第二章 三十三
 当人に寝惚けた声で突然呼ばれて、シュードの肩が跳ねた。カップの中の極々薄い麦茶、というよりも麦茶の色と香りがほんのりついた湯が危うく零れるところであった。ついでに言うとナスタの布団も同時に控えめながら蠢いたので、やはり姫君は起きているらしい。
 シュードが返事をせずに観察を続ければ、目を閉じたままで何やら満足そうに口角を上げるアルデバラン王国第三王子殿下はごろんとナスタの背中がある方に寝返りを打った。息を潜めていると、暖炉で火が爆ぜる音に紛れて穏やかな寝息が聞こえてくる。どうやらシュードが登場する夢を見ているらしい。それも当人としては喜ばしい内容のようだ。
(プレアデスを発ってから今日まで、寝室をご一緒してきたが……隣国の騎士とはいえ、初対面の俺がいるのによく御寝あそばされるものだ。お隣ではナスタ様もお休みになられているのに)
 必要に迫られたからであるし、プレアデスの近衛騎士たるシュードが無礼を働こうものなら二国間に緊張が走る御仁故に安心しているのかもしれないが、セージは旅の初日からシュードの隣ですやすやと眠っていた。勿論、シュードも何かしようなどと微塵も思っていないが、それでもいささか無防備が過ぎる気がするのだ。
(……どうしてだろうか)
 人畜無害と認定されたのであろうが、よく知りもしない自分に何故そこまで堂々と隙を見せられるのか、シュードには分からなかった。


 ――その日の十七時頃に憩いの小屋のヒーラーが到着し、リリィとカトレアの治療や看護の甲斐もあって、五人の負傷者は十日程安静にすれば問題なさそうだとの診断だった。一行は明日の朝にここを発てることになり、宿泊費と食事代を無料にしてもらうだけでなく、薬や食料などもお礼に貰ったのであった。


 一行は明くる朝の七時前に五つ目の憩いの小屋を出発した。シュード達はベテルギウスに着いてから初めてゆっくり休めたのだが、蓄積した疲労の全てが取れた訳ではない。それでも体は幾分か軽いように感じられたのであった。寝起きの悪いリリィが今朝はそれ程ぐずらずに起床できたのは、この地の時の流れに慣れてきただけではなさそうである。
 宿の敷地内の血痕は綺麗に掃除され、昨日の昼間に怪我人が命からがら逃げ込んできたのが嘘のようであった。だが、森に入るとあの光景は幻でなかったことを突き付けられる。複数の足跡を掻き消すように咲き乱れるのは酸化して暗く淀んだ赤い華だ。一行を森の中央部へと誘うようなそれは、彼らの鼻が寒さで湿ってきたこともあって鉄の臭いはほとんどしないが、二の足を踏ませるには十分であった。シュードはプレアデス王国に咲く彼岸花を思い出したが、それにしてはこの黒っぽい赤茶色は不吉ながらも美しい花の妖艶さを台無しにして気味の悪さだけを視覚に訴えてくる気がしたので、この例えは不適切だと頭を振った。
「ここから十分か十五分ぐらい歩くと迂回路に出られるよ」
 リコリスは変色した大量の血痕を前にしても顔色一つ変えずにそう告げた。その後ろのセージが苦虫を噛み潰したような表情で懸念を示す。
「この辺りが縄張りってことなら、遠回りしてもあんま意味なさそうだよな」
「こればかりは分かりませんね。シュード君、どうするの?」
 セージの言う通りだった。迂回路を通ろうとも、そこも狼型の魔物の行動範囲であれば遭遇する可能性は消えないのだ。眉を下げたカトレアに尋ねられたシュードは、不安そうなリリィと相変わらず無表情のナスタを一瞥すると、改めて腹を括った。
「迂回せずに、当初の予定通りの道を行きましょう。よろしくお願いします」


 アルバウィスの森の中央へと手招きするかのごとき血痕を辿るように進む一行の最後尾で、深緑の髪の青年は違和感を覚えていた。魔物の気配がしないのだ。人間とドーリィローズの幼体を狙う魔物は決して少なくない。だからシュード達は道中での戦闘を幾度も余儀なくされてきた。
 それなのに、こちらに向けられる敵意も、魔物の鳴き声や羽音も、感じ取れない。魔物避けの魔陣の効果がわずかながらここまで届いているから、などという前向きな理由は、シュードの頭には微塵も浮かばなかった。巨大な狼型の魔物に脅威を感じる他の魔物が息を殺しているのだろう、という悲観的な推測も、彼の抱く焦燥感の前には無力だった。今の状況が嵐の前の静けさそのものであっては困る、これでは遭遇する未来しかないではないか――シュードの中で大きく育った嫌な予感がゆらりと鎌首をもたげた、その時であった。
「――皆、静かに」
 リコリスの幼く抑えた声が、やけに静かな森を裂いた。シュードが予感の的中を嘆く間もなく、リリィが怯えた顔で悲鳴を上げる。
「なっ、何?」
 皆まで言わずとも分かっているだろうに訊いてしまうリリィの胸中にシュードやセージが共感する前に、シュードの耳にも魔物の足音が聞こえてしまった。「待ちくたびれたよ」だなんて嗤う嫌な予感を斬り捨ててしまいたい、と非現実的な思考をするシュードの体は、持ち主が行動を決定するよりも遥かに速く得物の柄に手をやってナスタとセージの前に出る。
「見つかった。前からこっちに来るよ、早く構えて」
「そ、そんなっ……」
 至極冷静なリコリスの後ろでリリィが狼狽えている間にも、魔物の足跡は大きくなっていく。あっという間に狼型の魔物達が一行の眼前に現れた。中央に陣取る一体は他の個体よりも二回り以上大きく、体長はリリィどころか百七十八センチメートルのシュードの背丈を超えていそうだ。額に大きな十字型の傷のあるこの魔物が、話に聞いた魔物のボスのようだ。一般的な大きさの魔物は三体いて、青みを帯びた暗い灰色と白を併せ持った毛並みはボスと同じである。
 あまりの大きさに、リリィが息を呑んで後退る。
「っ……きゃあ!?」
「リリィ!?」
 間の悪いことに、リリィは足を滑らせてしまった。全員が悲鳴の発生源を見て、先頭のリコリスが咄嗟に派手に尻餅をついた少女の元に走る。腕を引っ張って助け起こそうとするが、リリィは恐怖で腰が抜けたらしく、敵がすぐそこにいるというのになかなか立ち上がれない。
 それを好機と捉えた魔物のボスが、声もなく跳びかかってきた。リコリスがリリィを庇おうとするが、このままではとても避けられない。

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