第二章 三十五
 シュードはボスの足元に展開する魔陣を認めて焦った。同時に、自らと対峙する魔物の意図を悟る。ボスの邪魔をさせないように、その身を挺して囮になっているのだ。狼の忠誠心の高さに、シュードは舌打ちしたくなる。
 この不利な状況でも誰にも応援を頼めず、一人で対処しようとするシュードの後ろで、静かで平坦な声が火属性の攻魔術の名を紡いだ。
「――〔フレイムバレット〕」
 素早く放たれた三発の火炎弾が、深緑の髪の青年と交戦していた個体の額と胴体を抉る。魔物の絶叫と毛や肉の焦げる嫌な臭いを物ともせず、援護を受けたシュードの剣が好機に閃いた。正確に首と腹を深々と斬ると、為す術のない相手は断末魔の咆哮を響かせて白い大地に沈み、そのまま動かなくなった。
 二体目の魔物を倒したその時、魔術を使った直後で動けないナスタの足元が不意に光った。いつの間にか魔陣が展開しているが、これは彼女の魔力で描かれたものではない。狼型の魔物のボスのもの――つまり、敵の攻魔術が発動する前兆だ。戦況を一目で把握して主の危機を悟ったシュードは血の毛が引く間もなく叫んだ。
「〔サンドウォール〕!」
 ナスタの足元に地属性の防魔術の円陣が現れた数秒後に、そこから砂がざっと噴き上がった。大量の砂にナスタが包み込まれた直後に、氷柱状の鋭利な氷の棘が幾本も突き上げる。瞬く間に特大の剣山のようになったその中央から、一際太く大きな氷柱が遅れて地面を割った。氷属性の攻魔術〔アイスエッジ〕だ。
 だが、直撃を受けた筈のナスタの悲鳴はいつまで経っても上がらない。砂の壁が崩れると、ミッドナイトブルーの髪の少女は平然と立っていた。奇妙なことに、氷の棘はほとんどが先端から半ばまでを失っている。最も太い氷柱に至っては根本しか残っていない。近衛騎士の守りの砂が氷柱を削り、姫君を庇ったのであった。よくよく見ればブーツにうっすらと掠り傷がついているが、〔サンドウォール〕に加えて〔七星の盾〕の効果と彼女の本来の魔力防御力の高さ故にその程度で済んでいるらしい。
 ナスタの無事を確認して安堵の息を吐く間もなく、シュードは敵に頭を回らす。聡明さが窺える深緑の切れ長の瞳の奥に、何かが揺らめいた。
 魔物のボスが一段と低く唸る。それが何らかの合図であったのか、取り巻きの最後の一体が後方に跳躍して一行と大きく間合いを取った。一体何を仕掛けてくるのかと、四人と一体は身構える。
 すると、魔物のボスの足元にまた魔陣が現れたのだ。先程の〔アイスエッジ〕と同様に、剣のようなモチーフがいくつも組み込まれている。一行全員が、ボスの使う魔術の種類を見破った。
(あれは、また攻魔術か!)
 魔陣は種類ごとに特定のモチーフを円陣の外部で放射線状に複数個展開するのだ。防魔術は盾を連想させる多角形、治癒術は角のない円形である。そのどちらでもないこれは、シュード達に危害を加えんが為の攻魔術だ。
 四人が攻魔術に備えていると、ボスの足元のものと同じ模様の魔陣がカトレアとルージュの足元に現れた。こちらに描かれたのは、直径三メートルはありそうな代物だ。小さめながらも複数を標的にできる範囲攻撃のようで、ナスタも魔陣に入ってしまっている。
「そこから出て下さい!」
 後衛二人が狙われたのを認めた瞬間、シュードは叫んだ。それを受けてか否か、ナスタは直ちに有効範囲外に逃げる。魔陣の端にいたのが幸いしたのか、避難は迅速だった。
「きゃっ」
 しかし、足が縺れたカトレアは転んでしまった。その衝撃でルージュがリュックサックの上から転げ落ちてしまう。どちらもあと少しで魔陣から出られるのに、発動まで時間がない。シュードは防魔術を使おうとし、セージが走り、戦線から離れているリコリスとリリィもカトレア達を呼ぶが、いずれもとても間に合わない。
 突如、カトレアとルージュの下に新たな魔陣が描かれる。シュードが魔術の種類と持ち主を一目で悟るのと同時に、セラピストと魔物の仔を白い光のドームが包んだ。
 その直後に、氷の礫が通り雨のように降り始めた。魔陣の中にだけ降り注ぐこれが、狼型の魔物のボスが行使した氷属性の攻魔術〔アイシクルレイン〕であった。
 しかし、直径三センチメートル程の氷の礫は光の壁に阻まれて何者をも傷付けることなく砕けていく。カトレア達の無事を確認したシュードは、術者に視線を移す。光属性の防魔術〔ホーリィドーム〕を発動したのは、短刀を握った右手をカトレア達に向けて座標を指定していたナスタであった。その面持ちは美しく整っているが、一人と一体を守った安堵も達成感も、心の動きが何も感じ取れない。彼女が右手を下げながら踵を返すと、淡い灰色のコートと白いニットワンピースが翻る。それに伴って、腰まである長いポニーテールがミッドナイトブルーの軌跡を描いた。
「ナスタは防魔術も使えるのか。もしかして、治癒術もできるの?」
 一部始終を見ていたリコリスがふと尋ねると、リリィはあっけからんと答えた。
「え? うん、魔術全般は得意なんだって」
「……そうなんだ」
 至極当然、何を今更といったような調子の回答に、リコリスはリリィに肩を貸しながら戦場をじっと見つめたままで、独り言のように返した。
 戦線を離れている二人が会話している間も、戦局は移り変わっていく。
 攻魔術では効果的なダメージを与えられないと判断したのか、狼型の魔物のボスが四人との間合いを詰めてきた。この種の平均的な個体よりも二回りは大きな体にも関わらず、取り巻きの個体と変わらぬ、いや、それ以上に俊敏な動きである。あっという間に最前衛のセージの目前にまで迫ってきたボスが、駆けた勢いを活かして鋭い爪を繰り出してきた。速さが加わってより重たい一撃に、槍の柄で受け止めたセージが短く呻いて踏鞴を踏む。
「セージ君!」
 態勢を立て直したカトレアが叫ぶが、鍔迫り合いのような攻防に持ち込まれたセージに応じる余裕はなかった。長槍の赤い柄を懸命に支えるセージは歯を食い縛るが、その細い両腕は震えている。日頃から鍛えているとはいえ、この規格外の巨躯の重さは堪えるのだ。純粋な力比べでは勝ち目がなく、また雪に不慣れな金の巻き毛の青年が足を滑らせない保証はどこにもない。今にも守りを崩されそうなのは火を見るよりも明らかであった。

- 73 -
*前へ表紙へ次へ#

書庫へ トップページへ
ALICE+