第二章 三十
「……あの傷は、魔物かな。それも多分、狼型の」
「まさか、例のこの辺りのボスか?」
 明るい茶色の目の青年が嫌な予感を携えながら訊けば、サファイアブルーの目の少女は「そうかもしれないね」とあっさり肯定する。淡々とした受け答えは冷たい刃先が指先を掠めるように、脅威の接近を静かに知らしめた。
(血痕から察するに、あの人達は森の中央部から逃げてきたようだが……何があったのか、話を聞けないだろうか。迂回できる道があるといいのだが)
 深緑の目の青年が思案する傍らで、しゃがんでルージュの様子を窺っていたナスタが黄緑色の顔に恐る恐る手を伸ばす。すると、ドーリィローズの幼体はにぱっと口を開けた。そのまま白い指先が控えめに頬を撫でると、魔物の仔は嬉しそうな顔のままでとことことナスタに近寄ってくる。短い両腕を伸ばす様子は抱っこをせがむ幼子そのものだ。ミッドナイトブルーの目の少女はどうしたらいいのか分からずにしばらく固まり、ややあってからシュードとリコリスに無言で視線を送る。普段は何を考えているのか読めない彼女だが、今ならこの場にいる全員が心情を理解できる。救援要請だ。相も変わらず無表情であるが。
「ナスタ、そのまま抱き上げてやりなよ。脇の下に両手を差し込んでごらん」
 ふっと笑みを零して組んでいた腕を腰に当てたリコリスに促され、ナスタはそうっとルージュを持ち上げる。おずおずとしたその様子を見ていたセージは、この調子ではルージュが宙ぶらりんになりかねないと察してにこやかに助言した。
「そうそう、次はそのままルージュを抱き寄せてみなよ」
 ナスタは言われた通りにルージュを胸元に引き寄せた。とはいうものの、胴体を抱えたまま腕を折っているだけなので、端から見ればあまりにもぎこちなくて抱擁と呼べるかどうかも怪しい。それでも魔物の仔は喜んでいるようで、ナスタに頬を摺り寄せている。背景の鉄臭い惨状を除けば、微笑ましい光景であった。
(リコリスもセージ殿下も、随分と面倒見がいいのだな。それにしても……)
 ぼろを出す恐れで主に手を差し伸べられなかったシュードは、二人の世話好きな一面を垣間見た。それと同時に、ドーリィローズの幼体に触れることが初めてのような姫君の境遇を思う。本来ならば成人の儀を終えている筈なのに、今の彼女は実年齢よりもずっと幼く感じられる。丸くした目が、今度は細められた。
(ナスタ様も、ドーリィローズに触れてみたいと思われるのか。このお方も、やんごとなきお生まれであらせられなければ、魔物の仔と触れ合うことなどとうの昔にできていたかもしれないのに)
 そこまで考えて、シュードははっと目を見開いた。自分は一体、何を想像したのか――
「シュード君」
 ドアが開く音と軽やかなベルの音のすぐ後に、カトレアの深緑の髪の青年を呼ぶ声がした。ぱっと振り向けば、赤茶色の髪の女性が宿の入り口から出てくるところである。
「応急処置は終わったわ。お宿の二階の六人部屋に皆さんを運ぶのだけど、手伝ってくれませんか?」
「はい、分かりました」
「じゃあオレも!」
 シュードが制する間もなく金髪の青年は宿に入っていってしまい、シュードはナスタとリコリスにロビーにいるように伝えてから後を追った。


「手伝ってくれてありがとう。とりあえず、大事には至らないと思うわ」
 ロビーに戻ってきたリリィの開口一番はこの台詞であった。道中の彼女は細い脚が鉄球でも引きずっているかのようであったが、愛らしい顔に浮かぶ疲労の色は大分薄くなっている。緊張状態で体の不調を感知しにくくなっているらしい。
「リリィちゃんもお疲れ。カトレアさんもお疲れ様です」
 セージが労いの言葉をかけると、曇った顔のカトレアが口を開いた。
「あの人達、ここから少し先に行った辺りで魔物の群れに襲われたんですって。額に傷のある、とても大きな狼がボスみたいだったって。私達がこの道を通るのは二年ぶりくらいだけど、その間にこの辺りを縄張りにしたのかしら」
「ボク達が前に来た時は、そんなに大きい狼の話は聞いたことがなかったからね。そうかもしれない」
 一行の誰もが予想していた通りの加害者の正体を聞いて、シュードが祈りを込めながらカトレアに問うた。
「カトレアさん、迂回経路はありませんか」
「……遠回りする道はあるのだけど、私達が進む予定の道から迂回路に出る前の辺りで襲われたって話ですから……」
「……迂回する前に遭遇する可能性が高い、ということですね」
 シュードは頭を抱えて深いため息を吐きたくなった。カトレアには何の罪もないのでそれはぐっと堪えたが、落胆の色を隠しきれたかどうかは怪しい。
 ここで、何やら言いにくそうな顔をしたリリィがシュードを呼んだ。
「怪我した人達が心配なの。今日だけでいいから、ここにいさせてもらえないかな」
 怪我人を放っておけないから頷きたい気持ちと、先を急ぐ旅だから駄目だと首を横に振りたい気持ちが、シュードの中でせめぎ合った。答えに窮していると、先程の壮年男性が現れる。
「この度はありがとうございました。私はこの憩いの小屋のオーナーです。何とお礼を申し上げたらよろしいのか……」
「いえ、気にしないで下さい」
「お役に立てたのなら何よりです」
 セージとカトレアがにこやかに応対すると、宿の主人は何やら言いにくそうに口をもごもごさせてから、おずおずとこんなことを言い出した。
「あの……大変恐縮ですが、もしよろしければ、本日は是非ともこちらにお泊まりいただけないでしょうか。実は、ヒーラーの到着が今夜になりそうでして。勿論、お代はいただきませんし、お客様のご都合がよろしければで構いませんので」
 それを聞いて、一行はお互いに顔を見合わせた。憩いの小屋では何軒かに一軒はヒーラーやセラピストを雇い、今回のような怪我人や急病人に備えている。シュード達が初めて泊まった憩いの小屋で出会ったリリィの叔母もそうだ。だが、ここには常駐していないのか出張しているのか、あいにく席を外しているらしい。
「丁度いいんじゃない? 服もそろそろ洗った方がいいと思うし、キミ達もしっかり休んだ方がいいと思うよ」
 そう言ったのはリコリスだった。腰に手を当てる彼女は、少年のような声で承諾に一票を投じる。カトレアも続いた。

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