袋やガーゼに入ったのを煮出す茶の類がまさにそれだ。城への献上品とは質が違えど、やはり自国の飲食物はほっとするらしい。アルデバラン王国出身のセージのコップでは紅茶が湯気を立てている。
(リリィの朝食はクリームシチューを頼むべきだったか。好物ならもう少し目が覚めたかもしれない)
 今朝の四人が注文したのは具沢山のスープで、野菜と肉から出た旨味は体に優しかった。だが、シュードの胃が心なしか痛むのは、昨晩の空色の髪の言霊使いの別れ際の一言が刺さっているからであろうか。
(ああ、嫌な予感がする)
 時差とは恐ろしいと思う頭の片方で、あの子の魔力の籠らぬ言霊すらこの威力なのか、とシュードは麦茶の入ったコップを片手にぼんやりと考えていた。


 もう少しで七時を回る宿の受付で、四人は部屋の鍵と照明用の杖を返却し、手紙を預けていた。宿ギルド憩いの小屋はアズール各国が共同で営む郵便事業と提携しており、便箋などの販売も受付で手がけている上に、ワンコインの手数料を支払えば郵送物を預かってくれるのだ。手紙の差出人はシュードとセージ、宛先はそれぞれの母国の王である。ベテルギウス共和国の港町アルバレアに到着し、これから目的地に向かうことを昨晩に認めた報告書であった。封蝋には各々の国の紋章の印が、その下には血判が捺してある。血は魔力を含んでいるので、分析できる者が視れば本人の書状であることの証明になるのだ。届け先の城で不審な郵便物として処分されて国王の元へ届かない、といった事故を防ぐのにも一役買っている。ナスタもプレアデス国王宛への一筆を同封したが、秘匿の王女故に血判は便箋にのみ捺してあった。
 スタンプカードに判子を押してもらったその時、一行の背に冷気が届いた。ドアが開いたのだ。広いロビーの奥にまで届く寒さに、セージがこの部屋の暖かさと外の空気の冷たさに感心しながら振り向くと――
「あ」
「え?」
 何かを見つけたらしいセージのごくごく短い感嘆詞に、リリィが彼の顔を見上げ、その視線の先を確認する。
「あっ」
 リリィの口からも飛び出したごくごく短い感嘆詞に、スタンプカードを財布にしまったシュードとやり取りを眺めていたナスタが、この反応を引き出した者の正体を嫌な予感を携えつつゆっくりと振り返って確かめる。
「おはよう、よく眠れたかい?」
 四人の目に映ったのは、両手を腰に当ててにんまりとした空色の短髪の少年――いや、少女だった。
「あ……えっと、おはよう、リコリス」
 悪戯が見つかった子どもの気持ちでぎこちなく朝の挨拶をするセージと三人の心境を知ってか知らずか、リコリスは笑みを深くした。
「北国の朝は早いんだよ、どこよりもね」


 こうなった以上は同行を断れる筈もなく、一行は大人しくリコリスと共に宿の外に出る。曇天の下でリリィとセージが「寒っ」と震えて玄関先の丸太のベンチを見やると、人影があった。長い杖を持ったカトレアだ。オーキッドピンクが裏地の、フラップポケットに白い菱形のエレメントストーンがついたカーキ色のロングコートは昨晩と同じである。クリーム色の足首まである長いニットワンピースのハイネックの折り返しと裾には赤紫色のステッチ、胸元には四つの四角で模した赤紫の花の模様がある。スリットの黒と赤紫の市松模様に似た単純な幾何学模様は黒地に赤紫の四弁の花がいくつもあるようにも見える。濃い黄土色の革のベルトの両端と、赤みを抑えたココアブラウンとバニラ色のバイカラーが可愛らしいリュックサックにも白い菱形のエレメントストーンがあしらわれていた。ブーツはブロンズのようなオレンジがかった明るい茶色だ。
 リコリスがカトレアに歩み寄っていく。空色の髪の少女の出で立ちは、インディゴが裏地の青みがかった灰色の太腿の半ばまでのコートで、フラップポケットには木のボタンが飾りに縫い付けてある。脚の付け根がぎりぎり隠れる丈のニットチュニックの首の折り返しと裾は白地に水色の細い縦縞があり、身頃は彼女のサファイアのような目よりも明るく鮮やかな青である。白っぽいベージュのズボンを穿いた細い太腿には、昨晩同様に細く黒い革のベルトが二本ずつ巻いてある。言霊使いの札を入れるポーチだ。革のベルトは濃い黄土色、ブーツは焦げ茶色で、履き口には鮮やかな青に水色の細い縦縞の入ったニットがあしらわれている。手には指先が出る黒い革の手袋が嵌めてあったが、甲に何か装飾があるようで、きらりと光を撥ねた。背負っているリュックサックはポーチとお揃いのデザインで、左側には件のストラップが揺れている。
 二人の鼻先と頬、指先は赤かった。日の出が三時だというのなら、二人はいつから宿の軒先で四人を待っていたのだろうか。そんな二人に黙って発とうとしていたのかと思うと、一行は改めて後ろめたくなってしまった。
「おはようございます、みんな」
「お、おはようございます、カトレアさん」

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