第二章 二十六
牽制を受けた敵が不本意ながら狙いを外して向かった先にはシュードがいた。上段に振り払うような長剣の軌跡を、魔物は体を九十度回転させてかろうじて避ける。威嚇の叫びと共に急な角度で飛び込んできた魔物の大きな爪が、ただでは済まさないと言わんばかりにシュードの左の二の腕を掠めた。咄嗟の身のこなしとベテルギウスの衣服の厚みで深い傷は免れたが、それでも皮膚が掻き切られて出血する。
(浅いな、これなら問題ない)
鋭い痛みにも声を出さずに顔を微かにしかめて息を呑むだけのシュードは、飛んでいった相手の後ろ姿を目で追う。それと同時に、素早く創傷の程度を感覚だけで掴んだ。負傷にも動じることなく、酷く冷静であった。
「シュウ! 今治すよ――〔ヒーリングミスト〕!」
深緑の髪の青年が旋回してくるであろう魔物を迎撃すべく向き直ったところに、明るい茶髪の少女の特殊術がかけられた。癒しの霧が傷を包み込むと、一条の赤い線は痛みと共にたちまち消えていく。シュードが左腕を確かめることもせずに剣を構え直し、鷲型の魔物が方向転換を終えてこちらを向いたその時、シュードの真横をミッドナイトブルーの長いポニーテールが過った。
(ナスタ様!?)
深緑の切れ長の目が捉えたのは、紛れもなく敵に向かっていくナスタの後ろ姿であった。
「ナスタ、無茶すんな!」
後方のセージが叫ぶも、ナスタの足は止まらない。シュードが一息遅れて追いかける間にも、滑空する魔物はナスタの顔を狙って高度を下げ、間合いを詰めてくる。
真夜中の空の色をした目の光が強くなると共に、武器の刀身が光りだした。短刀の柄に嵌め込んだ淡い紫色のエレメントストーンも、飾りに被せた金属から七輪の桜の形の光をふわりと放っている。魔力を使う前兆だ。走っているだけだったナスタの足取りが、奇妙に変則的になる。まるで優雅に舞っているかのように――
「――そこです」
ナスタと魔物が交錯した後、がくりと体勢を崩したのは鷲型の魔物だった。翼を深く斬られている。彼女は前傾姿勢で魔物の爪や嘴だけでなく翼も躱し、すれ違いざまに光属性の魔力を宿した刃で斬りつけたのである。〔ホーリィワルツ〕と呼ばれる、踊るようなステップが特徴の体術であった。斬りつけた反動を活かして回転し、追撃しようとしたナスタだったが、振り向ききったところで右足を雪に突っ込むようにして動きを止めた。墜落寸前の魔物を間合いに捉えたシュードが、無防備な魔物の背に致命傷の一振りを喰らわせたのだった。最後の敵は少し離れた所に不時着してそのまま絶命し、戦闘は終わった。
「……これで終わりか。皆さん、お怪我はありませんか」
シュードは血振るいをして剣を鞘に収めると、一行の身を案じてからようやく自らの左腕を一瞥した。
「私達は平気よ。でも、あなたが言えることじゃ……腕は大丈夫?」
駆け寄ってきた赤茶色の髪のセラピストがまるで彼女自身が負傷したかのように顔を歪めるので、深緑の髪の青年は困惑の短い感嘆詞と共に答える。
「えっ? 掠り傷ですし、リリィが跡形もなく治してくれましたから、全く問題ありませんよ。リリィ、すまない。助かった」
「ううん、いいよ。シュウ、ちゃんと治ってる?」
「……本当だ、綺麗に治っているね」
明るい茶髪のヒーラーがシュードの左腕を取る傍らで、空色の髪の言霊使いが自身の目線とあまり変わらない位置にあるシュードの左の二の腕を覗き込む。破けた袖の奥の肌には、傷の痕どころか赤みすらもなかった。出血量も非常に少なくリリィが即座に治してくれたおかげで、服に血が滲まずに済んでいる。少し繕えば防寒機能も見目も問題なさそうだ、とシュードが考えたところで、リコリスが感嘆を乗せて呟いた。
「リリィの治癒術の腕は悪くないみたいだね」
「えっ……と、そ、そうかな」
にっこり笑うリコリスの台詞に、リリィは不出来な作り笑いを浮かべて歯切れ悪く返した。悪意や棘があるようなないような、どうにも判断しかねる響きであったのだ。それに、二人と一体には明かしていないが、自分は重代のプレアデス王家直属のヒーラーなのである。ごく浅い裂傷をきちんと治すこともできないと見くびられていたのか、と捉えてしまうと、幼い笑顔の裏の意図を意地悪く深読みしてしまった。それはリリィが抱える治癒術への自信のなさの裏返しでもあったのだが――
ヒーラーの少女の心情を知ってか知らずか、リコリスは魔物に投げつけた簪を拾っていた為に遅れて合流したナスタに笑顔を向けた。
「それにしても、ナスタは戦うのが上手いんだね」
ナスタの表情は変わらなかったが、リコリスの腹の辺りに向けていた視線が足元へ泳いだ。滑らかな白い頬は、寒さや戦闘で火照ったにしては随分と赤らんでいる。分かりやすいのか分かりにくいのか、動揺しているらしい。
「……そ、そう……でしょう、か」
そう返すので精一杯のナスタに、セージが助け舟を出す。
「ああ、あんなに速くて強い魔術を使えるなんてすげえよ。でも、もう無茶しないでくれよな」
「……はい……すみません……」
「あ、いや、今回は無事だったからいいけど、次からは無茶しないでくれればいいんだ」
ナスタの控えめで平坦な声の語尾が消え入るようなのを聞いて、セージは咎め方を柔らかくして言い直す。そこに、リコリスが首を傾げながら疑問を投げかけた。
「でも、さすがに待機時間が短すぎないかい? 武器に何か付けているの?」
「はい……魔術の待機時間を……少々、短縮するピースを」
「そうか、やけに速いと思っていたんだけど、そういうことなら納得だよ」
中性的な幼い声は機嫌よさそうに褒め言葉を続ける。
「攻魔術だけじゃなくて体術もこなせるなんて、本当に凄いよ。こんなに戦えるのなら、毎回戦闘に参加して欲しいぐらいなんだけど」
「いや、それは勘弁してもらえないか」
にこにこするリコリスの口から飛び出したとんでもない要望を、シュードがすぐさま却下した。この台詞がもし敵だったとしたら居合の一閃の元に斬り捨てているのが容易に想像できる、そんな速さであった。
「冗談だよ。それはさすがにナスタも疲れるだろ、ちゃんと分かっているよ」
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