第二章 十八
「……三体……でしょうか」
「狼型の魔物のようですね。この地に住むのなら、氷属性に耐性を持つ種でしょうか」
 コートの下の得物を忍ばせた脇に手を差し込むナスタと、彼女を庇うように前に出て剣の柄に手をかけるシュードに、リコリスが抑えた声で問う。その幼い顔は緊張しているどころか、不敵な笑みを湛えていた。
「そうみたいだね。どうする? ボク達のお手並み拝見とでもいこうか?」
 左手を腰に当てて挑発的な視線を投げかけてくる空色の髪の言霊使いに、深緑の髪の青年が頭を振った。
「そういう訳にはいかない。リリィとナスタさ……は後方に。セージで……リコリス、カトレアさん、ルージュ、よろしくお願いします」
 五人がシュードに返事をする前に、一行の前に三体の魔物が躍り出た。いずれも青みを帯びた暗い灰色と白を併せ持った毛並みの、狼によく似た魔物である。向かって右側の魔物が牙を剥いたのは、リコリスであった。迫りくる魔物に対して得物を取り出さず身動ぎすらしないリコリスに、戦線を離れたリリィが叫ぶ。
「リコリス!」
 シュードとセージが走るが、間に合わない。小さな痩身が牙の餌食になると思ったリリィはぎゅっと目を瞑る。だが、この場を裂いたのは鈍く硬質な打撃音と獣の悲鳴だ。それに驚いて開けた視界に飛び込んできたのは、今も武器を持たずにどこも怪我をしていないリコリスと怯んで間合いを取っている狼型の魔物であった。
「ボクが弱いとでも思った?」
 リコリスがその童顔に不釣り合いな歪んだ笑みを浮かべて吐き捨てたのは、彼女を真っ先に狙った魔物に対してであったのか、それとも。
 シュードとセージはそれぞれ別の個体と対峙している。カトレアは三人の後ろで杖を構えて何らかの魔術の準備に入り、蔓状の触手を伸ばすルージュはリュックサックに乗るようにしてカトレアの左肩から顔を覗かせていた。
(リコリスは大丈夫そうだな。だが、いつでも加勢できるようにしておかねば)
 リリィは見逃した瞬間を目の当たりにしたシュードは、いつでも三人の、特にカトレアとルージュのサポートができるように身構えつつ敵と向かい合っている。相手が焦れて襲い掛かってくるのはそう遠くなさそうだ。
 セージは先手必勝、攻撃は最大の防御と言わんばかりに積極的に攻撃している。槍の鋭い猛攻をかわすのに精一杯の魔物はじりじりと後退していたが、こちらも恐怖のあまりに攻めに転じるのも時間の問題であろう。
 すると、慣れない雪に踏み込みが甘くなったセージの体が前のめりになった。昨晩降り積もった雪はふわふわと柔らかいが、その下は凍結していたのだ。「うわっ」と足を滑らせたのを好機とばかりに、魔物が大きく跳び退って後ろ脚にぐっと力を込める。踏鞴を踏んだセージが魔物の動きを捉えて息を呑んだその時、カトレアの魔術がかけられる。
「セージ君、力になるわ――〔アクセラレートアロマ〕」
 対象の素早さを一時的に上げると同時に魔力を少し回復させる、無属性の防魔術であった。癒しと加速の香りに包まれた金髪の青年の体が軽くなり、すぐに体勢を立て直して半回転しながら身を引いた。敵の爪をかわすと、こちらを切り裂こうとして飛び込んできた魔物の無防備な胴が眼前に曝される。大きな隙を見逃すセージではなかった。
「〔バーニングスピア〕!」
 炎を纏った槍の穂先が脇腹に深く刺さり、魔物は身を貫かれ焼かれる苦悶の叫びを上げて倒れる。
「よっしゃ! カトレアさん、ルージュ、今行くよ!」
 セージが一撃を見舞い、踵を返してカトレア達の護衛に走っていく向こうでは、丸腰のリコリスが敵を圧倒していた。両手には指先が出た黒い革の手袋が嵌まっているだけ――いや、その手袋の甲には青紫色の四角いエレメントストーンが金細工であしらわれている。見ただけでは分からないが、金属も仕込んである代物だ。小さな拳に魔力を纏わせる彼女は、これを用いた徒手空拳の使い手だったのだ。武器らしい武器を持たずとも戦える訳である。
 空色の髪の言霊使いは右手を握って構え、顔の前に掲げた左手の人差し指と中指の間には何か長方形の薄い物を挟んでいる。表は白地に青紫と金の菱形がいくつかと金色の縁取り、裏は青紫色に金色の縁取りの、言霊使い独自の札だ。低い唸り声を上げる狼型の魔物を、敵意を露にしたサファイアブルーの目で睨む。
 その魔物は呼吸こそ荒いが出血もなく、傍目には深手を負っているようには見えない。だが、急所ばかりを殴られて確実にダメージが蓄積していた。リコリスの細腕では殴打そのものに大した威力はないが、弱点を続けて攻められたとなると話は別である。リリィが見逃し、シュードとセージに魔物をリコリスに任せても問題ないと判断させたあの瞬間、リコリスが放ったのは地属性の体術〔アイアンナックル〕の敵の顎を捉えた一撃であった。
 魔物は定めた目標が誤りであったと悟ったのか、後方のカトレアとルージュに狙いを変えた。相手の視線が自分の後ろを向いたのを見たリコリスはその意図を察し、セージがカトレア達の前に立ちはだかるよりも早く敵の進路を塞ぎながら花の名を唱えた。
「〔あなたを捕まえる(イカリソウ)〕」
 その名の通り錨に似た形の、プレアデス王国では馴染み深い春の花だった。それに呼応して言霊使いの札が青紫色の光を発したかと思えば、魔物が突如動かなくなった。生命活動が停止したのではない。カトレア達に首を回らせた姿勢のまま体が硬直し、身動き一つ叶わないのだ。花言葉を用いた言霊、類い稀なる特殊術が発動したのだった。瞬きと呼吸しか意のままにならない狼型の魔物に悠然と歩み寄ったリコリスは、握った右の拳で顎にアッパーカットを決める。硬く鈍い音と共に仰け反った魔物の腹に、もう一撃叩き込んだ。
「〔ハンティングブロウ〕!」
 無属性の魔力を伴う体術を受け、短い悲鳴を上げた魔物は背中を白い大地について横倒しになる。相手の懐に飛び込んだのも束の間、素早く白い大地を蹴って離れたリコリスの右手にはいつの間にか何かが握られていた。軽やかに着地した彼女の薄い唇から、再び言霊が紡がれる。

- 56 -
*前へ表紙へ次へ#

書庫へ トップページへ
ALICE+