第二章 二十五
自らの目に映ったものが信じがたくて、シュードは思わず目を見張った。ほっそりした背中の持ち主は最後尾からの視線を知る由もなく、氷雪に覆われた大地を慎重に進んでいる。傍目から見れば何の変哲もない青年の後ろ姿だが、ある能力を持つ者には気にかかるものがあった。
人知れず驚くシュードだったが、自分の目の前を歩く少女もまたセージの黒いロングコートに包まれた背を見ていたことには気が付かなかった。
白っぽい曇り空の下を一行がしばらく歩き、もう三十分程歩けば次の憩いの小屋に到着できるかといった頃合いで、リコリスの焦げ茶色のブーツがふと歩みを止めた。彼女がこうするのは魔物の気配が近くにあるからだと悟ったシュードの顔が硬くなる。主たる少女を参戦させることへの、万が一の事態を恐れる心が根底にある緊張だ。
「皆、静かに。……三、いや、四体だな」
幼い声が冷静な分析をすると、出番を約束していたナスタの睫毛と耳がぴくりと動いた。重たげな瞼がいつもより上がって瞳孔が開いたその様子は、何か感知したようである。
「……羽音が……します」
「ナスタは耳がいいんだね。ボクもそんな気がするよ」
「いやいや、そんな悠長なこと言ってる暇ねえんじゃ」
セージが思わず突っこむ後ろで、覚悟を決めた顔つきのシュードが抑えた声で静かに告げた。
「では、ナスタさ……ん、リリィ、カトレアさん、ルージュ、お願いします」
「……はい」
「えっ」
「援護は任せてね」
指名された三人とシュード本人が前に出ると、茂みから複数の魔物が飛び出してきた。青みを帯びた暗い灰色と白を併せ持った毛並みの狼型の魔物と、黒褐色の体に所々白い羽毛を持つ鷲型の魔物が二体ずつだ。どちらもこの地域特有の種で、一行は昨日戦ったことがある。
シュードは最前衛に、ナスタがその後ろ、カトレアとルージュとリリィは後衛に立つ。それぞれが得物を構えると、鷲型の魔物の片方が襲い掛かってきた。大きく鋭い爪をシュードが剣で弾いたところに、ナスタの光属性の攻魔術が発動する。
「――〔ルミナスバレット〕」
平時と変わらぬ静かで平坦な声に導かれ、月光のように仄かに青みを含んで白く輝く光の弾が三発現れたかと思えば、瞬く間に標的の片翼を正確に貫いた。もがれそうになった翼から暗い茶色の大きな羽根を散らして叫び、ぐらりと体勢を大きく崩した鷲型の魔物の腹部にシュードの剣が一閃する。あっという間に一体を倒してしまった。
「早っ!」
「あんなに魔術を早く発動できるなんて……威力もどうなっているの?」
リリィ達よりも後ろで戦況を見守るセージとリコリスが、思わず心の声を漏らした。ミッドナイトブルーの目の少女が短刀を構えてから魔術を完成させるまで、たった十数秒である。古代アズール文明では存在したとされる武器に込める物の名を冠するこの系統の技は、威力が低い代わりに待機時間がとても短い。しかし、二人は彼女程の速さでなし得る者を見たことがなかった。それに、並の人間が同じように魔物の翼を撃ったとしても、この魔術では風穴を開けられるかどうかも怪しい。鍛錬だけでここまで研ぎ澄まされたとは到底思えない、ナスタの生まれ持った魔力の強さと制御の腕の良さを物語る攻魔術であった。
「……」
戦線を離れている二人が呆気に取られている間にも、局面は移っていく。
カトレアが光を放つ赤紫色のエレメントストーンの杖を振り上げ、無属性の攻魔術〔ニードルバイン〕を繰り出した。狼型の魔物の片方の足元から極太の蔓が瞬く間に生えてくると、薔薇の茎のように無数の鋭い棘をつけた蔓が鞭のごとくしなって敵を殴打する。その間に、杖を敵に向けるカトレアの肩のルージュが同じ個体に〔パラライズポーレン〕を浴びせた。対象を麻痺させる花粉で反撃の術を奪う、息の合った連携だ。打撃の痛みと四肢の痺れにふらつく魔物に駆け寄ったシュードが止めに一太刀見舞い、また一体倒れる。
シュードが緑青色のコートの裾をひらりと翻したその先で、リリィは次なる魔術の準備に入っていた。カトレアが攻魔術を放つ数秒前に、霧の民の特殊術〔ディープミスト〕で狼型のもう一体の魔物の能力を一時的に下げつつ水属性のダメージを与えていたのである。濃い霧に包まれた個体が低い唸り声を上げてリリィを睨み、焦げ茶色の目の少女は短い悲鳴を上げた。その様子を駆けながら認めたシュードは相手が後ろ脚に力を込める間に敵の前に立ちはだかり、ヒーラーを背に庇う。
駆け出そうとした魔物の眼前に、今度は巨大な白い羽根のような物がいくつか出現した。風属性の攻魔術〔フェザーバレット〕だ。ナスタの短刀を持った繊手が狼型の魔物を指し示すと、三枚の羽根は弾丸の速さで敵を撃ち抜く。突如目の前に現れた羽根に怯んだ魔物は避けることも逃げることも叶わず、無抵抗に胴を裂かれてよろめくだけだ。そこにシュードが火属性の体術〔フレイムブレード〕を浴びせ、弱点を突かれた敵は白い大地に沈んだ。
「ナスタちゃん! 後ろ!」
カトレアの悲鳴のような叫び声が戦場を裂いた。最後の一体、鷲型の魔物がナスタの背後から滑空してきていたのだ。シュードは狼型の魔物が事切れたのを確認せずに振り向き、鷲型の魔物の爪がナスタを狙っているのを視界に捉える間もなく駆け出す。
(ナスタ様!)
だが、ナスタはカトレアが叫ぶ前から既に左手に簪を握って迎撃の準備を整えていた。魔術を発動させる為の待機が終わっていたのが功を奏したのか、敵の動きを把握していたのだ。振り向きざまに簪を投げつけると、急に停まれない相手は慌てて軌道を逸らしてどうにか躱すが、同時にナスタに攻撃することもできなくなって彼女の脇をただ通り過ぎて行った。長い髪と淡い灰色のコートの裾を靡かせるナスタの、普段の雅やかで淑やかな振る舞いが嘘のような動作であった。戦闘中でも何の感情も浮かばぬ美しい人形のような顔の中で、真夜中の空の色彩の目だけは普段よりも余程生々しい光を宿している。眉の下で切り揃えられた前髪が乱れ、隙間から覗いたものが白い額だけでない気がしたリコリスは、目を瞬いた。
(……今のは……気のせい? いや、確かに――)
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